備中高松城の水攻め
備中高松城の水攻め
「備中高松城の水攻め」とは、近畿地方の平定に成功した「織田信長」が、中国地方攻略による天下統一を狙い、1582年(天正10年)、羽柴秀吉(のちの「豊臣秀吉」)に命じ、難攻不落と言われた「備中高松城」を、「水攻め」という奇策で攻略した戦いです。この備中高松城の水攻めは、「三木の干殺し」、「鳥取の飢え殺し」と合わせて、「秀吉三大城攻め」とも呼ばれています。かつて備中高松城の水攻めが繰り広げられた岡山県岡山市の古戦場高松城跡をご紹介します。
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備中高松城の水攻めの概要

織田信長が「中国攻め」を開始

織田信長

織田信長

織田信長が、近畿地方の次に攻略しようとしたのが中国地方を治める毛利氏でした。1577年(天正5年)、織田信長は、羽柴秀吉に「中国攻め」の総大将を命じ、「毛利輝元」の統治する中国地方への侵攻を開始します。

この直前に、備前(現在の岡山県南東部)の宇喜多直家が織田側に付いたことにより、羽柴秀吉軍と毛利軍の最前線は、備前と備中(現在の岡山県西部)の国境となっていました。

毛利軍はこの国境を守るべく、この国境沿いに、毛利側に付いている豪族達の「境目七城」(宮路山城・冠山城・備中高松城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を南北に連なるようにして配置し、備中高松城を防衛の要としました。

1582年(天正10年)3月15日、羽柴秀吉はこの境目七城を攻略すべく、姫路城から備中へ向け、20,000の軍を率いて出陣します。さらに宇喜多軍10,000の兵も加わり、総勢30,000の軍となって進軍し、加茂城、日幡城、宮路山城、冠山城の諸城を次々と攻略。残すは備中高松城と庭瀬城のみとなりました。

防衛の要となっていた備中高松城は、湿地帯に築城された「沼城」で、沼地が天然のとなっていたことから、鉄砲や騎馬戦法といった力攻めでは容易に破れない難攻不落の城でした。備中高松城の城主だった「清水宗治」は、3,000~5,000余りの兵と共に籠城し、応戦します。兵力差で見れば圧倒的に羽柴秀吉軍が有利でしたが、湿地帯という地の利もあり、さすがの羽柴秀吉も攻めあぐねていました。

黒田官兵衛の水攻め作戦

黒田官兵衛

黒田官兵衛

戦いが膠着状態となり、羽柴秀吉らが軍議を重ねる中、軍師の「黒田官兵衛」が水攻めと言う奇策を羽柴秀吉に進言します。

水攻め作戦とは、周囲の川の進路を変えるために城の周囲に堤防を築き、近くを流れる「足守川」(あしもりがわ)を決壊させ、その水を城側に引き入れて城を水没させるという、まさに湿地という地勢を逆手に取った作戦でした。

羽柴秀吉はこの案を受け入れ、金銭や米と引き換えに、築城を得意にした建築者や周辺の農民を雇い、備中高松城の近くを流れている足守川沿いの「蛙ヶ鼻」(かわずがはな)から、長さ約2.7km、高さ約7m、幅(上部)約10mもの堤防を、わずか12日間で完成させたのです。

季節が梅雨の時期だったことも後押しとなり、この水攻め作戦は功を奏し、降り続いた雨によって足守川は増水。足守川の水が城の周りに引き入れられ、備中高松城は、みるみる湖に浮かぶ孤島と化し、城内も水浸しとなりました。

この連絡を受けた毛利輝元は、すぐに援軍を送りますが、時すでに遅し。毛利軍が駆け付けたときには城に近付くことができず、救援できる状況ではありませんでした。次第に城内の兵糧も尽きて兵士達の疲労も極限状態に達し、もはや降伏を待つばかりの状況となりました。

和睦交渉と中国大返し

毛利輝元

毛利輝元

備中高松城の状況を見た毛利輝元は、兵士達を見殺しにする訳にはいかないと、羽柴秀吉に中国5ヵ国(備中、備後、美作、伯耆、出雲)の譲渡と、清水宗治と備中高松城の兵士達の安全を条件とした講和を申し入れます。

これに対し羽柴秀吉は、中国5ヵ国の譲渡は受け入れたものの、清水宗治と兵士達の安全については拒否。和睦交渉は決裂したかと思われた矢先、羽柴秀吉のもとに「織田信長が明智光秀に討たれた」と言う一報が入ってきます。

優位な立場で交渉を進められるはずだった羽柴秀吉でしたが、主君・織田信長の敵討ちを最優先するため、毛利軍との戦いをいち早く終わらせようと決意。織田信長の死を隠しながら、毛利氏に対して「3日以内に和睦すれば、領土も5ヵ国から備中、美作、伯耆の3ヵ国に譲歩し、兵士達も助ける。ただし、清水宗治の首を差し出せ」と言い渡しました。

この条件を聞いた清水宗治は、主君である毛利氏の安泰と、城の兵士達のために切腹を決意。水没した城から小舟で羽柴軍の本陣まで出向いた清水宗治は、目の前で舞を踊り、美しい辞世の句を詠んだあとに切腹。羽柴秀吉は、清水宗治の武士としての姿を称賛して最期を見届けると、毛利軍の状況も見つつ、織田信長の仇・明智光秀を討つため、京都へと全軍を率いて進軍を開始したのです。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)

羽柴秀吉(豊臣秀吉)

羽柴秀吉は一刻も早く京都に戻るため、身軽な状態なら京都への到着も早まるだろうと「足軽」(最下級の兵士)に装備を捨てるよう指示します。これにより、中国地方から京都までおよそ230kmの距離を、わずか10日で到着。この驚異的な速さで戻ったことから「中国大返し」と呼ばれました。

その後、織田信長を倒した明智光秀と、織田信長の敵討ちに燃える羽柴秀吉との「山崎の戦い」へと繋がっていったのです。

この水攻めという奇策によって、難攻不落の城・備中高松城は開城されることとなり、結果毛利氏は3ヵ国を譲渡することとなりました。

その後、毛利氏は天下ではなく家名存続を優先し、豊臣秀吉支持の姿勢を見せることで和睦を維持します。四国征伐や朝鮮出兵などでの活躍が豊臣秀吉に認められ、毛利輝元と叔父の「小早川隆景」は豊臣政権の「五大老」となり、毛利氏の家名を幕末まで残しました。

備中高松城の水攻めの古戦場

蛙ヶ鼻築堤跡

「蛙ヶ鼻築堤跡」(かわずがはなちくていあと)は、黒田官兵衛の奇策によって、羽柴秀吉が築いた堤防です。殆どの堤防は消滅しましたが蛙ヶ鼻周辺だけ唯一残っています。1929年(昭和4年)に国指定史跡に指定され、岡山市教育委員会による実地調査により、幅24mにわたる土俵の跡も出現しています。

高松城水攻め史跡公園

高松城水攻め史跡公園

高松城水攻め史跡公園

「高松城水攻め史跡公園」は、蛙ヶ鼻築堤跡や「備中高松城跡」などを保存していくため、史跡公園として整備され、国の史跡に指定されています。

公園内には、発掘された杭列や土俵の痕跡等が展示されています。

備中高松城跡

備中高松城 本丸跡

備中高松城 本丸跡

備中高松城跡は「続日本百名城」に選ばれており、歴史資料館を併設する公園として整備されています。

1982年(昭和57年)に岡山市によって沼が復元され、約400年間地下で眠っていた蓮が自然とよみがえり繁殖。現在では「宗治蓮」と名付けられ、毎年7月中旬には多くの蓮の花が咲き誇り、訪れる人の目を楽しませてくれます。

また、備中高松城跡の敷地内には、水攻めの際に築かれた堤防の大きさを示す表示板や、各武将の陣の配置図などが設置されており、戦国時代の戦いの様子を詳細に知ることができるようになっています。

また、「高松城址公園資料館」もあり、水攻めの古図や境目七城などに関する資料を無料で観ることができます。なかでも、武将のが立てられたジオラマは必見です。

この他にも、備中高松城の水攻めに関するエピソードを紹介するビデオ鑑賞がおすすめ。和睦交渉に至る駆け引きや、「本能寺の変」にまつわる情報戦などの様子が分かりやすく解説されています。

備中高松城の水攻め YouTube動画

備中高松城の水攻め

「高松城跡」施設情報

「高松城跡」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒701-1335
岡山県岡山市北区高松
電話番号 086-287-5588
交通アクセス JR吉備線「備中高松」下車 徒歩10分

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駐車場 有り
入場料 無料
公式サイト -

高松城跡のアクセス

高松城跡
高松城跡
高松城跡
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約400年間地下で眠っていた宗治蓮です。
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宗治蓮は、橋の上からも楽しむことができます。
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清水宗治の首塚です。
清水宗治の首塚です。
清水宗治の辞世の句です。
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清水宗治城趾碑です。
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秀吉率いる織田軍側から見た水攻めの様子が描かれています。
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備中高松城水攻図案内盤です。
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備中高松城水攻めの図です。
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