仏木坂の戦い
仏木坂の戦い
「豊臣秀吉」が天下を手中に収めた頃、肥後国(現在の熊本県)の天草で、「天草五人衆」(あまくさごにんしゅう)と呼ばれる土豪達の反乱が勃発。いわゆる「天正の天草合戦」です。そのなかで、戦国時代には珍しい大将同士の一騎打ちが実現した合戦があります。それは、「加藤清正」と「木山弾正」(きやまだんじょう)が干戈を交えた「仏木坂の戦い」(ぶっきざかのたたかい)です。かつて仏木坂の戦いが繰り広げられた熊本県天草郡苓北町の古戦場「仏木坂古戦場」をご紹介します。
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仏木坂の戦いの概要

豊臣秀吉が天草五人衆討伐を命じた原因

戦国時代、天草地方には有力な戦国大名がおらず、天草五人衆と呼ばれる豪族が天草を仕切っていました。その時々の大勢力に属することで命脈を保ち続け、豊臣秀吉が九州を平定した際も、豊臣政権に属することで領土の保証を得ていました。

つまり、自分達は家臣ではなく、あくまで豊臣政権に協力している立場だと認識していたのです。しかし、豊臣秀吉から肥後国の南半分を配された「小西行長」(こにしゆきなが)が、天草五人衆を半ば強制的に与力に加え、城普請の手伝いを命じます。

土豪としての独立性を侵されたと感じた天草五人衆は、この命令を断固拒否。すると豊臣秀吉は、すみやかに討伐命令を下したのでした。

木山弾正と加藤清正による一騎打ち

加藤清正

加藤清正

小西行長は3,000の兵を家臣に与え、天草五人衆でもっとも反抗的だった「志岐氏」(しきし)の城を攻めさせます。しかし、小西勢は壊滅に近いかたちで敗退。これにより小西行長は、隣国の加藤清正に助力を要請します。

加藤軍は総勢約8,000の兵で志岐氏が守る城を囲み、一気に制圧する構えを見せました。すると天草五人衆の一員である「天草氏」は、約1,200の軍勢を援軍として派遣。

このうち約500は木山弾正が率いました。もとは木山城(熊本県上益城郡)の城主だった人物ですが、島津氏に攻められた際に城を失い、天草氏のもとに身を寄せていた荒武者です。

1589年(天正17年)11月5日明け方、木山弾正は手勢を率いて、約1,500人で守る加藤清正の本陣に突撃を敢行します。戦いは大混戦となりますが、決着は意外なかたちで付けられました。木山弾正の誘いに加藤清正が乗る格好で、大将同士の一騎打ちが実現したのです。

結果は加藤清正に軍配が上がりました。腕に自信を持っていた木山弾正ですが、加藤清正も豊臣政権随一の剛の者。朝鮮出兵のときなどは素手で虎を退治したほどの男です。その武勇を見せ付ける格好で、「仏木坂の戦い」は幕を閉じました。

ちなみに木山弾正の最期に関しては、「仏木坂伝説」という伝承があります。夕暮れ時、顔が見えないほど日が暮れていた最中に大将が取っ組み合いとなり、そこへ木山弾正の家臣が到着。「我が殿はいずれに」と問いかけたとき、とっさに加藤清正が「下だ」と答えたため、下に組み敷かれていた木山弾正が槍で刺されたというのです。

実は木山弾正は吃り癖のある武将でした。そのため、とっさに答えることができなかったのです。これはあくまで伝承のため、真偽は定かではありません。木山弾正の戦死をきっかけに、やがて志岐城は落城。天正の天草合戦は終結を迎えました。なお、志岐城での戦いでは、木山弾正の妻も夫の無念を晴らすべく出陣し、討ち取られています。

仏木坂の戦い古戦場

仏木坂古戦場

仏木坂の戦いの舞台となった地には、「古戦場 仏木坂」と刻まれた石碑が立っています。オレンジロードと呼ばれる農道沿いにあり、そこから約100m西へ進むと「木山弾正無念坂」という坂道が延びています。

見た目は上り坂にもかかわらず、実際は下り坂だという不思議な坂道です。アクセスは周辺に公共交通機関がほとんどないため車やタクシーがおすすめ。天草空港から車で約25分です。

仏木坂古戦場のアクセス

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「仏木坂古戦場」施設情報

「仏木坂古戦場」の施設情報です。

所在地 〒863-2502
熊本県天草郡苓北町志岐 オレンジロード
電話番号 0969-35-1111
交通アクセス
  • 熊本市から車で2時間30分
  • 九州自動車道松橋ICから車で2時間10分
  • 天草空港から車で25分
  • 長崎茂木港から富岡港までフェリーで70分。富岡港から車で20分
休館日 なし
駐車場 あり
入場料 無料
公式サイト -

仏木坂の戦い/観光・案内サイトのご紹介

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