豊臣秀吉
「関ケ原の戦い」は、1598年(慶長3年)に、天下人であった「豊臣秀吉」が亡くなったことに端を発します。
豊臣秀吉は、天下を統一していたものの、朝鮮出兵など海外の戦争があったことで、まだ戦乱の世は続いていました。
朝鮮出兵の頃から、豊臣秀吉の家臣達の中でも「文治派」と「武断派」などで対立が浮き彫りになっていましたが、豊臣秀吉の威光によって、かろうじて均衡が保たれていたのです。
豊臣秀吉の死後、跡継ぎである「豊臣秀頼」(とよとみひでより)がまだ幼かったことから、実質的な統治を行なっていたのが有力大名でした。
具体的には、「豊臣五大老」の「徳川家康」、「前田利家」、「毛利輝元」、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)と、「豊臣五奉行」の「石田三成」、「増田長盛」(ましたながもり)、「浅野長政」(あさのながまさ)、「前田玄以」(まえだげんい)、「長束正家」(なつかまさいえ)です。
豊臣秀吉存命中は、政略結婚の斡旋(あっせん)や、領地の授与などを独断で行なうことが禁止されていました。
しかし、豊臣秀吉の死去以降、徳川家康が五奉行に打診せず政略結婚などを独自に行ないはじめたのです。そのような事態になると、五奉行も黙ってはいません。特に、筆頭である石田三成は、徳川家康に激怒します。
ただし、豊臣秀吉のお気に入りだった石田三成は、朝鮮出兵における文治派と武断派の対立も含め、多くの武将から煙たがられていたと言われ、「諸大名とのつながりを強めたい」、「多くの石高が欲しい」と考えていた大名達は、徳川家康の采配の方がありがたいと感じていました。
このことによって、さらに溝が深まり、関ケ原の戦いにつながったとされています。
石田三成
関ケ原の戦いを最初に仕掛けたのは、表向きには石田三成です。
1599年(慶長4年)、武断派の武将達が石田三成の暗殺未遂を引き起こします。徳川家康の仲裁によって、事なきを得ましたが、これを理由に石田三成は謹慎を命じられました。
そして、この機会を逃さず、徳川家康は「大坂城」(現在の大阪城)に入り込み、政務を取り仕切るようになったのです。
その後、徳川家康暗殺の嫌疑をかけられ、五奉行であった浅野長政が失脚。また、前田家が徳川家康に服従したことなどにより、五奉行は弱体化の一途をたどります。このあたりから、多くの人々は「徳川家康が天下を握るのでは?」と噂するようになりました。実質的に豊臣家の中で徳川家康が最も力を持っていたため、そのような認識が広がってもおかしくありません。
そして、1600年(慶長5年)の正月、徳川家康は各大名に年賀のあいさつに来るように求めました。多くの大名はこれに従いましたが、上杉家だけがこれに従いません。不自然な軍備拡大も相まって、上杉家に謀反の疑いありと判断した徳川家康は、上杉家に対して謀反の疑いへの釈明を求める書状を出します。
しかし、上杉家重臣である「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、徳川家康に対して挑発とも思える書状を返送しました。「直江状」と呼ばれる書状です。
この書状に激怒した徳川家康は、上杉家の謀反は確実として、大坂城から大軍を挙兵します。徳川派が大坂城を発ったことを契機に、石田三成は徳川家康打倒に向けての計画を練ることになりました。
そして、1600年(慶長5年)に徳川討伐の挙兵を行ないます。ただし、もともと多くの大名に嫌われていた石田三成は、自身の石高もそれほど高くないことから、毛利輝元を総大将に据えました。
それでも、指揮命令系統は石田三成が握っていたことから、実質的な総大将は石田三成であったと判断されることがほとんどです。このように、上杉家征伐に向けて東へ進軍している徳川家康に対して、石田三成の軍勢が背後から迫るという形となりました。
徳川家康
各軍の兵数については諸説あるものの、多くの場合石田三成率いる西軍の兵数が東軍の兵数を上回っていたとされています。
西軍10万人超、東軍70,000人超という記録もあり、兵力差としては、西軍がかなり優位に立っていました。
また、背後から討ち取りに行く状況でもあり、石田三成としては勝てる戦だと判断していたと考えられます。しかし実際には、わずか6時間ほどで徳川家康が勝利することとなるのです。
これはやはり、石田三成に人徳がなかったことが原因と言えます。そして、最も大きな要因のひとつは、西軍であった「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の謀反です。小早川秀秋が保有していた兵力に加えて、西軍4,000名の兵力すら共に寝返らせて、西軍の要であった「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の部隊を壊滅させます。これによって、大きく開いていた西軍と東軍の兵力差が一気に縮まったのです。
さらに、23,800人という多くの兵力を抱えていた西軍の毛利家ですが、一族である「吉川広家」(きっかわひろいえ)が東軍側と内通していたことから、戦いに参加せずに待機しているだけの状態に。
そうして一気に兵力差は逆転し、石田三成率いる西軍は、成す術なく敗れてしまいました。
あっと言う間に勝敗を決した関ケ原の戦いですが、この戦いによって多くの大名達のその後が決定されました。総大将ではなかったものの、実質的に軍を指揮していた石田三成は、戦いの責任を取って処刑。
また、同様に西軍で最後まで戦っていた多くの大名達も処刑、討死したのです。なかには宇喜多秀家のように、処刑は免れたものの、領地をすべて没収されるなどの処分を受けた大名もいます。
関ケ原の戦いによって、徳川家康と対立する有力な大名が一掃されました。名実共に天下統一を果たした徳川家康は、その後、1603年(慶長8年)、江戸幕府を開きます。
江戸幕府成立後は、関ケ原で東軍に付き、大きな功績を挙げた武将達は、西軍から勝ち取った領地を分け与えられました。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
関ケ原町歴史民俗資料館
関ケ原の戦いが行なわれたのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町です。非常に有名な合戦だからこそ、多くの場所が跡地として指定されています。
ただし、東軍と西軍あわせて18万人もの武士達が一堂に集結した場所。戦場跡とひと口に言っても、そのエリアは広大なため、最初に関ケ原町の役場近くにある「関ケ原町歴史民俗資料館」に足を運び、そこで戦場跡の地図を手に入れてから散策することをおすすめします。
また、資料館には、関ケ原の戦いに関する資料展示もあるので、事前に予習をすることも可能です。
関ケ原
戦場跡では、「関ケ原古戦場決戦地」、「徳川家康最後陣地」、「笹尾山石田三成本陣跡」、「松尾山小早川秀秋陣跡」を散策することができます。
関ケ原は、名前の通り平原です。現地を訪れてみると、石碑があるだけで特別観光施設があるという訳ではありません。
しかし、広大な平原を望んでみると、当時の戦がどれほど大きな規模の戦いだったのかを垣間見ることができます。
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