西郷隆盛
「薩摩藩」(現在の鹿児島県)の下級武士だった「西郷隆盛」は、藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)に見出され、江戸へと足を運ぶようになります。
江戸幕府倒幕の機運が高まった1866年(慶応2年)に、薩摩藩の代表として「長州藩」(現在の山口県)と会見。
「坂本龍馬」らの仲介のもと「薩長同盟」を結び、江戸幕府を倒幕へと追い込みました。
江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が天皇に政権を返上した「大政奉還」(たいせいほうかん)のあと、薩長(薩摩藩・長州藩)や「岩倉具視」(いわくらともみ)らが中心となり、徳川家が政治に関与しないよう「王政復古の大号令」を発布。天皇を中心とする新政府が樹立されました。
これに対し、辞官や納地を不服とした徳川慶喜は、旧幕府軍として挙兵。1868年(慶応4年/明治元年)~1869年(明治2年)旧幕府軍と新政府軍による「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発します。
西郷隆盛は、新政府軍の参謀となり采配を振り、薩摩軍は新政府軍に大勝利をもたらしました。そして、新政府軍による江戸城総攻撃は、西郷隆盛と「勝海舟」の会談により取り止めとなり、「江戸城無血開城」が実現したのです。江戸城無血開城は、世界でも稀にみる戦乱の平和的解決として評価されています。
西郷隆盛は、明治新政府でも参議となり、様々な近代化政策を打ち出すなど、明治維新の立役者として活躍。西郷隆盛がいなければ、明治維新は成しえなかったとまで言われています。
「長州藩」をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
「薩摩藩」をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
徳川十五代将軍のひとり、第15代将軍・徳川慶喜についてご紹介します。
坂本龍馬の生い立ちや人物像、実力者の実績などの詳細をご紹介します。
西郷隆盛のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
坂本龍馬のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
勝海舟のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
武将達が戦った戊辰戦争(会津戦争)の古戦場をご紹介!
江戸幕府と「李氏朝鮮」(りしちょうせん:現在の朝鮮半島)は、両国共に「鎖国政策」(さこくせいさく:外国との通行、貿易を禁止、または制限する政策)を布くなかでも、国交がありました。明治政府は、李氏朝鮮に対して、江戸幕府同様に明治政府とも国交を求める親書を送りましたが、李氏朝鮮は頑なに拒絶。明治政府を日本の新政府と認めない意思を示していました。
そこで「江藤新平」(えとうしんぺい)や「板垣退助」(いたがきたいすけ)らは、武力で開国を迫る「征韓論」(せいかんろん)を主張します。この主張の背景には、明治維新により多くの特権を奪われた武士の不満を国外へそらせるという目的もありました。西郷隆盛は自らが朝鮮に赴き、平和的に開国要求を行なうと主張。1873年(明治6年)10月、閣議において西郷隆盛の朝鮮派遣が決定します。
岩倉具視
しかし、西郷隆盛の朝鮮派遣に反対したのが、欧米視察を終えて帰国した岩倉具視や「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「木戸孝允」(きどたかよし)です。
彼らは、万一、西郷隆盛が殺される事態になれば戦争になりかねないこと、戦争になった場合、日本の軍事力では負ける可能性が高いこと、今は国内の政治を優先させるべきという観点から、征韓論に異議を唱えます。そしてついには、決定していた朝鮮派遣までも中止となるのです。
「明治6年の政変」と呼ばれるこの事件により、西郷隆盛や江藤新平、板垣退助は明治政府を去ることになりました。明治政府で影響力のあった3人が辞めたことにより、同調して辞職する官僚と軍人が続出。その数、約600人にも上ったと言われています。
征韓論の賛否は、新政府への不信感を生むきっかけとなり「西南戦争」の火種になりました。
歴史上の人物が活躍した西南戦争をご紹介!
明治政府を去った西郷隆盛は、郷里の鹿児島に戻ったのち、後進の育成に努めます。1873年(明治6年)には私学校を開き、若者達に「文・武・農」を教え、人材育成、軍事訓練に励みました。しかし、征韓論に敗れた者のなかには、主張を通そうと新政府に楯突く者も現れます。
1874年(明治7年)には、不満が爆発した佐賀藩(現在の佐賀県、長崎県の一部)の士族が江藤新平を担ぎ「佐賀の乱」を蜂起。江藤新平は裁判により処刑が決まり、晒し首となりました。また、1876年(明治9年)熊本では「神風連の乱」(しんぷうれんのらん)、福岡では「秋月の乱」など、佐賀の乱と同様に不平士族による明治政府への反乱が相次ぎました。
しかし、西郷隆盛は相次ぐ士族の反乱に加担することなく、後進育成に注力。西郷隆盛が作った私学校は鹿児島県の支援もあり、どんどん勢力を増大して行きました。ついには、私学校出身者が県政を牛耳るようになり、新政府は鹿児島県を警戒せざるを得ない状況に発展していきます。
「佐賀藩」をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
当時の建物や町並みが楽しめる熊本の城下町をご紹介します。
西南戦争の直接のきっかけは、1877年(明治10年)1月29日、西郷隆盛の求心力と鹿児島県の軍事力を恐れた明治政府が、鹿児島県内にあった陸軍の弾薬庫から火薬や弾薬を運び出したこと。加えて、約20名の警察官を密偵として鹿児島県に潜入させたのです。
明治政府の仕打ちに、血気盛んな私学校の若者達は激昂。弾薬庫を襲撃し、武器を強奪してしまいます。それでもまだ、西郷隆盛は積極的に反乱を起こそうとしませんでした。江戸無血開城の立て役者。血を流す戦ではなく、平和的に解決することを望んでいたのです。
しかし、明治政府が西郷隆盛の暗殺を計画しているという噂が流れ、西郷隆盛の仲間や不平士族、私学校の生徒から出兵論が巻き起こります。もはや衝突は避けられないと悟った西郷隆盛は、「おいの身体は、お前達に差し上げもんそ」と述べ、仲間の期待に応えるため挙兵したのです。
西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」(けいてんあいじん)。天を敬い、人を愛することを説くこの言葉に、自分を慕う人のために尽くして天命を迎える、西郷隆盛の覚悟が表現されているかのようです。
熊本城
西南戦争は、鹿児島県はもとより熊本県や宮崎県、大分県など九州各県が戦乱の舞台となりました。
まず、1877年(明治10年)2月15日、薩摩軍が鹿児島県を出発し、1877年(明治10年)2月21日には「熊本城」(現在の熊本県熊本市)を包囲します。
難攻不落とうたわれた熊本城。薩摩軍はなかなか落とすことができません。鉄壁の守備に加え、新政府は絶え間なく援軍を送り続けたのです。
そこで、薩摩軍は作戦を変更し、熊本城へ物資等を届けるための補給路「田原坂」(たばるざか)を狙います。新政府軍に比べて、軍事力も兵士の数も圧倒的に劣る薩摩軍でしたが、田原坂では善戦。攻防は17日間も続き、1日320,000発もの弾雨が降り注いだと言います。
薩摩軍に手を焼いた新政府軍は、「会津藩」(現在の福島県)出身者が中心となった警察部隊「抜刀隊」(ばっとうたい)を結成。会津藩は、幕末に薩長連合軍に滅ぼされた経緯があり、薩摩軍に遺恨がありました。
薩摩軍に押されていた政府軍ですが、抜刀隊投入により形勢逆転。1877年(明治10年)3月20日、西南戦争中で一番の激戦とされる田原坂における戦いは新政府軍に軍配が上がり、薩摩軍は次第に追い詰められていきます。
1877年(明治10年)9月1日、ついに西郷隆盛率いる薩摩軍は鹿児島に戻り、市内の「城山」(しろやま)を占拠しました。鹿児島の住民は薩摩軍に協力的だったため、一時薩摩軍が盛り返したかと思われましたが、新政府軍の軍事力にはかないません。
1877年(明治10年)9月6日には、新政府軍が城山を包囲。薩摩軍300人程度に対し、政府軍は70,000人もの兵で応戦したと言われています。そしてついに、1877年(明治10年)9月24日、西郷隆盛は「別府晋介」(べっぷしんすけ)の介錯により自刃。西南戦争は、明治政府樹立に大きく貢献した西郷隆盛の死により幕を閉じました。「明治天皇」は西郷隆盛の死に涙したと言います。
新政府軍、薩摩軍の死者は合わせて10,000を超え、国家予算も大幅に消費。明治政府にとって大きな痛手となりましたが、西南戦争以降は武士による反乱も落ち着き、日本は近代国家への道を突き進むこととなったのです。
「会津藩」をはじめ、江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
皇室・公家に関連する刀剣の歴史「明治天皇の一面」をご紹介します。
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。
武将や偉人の掛け軸、装飾が印象的な合戦武具などをご紹介します。
西南戦争において戦場となったのは、鹿児島県を中心に熊本県や宮崎県、大分県など九州の広範囲に亘ります。各県に残った西南戦争の資料や史跡を見ていきましょう。
宮崎県延岡市にある「西郷隆盛宿陣跡資料館」(さいごうたかもりしゅくじんあとしりょうかん)は、「和田越の決戦」で大敗した薩摩軍が立ち寄った家屋です。資料館には西郷隆盛の遺品や戦争資料を展示し、軍議の模様を再現した部屋も見応えたっぷりです。東九州自動車道「北川IC」から車で約5分です。
施設リサーチ/ホームメイト・リサーチの旅探「博物館/美術館」では、西南戦争薩軍本営跡の詳細情報とユーザーからの口コミ、施設写真、施設動画の投稿情報をご覧頂けます。
※ご投稿頂くには、施設リサーチ/ホームメイト・リサーチへのユーザー登録が必要です。
鹿児島県の刀剣施設情報
鹿児島県にある刀剣施設情報をご紹介します。