承久の乱
承久の乱
「承久の乱」(じょうきゅうのらん)は、「源頼朝」(みなもとのよりとも)が開いた「鎌倉幕府」に対し、不満を持った当時の朝廷が兵を率いた事件です。鎌倉幕府側の「北条義時」(ほうじょうよしとき)と、朝廷側の「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が衝突。最終的に幕府側の北条氏が勝利し、後鳥羽上皇は配流されます。承久の乱は、武家政権が大きく発展するきっかけとなる歴史上で重要な戦いとなりました。かつて承久の乱が繰り広げられた岐阜県各務原市の古戦場前渡不動山佛眼院をご紹介します。
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承久の乱の概要

わずか3代で途絶えた源氏の本流

源頼朝

源頼朝

1185年(元暦2年)、「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平氏を倒した源頼朝は、朝廷から「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん)に任命され、鎌倉に幕府を開きます。

日本初の本格的な武家政権となった鎌倉幕府でしたが、幕府の権力基盤を揺るがす事件が続発します。

1199年(建久10年)に鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が、任命からわずか7年で死亡。

2代将軍に、源頼朝とその妻「北条政子」(ほうじょうまさこ)の間に生まれた「源頼家」(みなもとのよりいえ)が就きますが、政治手腕を問われ、執権の「北条時政」(ほうじょうときまさ)と対立。源頼家は幽閉されたのちに、暗殺されてしまいます。

1203年(建仁3年)、3代将軍に源頼家の弟、「源実朝」(みなもとのさねとも)が就きます。しかし、この源実朝も1219年(承久元年)に源頼家の息子で自らの甥にあたる「公暁」(くぎょう)により、鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺されます。

源実朝が早世したことで、清和天皇の血をひく源氏本流の血は、わずか3代で途絶えてしまったのです。

後鳥羽上皇が朝廷の復権に乗り出す

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

こうした状況を見て、倒幕へと動き出したのが、京にいた後鳥羽上皇(後鳥羽院)でした。

朝廷は、鎌倉幕府が開かれてから影響力が弱くなり、荘園からの収入(租税)も激減。経済基盤を失いつつありました。朝廷に、政治権力と経済力を取り戻したいと考えた後鳥羽上皇は、倒幕に向けて画策します。

1221年(承久3年)、鎌倉幕府の事実上の最高権力者「北条義時」追討の「院宣」(せんじ:上皇の意思の奉書)が出される事態となりました。

尼将軍・北条政子が鎌倉幕府のために奮起

北条政子

北条政子

北条義時を討とうとする後鳥羽上皇ら朝廷方の動きを聞いた幕府方の東国武士は動揺します。

しかし、源頼朝の妻だった北条政子は冷静に対応。すぐに東国の武士を集めると、鎌倉幕府から受けた保護や恩恵(御恩)を説き、その御恩に報いるべきである(奉公)と東国武士達を鼓舞する演説を行ない、動揺を抑えます。

そして、朝廷の権力者である後鳥羽上皇を討つのではなく、後鳥羽上皇側についた武将の「藤原秀康」(ふじわらのひでやす)、「三浦胤義」(みうらたねよし)らを討つべしと命じました。

東国の武士達が京を目指したときは、わずか18騎でしたが、東海道、東山道、北陸道と3方面に分かれて進軍するうちに徐々に勢力を拡大。北条政子の言葉で一致団結した北条軍は、最終的に19万騎にまで膨れ上がり、各地での交戦を勝ち抜いて、京に入りました。

北条政子が「尼将軍」(あましょうぐん)と言われるのもこのためです。

承久の乱の首謀者が流刑になり戦後処理が終了

後鳥羽上皇側も応戦しましたが、結局のところ防戦は1ヵ月も続きませんでした。戦況は悪化の一途をたどり、とうとう、後鳥羽上皇は逃亡。勝利を決定付けた北条側は、後鳥羽上皇の身柄を確保しました。

承久の乱の首謀者であった後鳥羽上皇は隠岐へ、「順徳上皇」(じゅんとくじょうこう)は佐渡へ、「土御門上皇」(つちみかどじょうこう)は土佐へと配流。後鳥羽上皇の傀儡(かいらい:あやつり人形)だった「仲恭天皇」(ちゅうきょうてんのう)は廃位され、代わって「後堀河天皇」(ごほりかわてんのう)が即位し、戦後処理が終了したのです。

北条泰時」、「北条時房」は京にとどまり、朝廷の監視や反幕分子を抑圧する目的で、1221年(承久3年)に「六波羅探題」(ろくはらたんだい:鎌倉幕府の職名)を設置。京都の政情を監察し、治安を維持しました。

承久の乱において鎌倉幕府方が勝利したことにより、幕府の影響力が増大すると共に、武家政権による朝廷への干渉が行なわれる流れができ上がりました。この体制は、江戸時代まで続くことになります。

承久の乱の古戦場

宇治橋

宇治橋

宇治橋

承久の乱で、朝廷側の最終防衛戦線として後鳥羽上皇側が北条氏を迎え撃ったとされるのが、京都府宇治市にある「宇治川」でした。

宇治川にある「宇治橋」は日本三古橋のひとつと数えられ、橋のたもとにある石碑「宇治橋断碑」には、646年(大化2年)に奈良元興寺の僧、道登(どうとう)が架橋したという内容が刻まれています。

京阪電車「宇治駅」から徒歩約1分の場所にあるスポットです。

宇治市源氏物語ミュージアム

宇治市源氏物語ミュージアム

宇治市源氏物語ミュージアム

宇治橋周辺には、源氏物語の魅力や平安時代について分かりやすく紹介した博物館「宇治市源氏物語ミュージアム」もあります。

承久の乱に至るまでの歴史を知りたいならぜひ立ち寄ってみて下さい。

城南宮

城南宮

城南宮

京都市伏見区にある「城南宮」は、古くから信仰を集めた神社です。

1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が「城南流鏑馬の武者揃えのため」と称し、西国の兵をこの辺りに集めたことがきっかけになり、承久の乱が起こったと言われています。

美しい日本庭園では、四季折々の景色を楽しむことができます。

六波羅探題跡

承久の乱の終息によって、京には六波羅探題府が設置されるようになりました。

これは、後鳥羽上皇のように鎌倉幕府に対してクーデターを起こす動きがないかを見張るための場所でした。

現在、六波羅探題の建物はありませんが、松原通から五条・七条に及ぶ東山区の一帯に六波羅探題府があったことが石碑に刻まれています。

こちらは、京阪電気鉄道「清水五条駅」から徒歩約8分、市バス「五条坂バス停留所」から約300mの場所にあるスポットです。

前渡不動山佛眼院のアクセス

前渡不動山佛眼院
前渡不動山佛眼院
前渡不動山佛眼院
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「前渡不動山佛眼院」施設情報

「前渡不動山佛眼院」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒504-0922
岐阜県各務原市前渡東町1975-1
電話番号 058-386-9232
交通アクセス 「三柿野駅」下車 徒歩22分

交通アクセス情報を見る

営業時間 終日
休館日 無し
駐車場 有り
入場料 無料
公式サイト -

「前渡不動山佛眼院」
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前渡不動山佛眼院の写真一覧

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麓にあるお堂です。
麓にあるお堂です。
お堂の内部の様子です。
お堂の内部の様子です。
扁額です。
扁額です。
承久の乱合戦供養塔は、市指定史跡です。
承久の乱合戦供養塔は、市指定史跡です。
道路側にも入口があります。
道路側にも入口があります。
戦いの説明文と承久の乱合戦供養塔です。
戦いの説明文と承久の乱合戦供養塔です。
お堂の前に駐車場があります。
お堂の前に駐車場があります。
案内板です。
案内板です。
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