千早城の戦い
千早城の戦い
「千早城の戦い」(ちはやじょうのたたかい)は、1333年(正慶2年/元弘3年)、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が主導する倒幕運動に呼応した「楠木正成」(くすのきまさしげ)と、鎌倉幕府軍との間で起きた、「千早城」をめぐる戦いです。この戦いで、楠木正成は数々の奇策を講じ、20万~100万の幕府軍を、1,000の楠木軍が打ち破った歴史的な戦いとなりました。かつて千早城の戦いが繰り広げられた大阪府南河内郡千早赤阪村の古戦場千早城跡をご紹介します。
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千早城の戦いの概要

後醍醐天皇による倒幕計画

千早城の戦いが起こる鎌倉時代末期は、史上最強とも言われた「モンゴル帝国」から日本が侵攻を受け、鎌倉幕府の力が弱体化しつつあった時期です。当時の日本国内では、鎌倉幕府に不満を持つ反幕府集団が暗躍し、幕府の支配力が及ばない「悪党」と呼ばれる武士等が台頭し始めていました。

そのような社会的背景の中、1318年(文保2年)に後醍醐天皇が即位します。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府やその境遇に対し不満を持っていたことから、鎌倉幕府から政治の実権を奪おうと倒幕計画を画策します。賛同者を集めるため、「無礼講」(ぶれいこう)という飲み会などを開いて仲間を集めました。

しかし、この計画は事前に発覚してしまい、1324年(元亨4年)の「正中の変」(しょうちゅうのへん)により、協力した側近が処罰されることとなります。正中の変で、無関係であると釈明してことなきを得た後醍醐天皇は、これに懲りることなく、再び倒幕計画を進めます。

しかし、後醍醐天皇の側近「吉田定房」(よしださだふさ)の密告によって再び陰謀が発覚し、首謀者として報告された「日野俊基」(ひのとしもと)が処刑となりました。身の危険を感じた後醍醐天皇は、「尊良親王」(たかよししんのう)と「尊雲法親王」(そううんほっしんのう)の2皇子と密かに京を脱出し、笠置山で鎌倉幕府との全面対決の構えを見せます。

一方、後醍醐天皇が逃げ出したことを知った幕府側は、笠置山に75,000の軍を派遣し、「笠置山の戦い」が起こったのです。

笠置山の戦い

楠木正成

楠木正成

鎌倉幕府側75,000の軍勢に対し、後醍醐天皇側は、約3,000の軍勢と、数では圧倒的に不利な状況でしたが、笠置山は険しい崖に阻まれた天然の要塞となっており、後醍醐天皇軍はその地の利を活かして反撃します。

この戦いの中、鎌倉幕府に不満を持っていた楠木正成や「桜山茲俊」(さくらやまじしゅん)が後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して挙兵。予想外の苦戦を強いられた幕府軍は、本腰を入れ、鎌倉から20万もの大軍を送り込んだのです。

流石の後醍醐天皇軍も敗走し、笠置山からかろうじて逃げ出しましたが、逃亡中、幕府軍に捕まります。その後、後醍醐天皇は廃帝となり、1331年(元徳3年/元弘元年)、持明院統の「光厳天皇」が即位。捕えられた後醍醐天皇は、隠岐島へ流されました。

これにより、後醍醐天皇の倒幕計画は失敗に終わったかに見えましたが、この倒幕運動をきっかけに、楠木正成をはじめとした多くの者が挙兵し、倒幕の流れが収まることはありませんでした。

赤坂城(下赤坂城)の戦い

幕府軍は後醍醐天皇がいる笠置山を攻略すると、楠木正成のいる「赤坂城」(現在の大阪府)の攻略へと向かいます。幕府軍が赤坂城に到着すると、1331年(元徳3年/元弘元年)、護良親王を擁した楠木正成軍と、鎌倉幕府軍による「赤坂城の戦い」が勃発します。

幕府軍は30万に対し、楠木軍の兵はわずか500。誰もが勝ち目がないと思う戦いでしたが、楠木正成は、崖に囲まれた道を通る場所に弓兵200を待ち伏せさせ、幕府軍が通った瞬間、から一気に弓矢を放ったのです。これにより、幕府軍1,000人を討ち取ります。

また、幕府軍が休んでいたところを東西2手に分かれて奇襲攻撃し、城壁をよじ登ろうとする兵に対しては、あらかじめ設置しておいた「二重塀」(塀が二重になっており、縄を切ることで、外側の塀が崩れる仕掛け)で兵を落下させ、落下した兵には、上から大木や岩などを落とし、熱湯や糞尿を浴びせました。このように、楠木正成は、様々な奇策で幕府軍を撃退したのです。

兵糧攻め

兵糧攻め

これらの奇策により思わぬ劣勢を強いられた幕府軍は一時退却し、力による攻撃から兵糧攻めに作戦を変更します。これに対し、楠木正成は一時籠城しますが、もともと急造した城で、長期戦には耐えられないと知っていたことから、籠城戦は諦めます。

ここで、普通の武将なら自害するところですが、楠木正成は違いました。赤坂城に火を点け、敵の亡骸を使って自害したように見せかけ、逃亡する作戦に変更したのです。楠木正成が亡くなったと知れば、幕府軍は兵を引く。その後、隙を狙って再び幕府軍と戦おうと考えたのです。

楠木軍は、城内に大きな穴を掘って幕府軍の屍を埋め、その上に炭や薪を置き、幕府軍に分かりづらい風雨が強い日を狙って城を脱出。城に誰もいなくなったのを見計らって、赤坂城に火を点けました。燃えている赤坂城を見た幕府軍は、ここぞとばかりに攻め込みますが、すでに城はもぬけの殻。そこには、たくさんの焼けた屍だけが残っており、これを見た幕府軍は、楠木正成が自害したと勘違いします。

その後、しばらく楠木正成は姿を隠しますが、当初の計画通り、1332年(正慶元年/元弘2年)に再び挙兵したのです。

千早城の戦い

鎌倉幕府は、赤坂城の戦いで楠木正成を倒したと思い込んでいましたが、1332年(正慶元年/元弘2年)、楠木正成が赤坂城を奪い返し、見事に復活。1333年(正慶2年/元弘3年)、再び楠木正成と鎌倉幕府による千早城の戦いが勃発したのです。

戦いの舞台となった千早城は、四方の殆どを深い谷に囲まれた天然の要塞で、最後の砦としての役目を担う「詰め城」(つめのしろ:ひとつの城で最終拠点となる地域)となっていました。

楠木正成は、前衛の城にあたる「下赤坂城」、及び「上赤坂城」を巧みに使い分けながら、千早城へ攻め入ろうとする鎌倉幕府軍を食い止めようと応戦します。

鎌倉幕府軍の数については諸説ありますが、軍記物語「太平記」では、20万~100万と記述され、楠木軍は総勢たった1,000人だったと伝えられており、赤坂城の戦いのときと同様、兵力だけ見れば、圧倒的に不利な状況でした。しかし、楠木正成は、数々の奇策や知略で幕府軍を見事に翻弄します。

力攻め

力攻め

数で圧倒的に有利だった幕府軍は、我先にと力攻めで攻め込みます。一方、楠木軍は、櫓から落石攻撃を行ない、すかさず弓矢で幕府軍を反撃。これによって、幕府軍は一旦退却し、態勢を立て直すこととなりました。

千早城は山頂にあることから、楠木軍は山の麓で水を補給しているだろうと考えた幕府軍は、水の補給を断ち自滅させる作戦を立てます。しかし、楠木軍はすでに先を見越して、湧き水の場所を確保、また雨水が溜まるような工夫をするなど、十分に水を貯蔵していたのです。

水の補給に来るだろうと待ち構えていた幕府軍ですが、なかなか楠木軍が来ず油断したところ、楠木軍が夜襲をかけ、夜襲で奪った幕府軍の旗を持って挑発したのです。その挑発に乗って幕府軍が一斉攻撃を仕掛けてきたところを、崖から大木や石などを落として、幕府軍の戦力を一気にダウンさせたのです。

楠木軍に完全に踊らされていた幕府軍は、再び千早城を囲んで兵糧攻めにしようと考えます。これに対し楠木正成は、城の麓に盾と鎧をかぶせた数十体のわら人形をセットし、幕府軍をおびき寄せる作戦で対抗します。

夜が明けると、そのわら人形を楠木軍だと思い込んだ幕府軍は、またここぞとばかりに攻め込みます。楠木軍は、攻め込んできた幕府軍を崖の上から岩石などを落として一斉攻撃。「兵糧攻めで敵は城外にでてくるはず」という幕府軍の心理を逆手に取った巧妙な作戦で撃退したのです。

その後、幕府軍は打つ手がなくなり、撤退していきました。3ヵ月の長期戦でしたが、楠木正成の知略によって、20万~100万の幕府軍に対し、1,000の楠木軍が勝利したのです。

この楠木正成の千早城の戦いをきっかけに、伊予国、長門国、肥後国など西国の各地で倒幕運動が起こり、幕府側に付いていた「足利尊氏」や「新田義貞」も関東で挙兵。さらに、後醍醐天皇が「名和長年」(なわながとし)の協力を得て隠岐から脱出し、ついに鎌倉幕府は滅亡。後醍醐天皇による「建武の新政」がスタートしたのです。

千早城の戦いの古戦場

千早城跡

千早城跡

千早城跡

戦乱の舞台となった千早城は、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村にあり、もともと楠木正成が築いた城でした。千早城の戦場跡は、「千早城跡」として整備されており、1934年(昭和9年)には国の史跡に指定され、「日本100名城」にも選定されています。

千早城跡への交通アクセスは、近鉄の「富田林駅」から「金剛バス」に乗車するか、南海電鉄の「河内長野(かわちながの)駅」から南海バスを利用し、最寄りのバス停「金剛山ロープウェイ前」で下車するのが便利です。

なお、ひとつ手前のバス停「金剛登山口」で降りると、城跡まで登山を楽しむことができます。バス停から城跡までは、徒歩約20~30分となっており、道中は険しい登り坂が続くため、歩きやすい服装でのお出かけをおすすめします。

また、千早地区の駐在所あたりから、山頂へ続く長い石段を登っていくと、「曲輪」(くるわ:城の内外を土塁石垣、堀などで区画した区域)と呼ばれる平坦な広場が整備されており、ここが「四の丸跡」になります。

四の丸跡からさらに奥の方へ進むと、楠木正成とその息子「楠木正行」(くすのきまさつら)を祀る「千早神社」が鎮座しており、通称「楠公さん」(なんこうさん)と呼ばれ親しまれています。

また、1332年(正慶元年/元弘2年)に千早城を築城した際、城の鎮守として「八幡大菩薩」が祀られており、神社の裏側にある一番高いところが「本丸跡」となります。さらにその近くには、「二の丸跡」や「三の丸跡」の他、楠木正成らの供養塔「千早城跡五輪塔」があり、地元の人々の間では「首塚さん」と呼ばれています。

「千早城跡」施設情報

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所在地 〒585-0051
大阪府南河内郡千早赤阪村千早
電話番号 0721-72-0081
交通アクセス 「金剛登山口バス停」下車 徒歩3分

交通アクセス情報を見る

駐車場 有り
入場料 無料
公式サイト -

千早城跡のアクセス

千早城跡
千早城跡
千早城跡
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千早城入口です。
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千早城の本丸跡です。
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登城口横にある跡碑です。
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楠木正成公の首塚です。
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千早城の石標柱です。
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楠木正成公の功績をたたえる石碑です。
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館名板です。
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千早城に続く石畳です。
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