前九年の役
前九年の役
「前九年の役」(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期に、陸奥の国で起こった豪族による反乱を、朝廷から派遣された「源頼義」・「源義家」親子が平定した戦いです。1051年(永承6年)~1062年(康平5年)にかけての戦いを前九年の役と言い、のちの1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)の戦いは「後三年の役」(ごさんねんのえき)と呼ばれています。かつて前九年の役が繰り広げられた岩手県盛岡市の古戦場厨川柵跡擬定地をご紹介します。
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前九年の役の概要

安倍氏による奥六郡の支配

安倍氏の東北情勢

安倍氏の東北情勢

前九年の役は、現在の岩手県にあたる「奥六郡」(おくろくぐん:胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称)が舞台となります。

この奥六郡一帯は、「陸奥国」(むつのくに:現在の福島県宮城県、岩手県、青森県)と言い、そこに住む部族を、「蝦夷」(えみし・えぞ:現在の東北、北海道地方などに住む人)と呼んでいました。

平安時代の奥六郡以北の地は、まだ日本の統治が及んでおらず、中央政権から見ると、朝廷に従わない異民族として捉えられていたためでした。

朝廷はこの奥六郡を統治下に入れようと、陸奥国で強い力を持っていた土着豪族の安倍氏に、奥六郡の統治を任せます。しかし、統治を任された安倍氏は、次第に朝廷の言うことを聞かなくなり、兵を駐屯させる軍事的拠点として奥六郡の外側に城柵を設け、「受領」(朝廷から諸国に赴任している地方官)への納税も怠るようになるなど、安倍氏が奥六郡を支配するようになっていきました。

前九年の役の始まり~鬼切部の戦い~

この安倍氏に対し、陸奥国守であった「藤原登任」(ふじわらのなりとう)が、「賦貢(こうふ)しない」などの理由により、出羽国(現在の山形県)の国司だった「秋田城介」(あきたじょうのすけ)と「平重成」(たいらのしげなり)とともに挙兵し、1051年(永承6年)、玉造郡鬼切部(現在の宮城県大崎市)で、藤原登任軍と安倍軍による「鬼切部の戦い」が起こります。これが、前九年の役の始まりとなりました。

この鬼切部の戦いでは、「安倍忠良」の息子「安倍頼良」(あべのよりよし)による待ち伏せ戦略に嵌り、朝廷軍は大敗を喫し、安倍氏の圧倒的勝利に終わります。朝廷からその責任を問われた藤原登任は、陸奥守を解任され、その後任として、公家ではなく、武家の源頼義が任命されます。

源頼義は、関東地方で起きた「平忠常の乱」を平定した英雄「源頼信」の息子であり、平忠常の乱では、父と一緒に活躍をしたことから、当時世間に広く知られていました。1051年(永承6年)に陸奥守に着任、翌々年には「鎮守府将軍」も兼任することになり、以後安倍氏と対峙することになっていきます。

大赦によって前九年の役が一時停戦

源頼義の陸奥守着任後まもなく、「後一条天皇」と「後朱雀天皇」の生母である「上東門院 藤原彰子」(じょうとうもんいん ふじわらのしょうし/あきこ)が重篤な病に陥ります。その弟であった源頼通と源教通らは、病気回復祈願のため「大赦」(たいしゃ:罪を許すこと)を奏請(そうせい:天皇に申し上げて許しを請うこと)したのです。これによって、安倍頼良が朝廷軍を撃退した罪も免罪となり、前九年の役が一時停戦となりました。

この頃、「奥陸郡」の俘囚長(ふしゅうちょう:陸奥や出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属する者)であった安倍頼良は、朝廷に対して恭順(命令に従うこと)の意を示すようになり、また将軍の「頼義」と同音であるのを恐れ多いとし、自ら「頼時」に改名したと言われています。

阿久利川事件の勃発

源頼義

源頼義

源頼義が陸奥守兼鎮守府将軍を務めている間、安倍頼時も税を納めるようになり、源頼義を饗応(きょうおう:食事を出してもてなすこと)するなど、ひたすら恭順の意を示していました。しかし、源頼義の陸奥守としての任期が満了する1056年(天喜4年)、事件は起こります。

源頼義は、鎮守府の「胆沢城」(現在の奥州市水沢佐倉河)で任務を引き継ぎ、国府の「多賀城」に向かう途中、阿久利川(あくとかわ)のほとりで野営した際、部下であった権守「藤原説貞」(ふじわらのときさだ)の子「藤原光貞」の野営に何者かが乱入し、夜襲を受けたのです。

源頼義が心当たりのある犯人を尋ねると、藤原光貞は、「はっきりとは分からなかったが、先年、安倍貞任(あべのさだとう:安倍頼時の息子)が、私の妹を嫁に欲しいと言ってきたが、卑しい俘囚だったため断りました。きっと安倍貞任の仕業に違いありません」と告げます。

これを聞いた源頼義は、安倍貞任に出頭を命じますが、安倍頼時が「一度罪を許され、服従しているのになぜそのようなことをしようか。もし攻め入ってくるようなら、私達は死を覚悟で徹底抗戦する」としてこれを拒否。源頼義は、安倍氏「謀叛」と朝廷に報告し、再び戦が始まることとなりました。

ただし、この「阿久利川事件」には、陰謀説があります。安倍頼時は、この事件の直前にも源頼義に対して恭順の意を示しており、安倍氏側には、任期の切れる源頼義を討つ理由がなかったのです。そのため、陸奥国の支配権を狙っていた源頼義が、夜襲をかけられたとして挑発したのではないかとする説が有力とされています。

前九年の役の再開

1056年(天喜4年)8月、「安倍頼時追討令」が発令され、前九年の役の、戦いの火蓋が切って落とされました。源氏軍には、関東武士団や地元の豪族も参加しており、その中に、安倍頼時の娘婿である「平永衡」(たいらのながひら)と「藤原経清」(ふじわらのつねきよ)がいました。しかし、平永衡は安倍氏への内応を疑われ、源頼義に斬殺されます。これを見た藤原経清は身の危険を感じ、「安倍氏が奇襲を図り、源頼義以下の妻子を襲う」と流言を放ち、混乱に乗じて安倍軍に寝返りました。

安倍軍に加わった藤原経清の参戦により、安倍軍は朝廷軍を苦しめます。その後、源頼義と安倍頼時の一進一退の攻防が続き、不利な戦いを余儀なくされた源頼義は、「夷は夷をもって制す」(他国同士を戦わせて自国の利益を得る)として、現在の岩手県北部から青森県東部にかけて勢力を持っていた「安倍富忠」を味方に引き入れることに成功したのです。

安倍頼時は、他の蝦夷が源頼義側に付かないよう阻止しようとしますが、安倍富忠のもとへ説得に向かった安倍頼時を安倍富忠の兵が不意打ちで襲い、奮戦の中で流れにあたった傷がもとで、1057年(天喜5年)7月26日に安倍頼時は死去しました。しかし、この安倍頼時の死は、安倍氏の団結を強固なものにし、息子の安倍貞任に総大将が代わってからも、戦いは5年間続くこととなったのです。

黄海の戦い

1057年(天喜5年)11月、「黄海の戦い」(きのみのたたかい)が起こります。源頼義は陸奥国府から出陣し、安倍貞任に決戦を挑みました。安倍貞任は河崎柵に兵力を集め、現在の岩手県一関にあたる「黄海」(きのみ)の地で源頼義軍を迎撃。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しく、兵力でも劣っていた源頼義軍は大敗を喫します。

源氏軍は数百人の兵を失い、一時は「源頼義討ち死に」と伝えられたほどでしたが、この窮地を救ったのが、嫡男の源義家でした。「八幡太郎」(はちまんたろう)の愛称で知られていた源義家は、文字通り獅子奮迅の活躍を見せ、父・源頼義とわずかに残った兵と共に、安倍軍から逃れることができました。

黄海の戦いの敗戦により、自身の持つ兵力に痛手を負った源頼義でしたが、数年を経て、陸奥守の任期が再度終わり、のちに再々任されることになると、安倍氏と並ぶほどの権力をもった出羽国の俘囚「清原光頼」に味方になるよう接近。源氏方に加担することに対し、なかなか首を縦に振らない清原氏でしたが、源頼義が贈り物を届けたり、三顧の礼を尽くし、ついには臣下の礼まで執ることで、味方とすることに成功しました。

強大な力を持つ清原光頼を味方に付けたことにより、これまでの安倍氏有利の状況が一転。清原光頼の弟「清原武則」が総大将となり、10,000余りの軍勢を率いて、安倍軍に対し果敢に攻め入ります。「小松柵の戦い」や「衣川関の戦い」を次々に勝利し、安倍氏終焉の地となった本拠地「厨川柵」(くりやがわのさく:現在の岩手県盛岡市)へ追い詰め、安倍貞任を打ち破ったのです。

前九年の役の終わり

1062年(康平5年)9月17日、厨川柵は陥落し、総大将の安倍貞任は戦で負った傷のため、命を落とします。朝廷側より寝返った藤原経清は、苦しみを長引かせるため、わざとなまった日本刀での斬首刑となりました。これにより、1051年(永承6年)から1062年(康平5年)の長い前九年の役は、ようやく終わりを迎えたのです。

前九年の役の古戦場

鳥海柵

鳥海柵があった金ヶ崎町

鳥海柵があった金ヶ崎町

岩手県胆沢郡金ケ崎町にある「鳥海柵」(とのみのさく)は、安倍氏の重要拠点のひとつであり、前九年の役の激戦地として知られており、安倍頼時が流れ矢にあたったあと、命を落とした地です。

軍事的な拠点としての役割以外にも、居住地、様々な物品を作り出す工房、また政治拠点などの多彩な機能があったと言われ、胆沢城と隣接する立地であることからも、柵としては最上位クラスであったと考えられています。

厨川柵

前九年の役において、安倍貞任、藤原経清の終焉の地となった厨川柵は、現在の岩手県盛岡市にあります。この周辺には、「前九年」、「安倍館」、「厨川」の地名が今でも町名として残存しています。

また、近くには安倍氏の末裔と言われる明治後期の政治家「阿部浩」氏が建造した「一ノ倉邸」があり、盛岡市保護庭園として保存されています。

「厨川柵跡擬定地」施設情報

「厨川柵跡擬定地」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒020-0127
岩手県盛岡市前九年1丁目4
交通アクセス 「青山駅」下車 徒歩18分

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駐車場 無し
入場料 無料
公式サイト -

厨川柵跡擬定地のアクセス

厨川柵跡擬定地
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「厨川柵跡擬定地」
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厨川柵跡擬定地は、歩道の脇にあります。
厨川柵跡擬定地は、歩道の脇にあります。
道路からでも見ることができます。
道路からでも見ることができます。
厨川柵の説明を見ることができます。
厨川柵の説明を見ることができます。
大河ドラマで使われた厨川柵のセットです。
大河ドラマで使われた厨川柵のセットです…
厨川柵の中心だったと推定される天昌寺です。
厨川柵の中心だったと推定される天昌寺で…
安倍館遺跡にある厨川柵の堀跡です。
安倍館遺跡にある厨川柵の堀跡です。
安倍館遺跡(厨川遺跡)の説明を見ることができます。
安倍館遺跡(厨川遺跡)の説明を見ること…
厨川柵があった岩手県盛岡市の風景です。
厨川柵があった岩手県盛岡市の風景です。
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