衣川の戦い
衣川の戦い
「衣川の戦い」(ころもがわのたたかい)は、1189年(文治5年)、陸奥国衣川館(むつのくにころもがわのたち:現在の岩手県)において、「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)が「源義経」を自害にまで追い込んだ戦いです。この戦いの中で、主君である源義経を守ろうと、大薙刀を杖にして橋の中央に立ち、矢が無数に突き刺さっても最後まで身を挺して君主を守った「弁慶の立ち往生」の逸話は、今も語り継がれています。かつて衣川の戦いが繰り広げられた岩手県西磐井郡平泉町の古戦場高舘義経堂をご紹介します。
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衣川の戦いの概要

英雄から一転、追われる身へ

源頼朝・源義経

源頼朝・源義経

平安時代末期、1185年(元暦2年)の「壇ノ浦の戦い」によって平家は滅亡し、源氏と平氏との長きにわたる「源平合戦」は終幕します。この壇ノ浦の戦いで、源義経は総大将として、数々の武功を挙げました。

しかし、「源頼朝」の勢力を恐れた「後白河法皇」は、源頼朝の対抗者として、軍事に優れた源義経に「検非違使庁・左衛門少尉叙任」(京都の治安維持にかかわる役職)という官位を与えます。

源義経は「朝廷から官位を頂くなんて源氏の名誉である」としてこれを受けた一方、源頼朝から「私の許可も得ず、義経は朝廷に入る気なのでは」と不信を招いたことなどが原因で、源頼朝から「謀反の心あり」として、追われてしまうこととなります。

  • 源義経のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 源頼朝のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

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藤原秀衡の死

藤原秀衡

藤原秀衡

源頼朝から追われた源義経は、源頼朝の追手をかいくぐりながら、かつて身を寄せたことがある、奥州藤原氏の第3代当主・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼り、奥州(現在の岩手県)へと向かいます。

藤原秀衡は、昔と変わらず源義経を迎え入れ、源義経は「衣川館」という館に身を寄せました。

しかし、1187年(文治3年)になると、源義経は奥州にいることが源頼朝に伝わり、奥州藤原氏への圧迫が強まります。源頼朝は、平氏との闘争の時代から、藤原秀衡を「陸奥守」にして、東北地方の動向を常に注意していました。「鎌倉幕府」を開くにあたり、源頼朝としては、この東北の巨大勢力を何とか抑えておきたかったのです。

1187年(文治3年)10月、藤原秀衡は病に倒れてしまいます。死の間際、嫡男の「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)や兄弟に対し、源義経を総大将として奥州の領土を守り、源頼朝を倒すよう言い遺して亡くなってしまいました。

これを聞いた源頼朝は、奥州討伐の準備に取り掛かり、朝廷に源義経を逮捕する院宣を要請し、奥州へ送りました。藤原秀衡の没後、家督を継いだ藤原泰衡は、父の遺言があったものの、度重なる源頼朝の圧力や誘惑に屈し、ついに源義経を裏切ってしまうのです。

衣川の戦い~源義経と奥州藤原氏の最後~

弁慶

弁慶

1189年(文治5年)4月30日、源義経は身を寄せていた衣川の館で藤原泰衡の急襲を受け、衣川の戦いが始まります。

藤原泰衡軍500騎の兵に対して、源義経側は「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)や「鈴木重家」(すずきしげいえ)など10騎あまり。家臣達は源義経を守ろうと奮戦しましたが、藤原泰衡軍に勝てるはずもなく、追い詰められた源義経は、自身の妻子を殺害したのちに自害し、31年の短い生涯を終えたのです。

源義経の忠臣として名高い武蔵坊弁慶は、この衣川の戦いで、源義経とその妻子がいるお堂の入口に薙刀を持って立ち、藤原泰衡軍から無数の矢を受けながらも一歩も引かず、仁王立ちして絶命したと言われており、「弁慶の立ち往生」として、今も語り継がれています。

一方、源頼朝はこの衣川の戦いを奥州支配の好機と判断し、弟である源義経を無断で殺めたとして、藤原氏討伐の軍を発令。この衣川の戦いによって、奥州藤原氏の命運も尽きることとなったのです。

歴史上の人物が活躍した奥州合戦をご紹介!

衣川の戦いの古戦場

高館義経堂(たかだちぎけいどう)

毛越寺

毛越寺

衣川の戦いで源義経が最期を迎えた場所が「高館」とされています。高館は、北上川に面した丘陵地で、その丘の上に「高館義経堂」が建てられています。

1683年(天和3年)、仙台藩主「伊達綱村」(だてつなむら)が源義経を偲んで建立。現在、「毛越寺」(もうつうじ)の飛び地境内となっています。毛越寺は、「世界遺産」に登録され、浄土世界を表わした庭園で有名です。

丘陵地の高館からは北上川の流れや、北上川に合流する衣川、その背景に広がる束稲山などの雄大な景色が一望でき、平泉随一の眺望と言われています。

高館義経堂に祀られているのは、本尊である源義経像です。義経堂創建時に制作された木像で、頭部とが別で作られ、鎧の上に衣を纏った姿等の点から、制作当時よりも古い時代の装束で作られた精巧な像であることが分かります。

高館義経堂へは、JR東北本線「平泉駅」より徒歩約20分。車の場合は、東北自動車道 「一関IC」より国道4号線を北へ約15分、または「平泉・前沢IC」より国道4号線を南へ約10分となっています。駐車場は、約330台収容できる町営の駐車場を利用するのがおすすめです。

接待館(せったいだて)

高館義経堂と並んで衣川館の跡地と有力視されているのが「接待館」。こちらは岩手県奥州市衣川に立地し、「中尊寺」とは衣川を隔てた反対側にあります。

現在、国の史跡に指定されており、その発掘現場からは平安時代後半からの「掘立柱建物跡」をはじめ、土坑跡、溝跡、堀跡、土塁跡、竪穴式住居跡などが出現しています。特に注目されているのが、大量の「かわらけ」です。

当時、祝宴などでは盃を使い捨てにする風習があったため、この屋敷跡は宗教儀式を行なった場所、あるいは迎賓館的役割を担っていたと考えられています。詳しい調査の結果、接待館遺跡が、奥州藤原氏の屋敷である「柳之御所遺跡」に匹敵する規模であることが判明し、衣川館跡地である説がより一層濃厚になりました。

中尊寺「金色堂」

中尊寺

中尊寺

「金色堂」で知られる中尊寺は、毛越寺と並んで平泉世界遺産の中核をなしています。

その起源は、850年(嘉祥3年)、比叡山延暦寺の「高僧慈覚大師円仁」(じかくだいしえんにん)が開祖です。12世紀の初頭、藤原氏の初代藤原清衡公が極楽浄土を願い、大規模な堂塔の造営を実施しました。

藤原氏の栄華を偲ばせる金色堂は、1951年(昭和26年)6月9日付で「国宝建造物」に指定。金色堂内部の須弥壇内には、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の3代の遺体(ミイラ)が安置され、移り変わる世界を奥州の地から今なお見守り続けています。

高舘義経堂の写真一覧

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高舘義経堂の中には、義経の像があります。
高舘義経堂の中には、義経の像があります…
扁額です。
扁額です。
お堂は、石段の先にあります。
お堂は、石段の先にあります。
仁王像です。
仁王像です。
松尾芭蕉の句の石碑です。
松尾芭蕉の句の石碑です。
敷地の入口にある標柱です。
敷地の入口にある標柱です。
お堂の周りの様子です。
お堂の周りの様子です。
高舘義経堂の入口です。
高舘義経堂の入口です。

「高舘義経堂」施設情報

「高舘義経堂」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒029-4102
岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14
電話番号 0191-46-3300
交通アクセス 東北本線「平泉駅」下車 徒歩20分

交通アクセス情報を見る

営業時間 8時30分~16時30分
※11月5日~3月4日は8時30分~16時
休館日 年中無休
駐車場 有り
入場料 大人 200円(180円/160円)
小・中学生 50円(45円/40円)
※()内は30名/100名以上の団体料金です。
公式サイト http://www.motsuji.or.jp/gikeido/index.html

高舘義経堂のアクセス

高舘義経堂
高舘義経堂
高舘義経堂
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「高舘義経堂」
施設情報サイトのご紹介

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