天正伊賀の乱
天正伊賀の乱
「天正伊賀の乱」(てんしょういがのらん)は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)を舞台に、「織田信長」と伊賀国郷士衆との間で起こった戦いです。1578年(天正6年)~1579年(天正7年)の戦乱が「第一次天正伊賀の乱」、1581年(天正9年)の戦乱が「第二次天正伊賀の乱」と呼ばれています。武士と忍びと呼ばれる衆との戦いは、戦国時代を通してもあまり類を見ません。この戦いで、織田信長の大軍が伊賀忍者を壊滅状態に追い込みました。かつて天正伊賀の乱が繰り広げられた三重県伊賀市の古戦場観菩提寺 正月堂をご紹介します。
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天正伊賀の乱の概要

天正伊賀の乱の背景

伊賀地方は、鎌倉時代後期まで「東大寺」が荘園として管理していたため、中央による直接支配を受けていない特異な状況が長く続いていました。しかし、東大寺の勢力が衰退すると、伊賀地方は地侍から侵略を受けるようになります。

そのため伊賀地方の土豪や地侍らは、他者からの侵略に備える必要があり、それぞれの一族が連合体となって、国主を置かず独立した一党を形成し、土地を守ろうとしました。この仕組みが、「伊賀惣国一揆」(いがそうこくいっき)と言われています。

第一次天正伊賀の乱

織田信雄

織田信雄

1576年(天正4年)、織田信長の次男で北畠家の養子になっていた織田信雄(おだのぶかつ:北畠信意[北畠具豊])は、伊勢国の攻略に成功し、北畠一族を駆逐します。続けて伊賀国の掌握を目論んでいた織田信雄のもとに、伊賀の日奈知城主「下山平兵衛」(しもやまへいべえ)が訪れ、伊賀の内情を密告し、侵攻を持ち掛けました。

織田信雄はこれを受け入れ、伊賀国にあった「丸山城」の修築を滝川雄利(たきがわかつとし)に命じて、侵略への準備を始めましたが、この動きをいち早く察知した伊賀衆は攻撃をしかけ、滝川雄利らを敗走させました。

1579年(天正7年)9月16日、織田信雄は父・織田信長に無断で8,000の兵を率いて伊賀国攻めを行ないます。しかし、地の利に通じた伊賀衆は、夜襲や奇襲などで織田軍をかく乱。織田信雄は多くの兵を失って、伊勢へと敗走しました。このとき、重臣の「柘植保重」(つげやすしげ)が戦死するなど、織田信雄の伊賀国攻略は完全な失敗に終わります。

織田信長は、自分に断りもなく戦を起こし、しかも大敗という結果となったことに激怒。織田信雄を厳しく叱責し、「親子の縁を切る」とまで言い出します。一方で織田信長は、伊賀国に対する警戒を強めますが、「石山本願寺」との抗争の最中であったため、すぐには行動できませんでした。

第二次天正伊賀の乱

1581年(天正9年)4月、かねてより伊賀国攻めを考えていた織田信長のもとに、伊賀国の土豪「福地宗隆」(ふくちむねたか)と「耳須弥次郎」(みみすやじろう)が訪れます。両者は、織田信長が伊賀国侵攻を行なう際の案内役を買って出ました。柘植氏の一族で、織田信雄の重臣・柘植保重の父である福地宗隆は、息子を伊賀衆に殺害された経緯から、遺恨があったと言われています。

同年9月、織田信長は織田信雄を再び総大将とした50,000の軍を、伊賀国に向けて出兵させます。伊賀国は、伊賀郡、名張郡、阿拝郡、山田郡の4つの郡からなっていましたが、織田軍はこれを6方向から攻め上げます。

伊賀郡の「伊勢地口」を織田信雄・津田信澄、名張郡の「笠間口」を筒井順慶、「初瀬口」を浅野長政、阿拝郡の「柘植口」を丹羽長秀滝川一益、「玉滝口」を蒲生氏郷・脇坂安治、「多羅尾口」を堀秀政・多羅尾弘光という布陣で固めました。

伊賀地図

伊賀地図

本格的な攻撃が開始されたのは9月6日。織田軍総数50,000に対して、伊賀軍は5,000に過ぎませんでした。伊賀衆は「比自山城」(ひじやまじょう)に3,500人で籠城。非戦闘員まで含めると10,000人の大所帯でした。

比自山城は、激しい攻撃に幾度となくさらされましたが、堅い守りで織田軍はなかなか落とすことができませんでした。ところが、織田軍の総攻撃の前に、伊賀衆の兵は夜陰に紛れて「柏原城」へと逃亡しました。織田軍が比自山城に攻め込んだときには城はもぬけの殻。蒲生氏郷や堀秀政らはおおいに悔しがったと言います。

「平楽寺」には、1,500人の伊賀衆の兵が立て籠もり、得意のゲリラ戦で織田の大軍を手こずらせますが、柘植口から滝川一益の援軍が駆け付けたことにより、平楽寺は陥落。僧侶700人余りが斬首されました。

その後、織田軍は伊賀国全域の村や寺院に次々と火を点け、ほぼ壊滅状態となり、第二次伊賀の乱は幕を閉じることとなりました。

このように、第二次天正伊賀の乱では、織田軍に完膚なきまでにたたきのめされた伊賀国衆でしたが、反骨の火は消えることがなく、その後「本能寺の変」で織田信長が討たれたのを知ると、各地で伊賀衆が一斉蜂起し、しばらくの間、争いが続きました。

天正伊賀の乱の古戦場

比自山城跡

比自山城跡は天正伊賀の乱の舞台となった、現在の三重県伊賀市にあります。難攻不落の砦と言われ、天正伊賀の乱で北伊賀の地侍達が立て籠り、最も激しい戦いを繰り広げました。比自山の頂上にはかつて観音寺があり、この寺を本丸として堤を築き、柵や逆茂木を幾重にもめぐらせたうえで、門戸を取り付け、さらにを設けて砦としたのです。

現在は長閑な田園風景の中に、「大聖歓喜天」(だいしょうかんぎてん)の碑が建てられており、そこから比自山砦のあった場所を望むことができます。

壬生野城跡

三重県伊賀市川東にある春日神社鳥居から南へ200m進んだ左手に、「壬生野城跡」(みぶのじょうせき)の小山があります。ここでは、天正伊賀の乱で命を落とした、伊賀衆の墓石群を見ることができます。

堀切の一部が水となって残っており、当時は郭部の周囲にかなりの高さのある土塁を築き、防備を固めた砦となっていました。主郭の内部が一部果樹園として使われているなど、城址としての整備はされていませんが、丁寧に見て歩くと思いがけない発見のできそうな遺構です。

観菩提寺正月堂

観菩提寺正月堂

観菩提寺正月堂

観菩提寺正月堂」(かんぼだいじしょうがつどう)は、奈良時代の天平年間に、東大寺の別院として建立されたと言われる由緒ある寺院です。

「源頼政」の家臣「渡辺競」の末裔とされる島ヶ原党一族の象徴となっていました。

第二次天正伊賀の乱の際には、島ヶ原党はこの正月堂を守るために降伏したと言われています。

「観菩提寺 正月堂」施設情報

「観菩提寺 正月堂」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒519-1711
三重県伊賀市島ヶ原
電話番号 0595-59-3080
交通アクセス 「島ケ原駅」下車 徒歩18分

交通アクセス情報を見る

駐車場 あり
公式サイト https://www.igaueno.net/ninjaroad/?p=109

観菩提寺 正月堂のアクセス

観菩提寺 正月堂
観菩提寺 正月堂
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観菩提寺正月堂の本堂です。
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歴史を感じる山門です。
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本堂と山門は国の重要文化財に指定されています。
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