手取川の戦い
手取川の戦い
「手取川の戦い」(てどりがわのたたかい)は、加賀国・手取川周辺(現在の石川県白山市湊町)で起きた戦いのことです。この、手取川の戦いには約12,000の「上杉謙信」(うえすぎけんしん)軍と、「柴田勝家」(しばたかついえ)率いる約40,000の織田軍が衝突。結果は、上杉軍の大勝に終わり、織田軍に多数の死傷者・溺死者を出したと言われています。かつて手取川の戦いが繰り広げられた石川県白山市の古戦場手取川古戦場石碑をご紹介します。
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手取川の戦いの概要

手取川の戦いの経緯

織田信長

織田信長

手取川の戦いが起こった背景には、「織田信長」の北陸攻略があります。そして、この攻略に対抗するべく立ち上がったのが、北陸の雄である上杉謙信

当時、北陸の北ノ庄(現在の福井県)の統治を任されていたのは織田信長の重臣・柴田勝家であり、1576年(天正4年)に、柴田勝家は加賀国(現在の石川県)への侵攻を開始。侵攻の目的は「加賀一向一揆衆」の鎮圧と、加賀国の平定でした。

この動きに危機感を募らせた上杉謙信は、織田軍を迎え撃つために越前国から南下。この北陸の能登国と越中国を結ぶ要所にある、能登国「七尾城」城主(現在の石川県七尾市)は「畠山義隆」(はたけやまよしたか)が務めていました。

しかし、七尾城主・畠山義隆は、1574年(天正2年)7月にすでに死去。家督は、畠山義隆の遺児「畠山春王丸」(はたけやまはるおうまる)が相続したものの、まだ幼かったため、重臣「長続連」(ちょうつぐつら)と嫡男「長綱連」(ちょうつなつら)父子が実質的な差配を執っていました。この七尾城は、当時も強固な山城として知られており、その大規模な様相を称して「天宮」と呼ぶこともあったと言われています。

上杉謙信

上杉謙信

1576年(天正4年)に、上杉謙信が能登国を支配すべく七尾城を侵攻しましたが、七尾城は堅牢堅固な城であったことから落とすのは容易ではありませんでした。七尾城を当主に代わって守っていた長続連は、籠城して抵抗します。この戦いは翌年の1577年(天正5年)7月まで続くものの、あまりの防御力の高さに攻めあぐねた上杉謙信は撤退。

しかし七尾城内は、長きに渡った籠城により、糞尿の処理が追い付かず、城内の衛生環境は劣悪な状態でした。これにより城内に疫病が流行する事態になり、結果、城主である畠山春王丸が病死。

このような状態で、再度、上杉謙信が攻めて来たら次は敗北するかもしれないと考えた長続連は、三男「長連龍」(ちょうつらたつ)を織田信長のもとへ送り、救援を頼みました。

織田信長は、長続連からの救援依頼を即座に快諾。織田信長としても、このまま能登国を上杉謙信の支配下に置かれるのは、あまり良いこととは言えません。こうして北陸の地理に明るい柴田勝家を総大将に据え、重臣「丹羽長秀」(にわながひで)や「前田利家」(まえだとしいえ)、「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの「豊臣秀吉」)らからなる総勢40,000の軍勢を構成し、8月8日に援軍を派遣させました。

一方、七尾城内では謀反が勃発。長続連が実権を握っていることに不満を募らせた畠山家の重臣達により、長続連をはじめとする長一族は惨殺され、七尾城は落城しました。実はこの謀反の裏で糸を引いていたのは上杉謙信で、織田信長と縁のある長続連の一族を亡き者にするため、他の重臣達を調略したと言われています。ときは9月15日のこと、織田軍が到着する以前のことで、織田軍は七尾城の落城を知らないまま進軍を続けることになりました。

織田軍の敗退

手取川

手取川

織田軍は、加賀国の梯川・手取川を越えながら進軍。その途上、柴田勝家と不仲だった羽柴秀吉が、突如、離反しましたが歩みを進めました。

迎え撃つ上杉軍は、織田軍接近に備えて軍を配備していた七尾城を出撃し、手取川近くの「松任城」(現在の石川県白山市)に入ります。松任城は、手取川からわずか10kmの距離。柴田勝家らが七尾城の落城と、上杉軍の松任城入城を知ったのは、手取川を渡り終えたときでした。

柴田勝家は、すぐに撤退を命じたものの、当時は大雨の影響で川の水嵩が増していたこともあり、渡り終えた川をすぐに戻るのは非常に困難を極めたと言います。しかし、逃げ道は背後の川だけで、文字通り「背水の陣」。この退却途中で、織田軍を率いる柴田勝家達は、上杉軍の追撃に遭いました。これが9月23日夜のことです。

織田軍は、羽柴秀吉が離反したことにより、当初より軍の人数も減り足並みは揃っていませんでした。すでに体力も戦意も低下した状態の織田軍では、上杉軍と応戦しようにも、川の水で持っていた鉄砲や火薬も濡れてしまい、使い物になりません。その結果、織田軍は多数の戦死傷者を出し、大敗を喫すことになりました。柴田勝家らは命からがら退却したものの、戦死者の大半が急流を渡ったことによる溺死で、その数は4,000人にのぼったと言います。

手取川の戦いは、織田信長が直接軍の指揮を執っていた訳ではありませんが、上杉謙信と織田信長による大規模な戦であったのに、実のところそれを記す史料は多くはありません。織田信長の一代記「信長公記」(しんちょうこうき)にも詳しい記録がないため、織田家側の戦いの詳細は不明なのです。けれども、織田軍に大きな被害が出たことは間違いありません。

織田軍に多数の死傷者を出した戦を終えて、七尾城に帰還した上杉謙信は、七尾城からの眺望に感嘆したと言います。織田軍に勝利した上杉謙信は勢いに乗りますが、この手取川の戦いからおよそ半年後の1578年(天正6年)に、突如この世を去りました。死因は脳溢血であったと言われていますが、上杉謙信にとってこの手取川の戦いが、生涯最後の戦となってしまったのです。また、上杉軍と織田軍が戦った唯一の戦いとしても知られています。

手取川の戦いの古戦場

手取川古戦場石碑

上杉軍の手取川の戦いでの戦いにおける圧倒的な勝利を、当時の落首(らくしゅ:世相を風刺した狂歌)では「上杉に遭ふては織田も名取川 はねる謙信逃ぐるとぶ長」(勢いに乗って追う上杉軍と、飛ぶように逃げる織田軍)と表現しました。「名取川」は手取川のことです。また、「とぶ長」は織田信長のことを指していますが、実際の手取川の戦いに織田信長本人は出陣していません。これは、織田軍の敗北を意味しています。

この落首は、現在、手取川河口から1kmほど上流にある、「呉竹文庫」(石川県白山市湊町)の駐車場に石碑として残されており、手取川の戦いを偲ぶことができます。

呉竹文庫

呉竹文庫は、明治時代の実業家「熊田源太郎」(くまだげんたろう)氏が、自身の蔵書を一般に向けて公開したのがはじまりです。一般公開は、1915年(大正4年)のことで、館内には13,000冊あまりの図書に加えて、古文書や美術品が展示されています。

呉竹文庫へは、JR「小舞子駅」から徒歩で約8分、北陸自動車道を使った場合は「美川IC」から車で約9分、国道8号線の「末正交差点」から車で約6分となっています。

小舞子海水浴場

小舞子海水浴場

小舞子海水浴場

夏場に手取川古戦場を訪れる際、ぜひ足を伸ばしておきたいのが、JR小舞子駅から徒歩約7分にある「小舞子海水浴場」(石川県白山市湊町)。「日本の渚百選」にも選ばれた、海水浴に最適の海岸です。名前の由来は、兵庫県の「舞子の浜」に似ていることから由来し、穏やかな波とどこまでも広がる砂丘が、人気の理由になっています。

海水浴期間は、7月中旬から8月中旬。この間、小舞子ビーチハウスが開かれ、温水シャワーや休憩施設を利用できます。

小舞子温泉

行きたいけれど「海水浴する時間がない」、「冬場に観光したい」という方におすすめなのは、小舞子温泉の足湯です。JR小舞子駅から徒歩約11分の立地にある「湊健康増進センター」(石川県白山市湊町)に隣接していて、無料で利用できます。

かなりの湯量があり、同時に20名ほどが利用できるのも嬉しいポイント。全面ガラス張りで、天井も付いているため、雨が降っていても大丈夫です。神経痛や筋肉痛、五十肩、関節のこわばり、慢性消化器病、冷え性などに効くとされています。タオルなどは用意されていませんので、各自ご持参の上お越し下さい。

「手取川古戦場石碑」施設情報

「手取川古戦場石碑」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒929-0217
石川県白山市湊町ヨ141
交通アクセス 「小舞子駅」下車 徒歩7分

交通アクセス情報を見る

公式サイト -

手取川古戦場石碑のアクセス

手取川古戦場石碑
手取川古戦場石碑
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「手取川古戦場石碑」
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