三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦い
「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)は、1573年(元亀4年)遠江国敷知郡・三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町)で、甲斐の「武田信玄」が、「織田信長」・「徳川家康」の連合軍に圧勝した戦いです。この戦いに勝利し、上洛に近付いた武田信玄でしたが、1573年(元亀4年)5月に病状が悪化。天下取りの望みを果たせぬまま生涯を終えました。かつて三方ヶ原の戦いが繰り広げられた静岡県浜松市の古戦場三方ヶ原古戦場碑をご紹介します。
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三方ヶ原の戦いの概要

戦いの背景

織田信長

織田信長

武田信玄織田信長徳川家康の三氏は、もとはそれぞれが同盟国で、敵対関係にありませんでした。

しかし、織田信長が「今川義元」を討って上洛を果たし、室町幕府の15代将軍「足利義昭」と対立するようになると、三氏の関係は悪化していきます。

足利義昭は、織田信長の力で将軍にはなりましたが、実質的には織田信長の言いなりになっており、不満を募らせていました。そのため、足利義昭は1571年(元亀2年)「織田信長討伐令」を発布し、織田信長の代わりに武田信玄を据えることを目論んだのです。

もとより上洛を目指していた武田信玄は、織田信長討伐に参加。のちに織田家との同盟は破棄されることになります。他方、徳川家康も足利義昭から、織田信長討伐に加わるよう誘われましたが、義理堅い徳川家康はこれを断り、織田信長との同盟を維持します。

これにより、武田信玄対織田信長・徳川家康連合軍の構図が出来上がりました。

武田軍の侵攻

1572年(元亀3年)9月、武田軍は、3つの軍に分かれ、遠江国、三河国、美濃国へ同時に侵攻する「西上作戦」を開始します。武田軍の本隊だけでも総勢30,000の大軍勢が押し寄せ、野田城をはじめ、小山城、二俣城などを次々と攻略します。

徳川家康は必死に応戦しますが、武田信玄が率いる大軍を前に為す術がありません。頼みとする織田信長は周辺の敵と対峙しており、援軍は期待できません。遠江国の北部を手中にした武田軍は、なおも進軍を続けます。

浜松城

浜松城

次の標的が本城・浜松城と予測した徳川家康は、自軍の兵8,000に加え、織田信長の3,000の援軍とともに浜松城に籠城しました。ところが30,000の武田軍は浜松城を素通りし、西へと向かっていきます。

浜松城を素通りされたことで、プライドを傷付けられた徳川家康は、背後から攻撃すれば勝機ありと見て、武田軍を追撃しようとします。

しかし30,000の武田軍に対し、連合軍は最大でも15,000。しかも相手は戦上手で名高い武田信玄です。家臣や織田家の武将達からも反対された徳川家康でしたが、これを押し切って出陣します。

このとき、徳川家康30歳、対する武田信玄は50歳を超えていました。武田信玄は諜報活動を重視し、情報戦にも長けた武将。徳川家康の性格を見切ったうえでの戦略でした。

徳川家康と城徳川家康と城
徳川家康の生涯と、ゆかりのある城について紹介します。

徳川家康、生涯最大のピンチ

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

織田・徳川連合軍は、三方ヶ原の台地から祝田の坂を下ったところを背後から急襲するつもりでいましたが、武田軍はその三方ヶ原の台地で、武田八陣形のひとつ「魚鱗の陣」(ぎょりんのじん)で待ち構えます。

目論見が外れた連合軍は、やむなく「鶴翼の陣」で応戦しますが、数で勝る武田軍の高さを利用した攻撃は疾風のごとく勢いがあり、連合軍は苦戦を強いられます。

三方ヶ原の戦いは夕刻に始まりましたが、日没までのわずか2時間ほどで勝敗が決します。武田軍は、連合軍を撃破。

徳川方は2,000もの兵を失い、「鳥居四郎左衛門」、「成瀬藤蔵」、「本多忠真」、「田中義綱」などの有力な家臣を亡くしました。徳川家康自身は、戦場を脱出しますが、武田軍の追撃は激しく、自らもを放ちながらの逃走だったと言います。

このときの敗走は、徳川家康の生涯の中でも最大級のピンチとされ、「成瀬吉右衛門」、「日下部兵右衛門」、「小栗忠蔵」、「島田治兵衛」といったほんの数名の供回りを従え、浜松城を目指します。家臣の「夏目吉信」、「鈴木久三郎」らは、徳川家康のなどを借り受け、目くらましとして敵中に突入。主の逃走のための時間稼ぎとして犠牲になりました。

その甲斐あって、徳川家康は辛うじて浜松城まで逃げ切ることに成功しますが、当然追手が来ます。そこで、徳川家康が取ったのが「空城計」という戦術です。わざと城門を大きく開き、赤々とかがり火を焚いて中の様子が外から見えるようにしました。追撃隊としてやって来た「山県昌景」は、この情景を見て罠を警戒し、そのまま引き上げたことから、徳川家康は窮地を脱しました。

三方ヶ原の戦いの戦後

武田信玄

武田信玄

三方ヶ原の戦いは、多くの家臣と兵を失った徳川・織田連合軍に対して、武田軍の損失は200人程度と、武田信玄の圧倒的勝利に終わりました。

武田信玄は、三方ヶ原の戦いで浜松城を素通りし、西へと進軍を続けましたが、これには武田信玄の体調が関係していたと言われています。

西上作戦が開始される前の戦いで、武田信玄は何度か喀血しており、「三方ヶ原」で早期決着に及んだのも、そうした事情があったからだと考えられています。

その後、1573年(元亀4年)2月に、武田軍は徳川軍の防衛拠点・野田城を攻略しますが、この戦いのあたりから武田信玄の病状はさらに悪化。武田軍は甲斐へと撤退します。1573年(元亀4年)4月12日、武田信玄が病没すると、1575年(天正3年)に「長篠の戦い」で、今度は織田・徳川連合軍が武田軍に勝利し、武田家は滅亡へとつながっていきました。

三方ヶ原の戦いの古戦場

三方ヶ原古戦場碑

三方ヶ原古戦場碑

三方ヶ原古戦場碑

三方ヶ原の戦いがあった場所については、三方原台地であるということ以外、はっきりとは分かっていません。

1984年(昭和59年)、「三方原歴史文化保存会有志」によって、三方原の一角である「三方原墓園」の敷地内に建てられた「三方ヶ原古戦場碑」があるのみとなっています。

犀ヶ崖資料館

三方ヶ原の戦いで大敗を喫した徳川家康が、何とか武田軍に一矢報いようと、夜襲するために野営した場所が断崖「犀ヶ崖」(さいががけ)付近でした。

この犀ヶ崖は、三方ヶ原古戦場として、1939年(昭和14年)に静岡県の史跡に指定された他、現在では「犀ヶ崖資料館」も併設され、三方ヶ原の戦いのジオラマや資料等が展示されています。

「三方ヶ原古戦場碑」施設情報

「三方ヶ原古戦場碑」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒433-8108
静岡県浜松市北区根洗町国道257-号線
電話番号 053-523-1111
交通アクセス 「三方原墓園バス停」下車 徒歩1分

交通アクセス情報を見る

駐車場 有り
公式サイト -

三方ヶ原古戦場碑のアクセス

三方ヶ原古戦場碑
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「三方ヶ原古戦場碑」
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三方ヶ原の戦い古戦場碑です。
三方ヶ原の戦い古戦場碑です。
石碑が2つ並んでいます。
石碑が2つ並んでいます。
戦いの様子が刻んであります。
戦いの様子が刻んであります。
戦いの説明を見ることができます。
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古戦場碑は三方原墓園の中にあります。
古戦場碑は三方原墓園の中にあります。
犀ヶ崖にも三方原古戦場碑があります。
犀ヶ崖にも三方原古戦場碑があります。
犀ヶ崖からほど近くに浜松城があります。
犀ヶ崖からほど近くに浜松城があります。
三方ヶ原の戦いが行なわれた三方原台地の、現在の様子です。
三方ヶ原の戦いが行なわれた三方原台地の…
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