比叡山焼き討ち
比叡山焼き討ち
「比叡山焼き討ち」(ひえいざんやきうち)は、1571年(元亀2年)9月12日、「織田信長」と敵対していた北近江(現在の滋賀県)の「浅井長政」(あざいながまさ)と越前国(現在の福井県越前市)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、「比叡山延暦寺」(現在の滋賀県大津市)に逃げ込んだことをきっかけに、焼き討ちにした戦いです。この戦いで、織田信長が勝利しましたが、延暦寺の僧侶をはじめ、老若男女問わず3,000~4,000名が殺戮されるという凄惨な結末となりました。かつて比叡山焼き討ちが繰り広げられた滋賀県大津市の古戦場比叡山延暦寺をご紹介します。
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比叡山焼き討ちの概要

戦いの背景

比叡山延暦寺は、806年(延暦25年)に天台宗の開祖「最澄」(さいちょう)によって建てられた天台宗の総本山で、朝廷や武家からの庇護を受けてきた大寺院。戦国時代には、広大な領地や財力を持ち、その力は戦国大名にも劣らない一大勢力となっていました。

織田信長

織田信長

1569年(永禄12年)、織田信長は寺社の力を削ぐため、延暦寺の寺領を横領。これに対し延暦寺は朝廷に訴え、朝廷は土地を返すよう織田信長に命じます。しかし、織田信長がこれを聞き入れなかったことから、織田信長と延暦寺は対立を深めることとなっていったのです。

その頃、室町幕府13代将軍「足利義輝」が暗殺され、もともと仏門に入っていた「足利義昭」が勢力を強めていた織田信長とともに上洛し、第15代将軍になります。

これにより朝廷との関係を強化した織田信長は、足利義昭のもとで天下統一を実現させるため、畿内の諸大名に対して上洛を求めました。京都に近い畿内の大名達は織田信長の指示に従いましたが、越前国の朝倉義景だけこれに従わなかったために、織田信長は朝倉氏を攻めることを決意します。

浅井長政

浅井長政

1570年(永禄13年/元亀元年)、織田信長は30,000の軍を率いて朝倉氏のいる越前国一乗谷へ進軍しますが、織田信長の妹「お市の方」の嫁ぎ先で、味方だと思っていた浅井長政に背後から攻められ、織田信長は命からがら京都へ逃げ延びます。

態勢を整えた織田信長は、再び朝倉義景と浅井長政を追い詰めるべく、1570年(永禄13年/元亀元年)、浅井長政の居城「小谷城」を攻撃。これにより小谷城は焼き討ちされ、浅井長政は朝倉義景の援軍を待たずして城外に逃れることとなります。

遅れて到着した朝倉軍は、浅井軍とともに織田軍と戦いますが、万全の準備を整えていた織田軍に敗北。織田信長の狙い通り、浅井氏と朝倉氏は追い詰められていきました。

織田信長は、浅井長政と朝倉義景が延暦寺に避難することを想定し、延暦寺に対して「浅井氏や朝倉氏を囲い込まないこと。織田側に味方した場合は奪った所領を返還するが、浅井氏や朝倉氏に加担した場合は容赦なく焼き払う」という内容の書簡を送付します。

織田信長の予想通り、浅井長政と朝倉義景は延暦寺に逃げ込みますが、延暦寺は、織田信長の書簡に対して返事をせず、浅井長政と朝倉義景を囲い続けました。そんな延暦寺の態度に激怒した織田信長は、延暦寺を容赦なく襲撃することとなったのです。

比叡山焼き討ち

比叡山延暦寺

比叡山延暦寺

1571年(元亀2年)9月11日、織田軍の軍議で、重臣「池田恒興」が「夜になれば逃げる者も出るだろう。早朝を待って攻めれば1人残らず討ち取れる」と進言。織田信長はこれを承諾し、夜中から30,000の兵を比叡山東麓に隙間なく配置。

これを察知した延暦寺はお金を贈って攻撃をやめるよう嘆願しますが、織田信長はこれを拒否。

そして、1571年(元亀2年)9月12日、織田信長は全軍に総攻撃を命じ、比叡山焼き討ちが始まりました。

織田軍は、坂本(現在の滋賀県大津市)周辺から火を放ち、延暦寺をはじめ、山王二十一社、西教寺、八王子山などが焼かれ、山全体が火の海となります。さらに、僧侶や女、子供を見付け次第首を刎ねるなど、およそ3,000~4,000人が犠牲となりました。焼き討ちをされた比叡山からは4日間も黒煙が上がったと伝えられています。

比叡山延暦寺のその後

比叡山焼き討ち後、延暦寺の寺領、社領はすべて織田信長に没収され、明智光秀をはじめとする武将に配分されました。

その後、延暦寺の再建が始まったのは、織田信長が「本能寺の変」で亡くなったあとの1584年(天正12年)のことです。施薬院全宗(やくいんぜんそう)や観音寺詮舜(かんのんじせんしゅん)をはじめ、生き残った僧侶達が、羽柴秀吉(のちの「豊臣秀吉」)に再建の許可を何度も嘆願し、僧兵を置かないことを条件に、羽柴秀吉から許可と寄付を受け、再建することができたのです。

なお、「信長公記」などの記録によると、比叡山焼き討ちの際、山中にあるほとんどの堂宇(どうう:堂の建物)が焼かれたとされていますが、近年の発掘調査から、比叡山山中で大規模な火事があったことを裏付けるような証拠は見付かっていません。焼き討ちで焼け落ちたことが確実なのは、「根本中堂」と「大講堂」だけということが分かっています。他の堂宇は、織田信長の時代以前に廃絶されており、多くの僧は山のふもとにある坂本にいたとする説が有力視されています。

比叡山焼き討ちの古戦場

比叡山延暦寺

ガーデンミュージアム比叡

ガーデンミュージアム比叡

現在の比叡山延暦寺は、比叡山の境内地に点在する100ほどの堂宇の総称で、山の東側を「東塔」(とうどう)、西側を「西塔」(さいとう)、北側を「横川」(よかわ)と言い、それぞれに本堂があります。

比叡山山頂には、「ガーデンミュージアム比叡」もあり、モネやゴッホなどの画家達が描いた自然の風景が再現された庭園が広がり、四季折々の花々を楽しめます。また、標高840mからの眺望を楽しむことができます。

元亀の兵乱殉難者鎮魂塚

比叡山頂バス駐車場の傍らには、1991年(平成3年)に建立された「元亀の兵乱殉難者鎮魂塚」(げんきのへいらんじゅんなんしゃちんこんづか)があります。毎年9月12日には、比叡山焼き討ちの犠牲者と、敵方だった織田信長を合同で供養する法要が営まれています。

この鎮魂塚には、建立を発案した「小林隆影」氏の「織田信長を憎むだけではなく、あの時代の延暦寺にも非はあった。そこは認めよう」という想いが込められています。

「比叡山延暦寺」施設情報

「比叡山延暦寺」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒520-0116
滋賀県大津市坂本本町4220
電話番号 077-578-0001
交通アクセス 坂本ケーブル「延暦寺駅」下車 徒歩8分

交通アクセス情報を見る

営業時間 【東塔地区】
[1~2月]
9~16時30分
[3~11月]
8時30分~16時30分
[12月]
9~16時

【西塔・横川地区】
[1~2月]
9時30分~16時
[3~11月]
9~16時
[12月]
9時30分~15時30分
※巡拝受付は閉堂の30分前まで。
※冬季は降雪等で閉堂時間を早める場合有り。
※法要・行事等で入堂制限する場合有り。
休館日 無し
駐車場 有り
入場料 【東塔・西塔・横川共通券】
大人 1000円(800円)
中高生 600円(500円)
小学生 300円

【国宝殿(宝物館)】
大人 500円(400円)
中高生 300円(200円)
小学生 100円
[国宝殿拝観料と巡拝料のセット価格]
大人 1500円(1200円)
中高生 900円(700円)
小学生 セット料金は無し
※()内は20名以上の団体料金です。
公式サイト https://www.hieizan.or.jp/

比叡山延暦寺のアクセス

比叡山延暦寺
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「比叡山延暦寺」
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根本中堂です。
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阿弥陀堂です。
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法華総持院東塔です。
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常行堂・法華堂(にない堂)です。
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文殊楼(もんじゅろう)です。
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比叡山延暦寺の石標柱です。
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平和の鐘です。開運の鐘とも呼ばれています。
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参道では、数多くの石仏が観られます。
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