大坂冬の陣・夏の陣
大坂冬の陣・夏の陣
「大坂冬の陣・夏の陣」は、「関ヶ原の戦い」の勝利によって江戸幕府の征夷大将軍となり、天下の覇権を握った「徳川家康」が、大坂城(のちの大阪城)を拠点とする豊臣家(豊臣秀頼[とよとみひでより])を滅ぼした戦いです。1614年(慶長19年)の戦いを「大坂冬の陣」、1615年(元和元年)に再開された戦いを「大坂夏の陣」と言い、2回の合戦を合わせて「大坂の役」、または「大坂の陣」と呼びます。この戦いによって、栄華を誇った豊臣家は滅亡し、徳川家康・「徳川秀忠」らによって、約260年にわたる天下泰平の世を迎えることとなりました。かつて大坂冬の陣・夏の陣が繰り広げられた大阪府大阪市の古戦場大阪城をご紹介します。
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大坂冬の陣・夏の陣の概要

戦いの背景

徳川家康

徳川家康

関ヶ原の戦いの勝利から3年後、武家の最高位である征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命された徳川家康は、名実ともに天下の覇権を握りました。

そんな中、65万石にまで直轄領は減っていたものの、「豊臣秀吉」の子・豊臣秀頼と母「淀君」(よどぎみ)が、大坂で隠然たる勢力を保持していました。

一方、徳川家が政権を握ったとは言え、豊臣家の存在を脅威に感じていた徳川家康は、関ヶ原で味方をしてくれた大名達に手厚く恩賞を与え、巧みに豊臣家から心が離れていくように懐柔していきます。

また、徳川家康は自分の孫娘にあたる「千姫」を、豊臣秀吉の遺言だからと豊臣秀頼に嫁がせますが、これは豊臣家を安心させるためであって、征夷大将軍就任から2年後、息子の徳川秀忠に将軍の座を譲ります。これによって将軍は世襲制であり、豊臣家に政権を返す気はないことを示したのです。

さらに、豊臣家の財力を消耗させるため、故太閤(豊臣秀吉)の菩提(ぼだい)を弔うためと言いながら、各地の有名な寺の修復や再建などを命じて工事をさせ、豊臣家排除の方向へと動いていったのです。

合戦の街 関ヶ原
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戦いの引き金となった「鐘銘事件」(しょうめいじけん)

方広寺の釣鐘

方広寺の釣鐘

1614年(慶長19年)8月、豊臣秀吉の17回忌に、京都の「方広寺」(ほうこうじ)で大仏の開眼供養が行なわれた際、事件が起こります。

大仏殿の鐘銘(釣鐘に記してある銘文)に、「国家が安泰でありますように」と祈願文が書かれていたところ、徳川家康が、この「国家安康」は「家康」の名前を分断させ滅ぼすことを意味し、「君臣豊楽子孫殷昌」(くんしんほうらくしそんいんしょう)は、豊臣が豊かになりますようにという意味だと難癖を付け、供養の中止を命じます。

徳川家康はこれに乗じて「大坂城からの退去」を要求し、豊臣家を追い込んだのです。戦いのきっかけを探していた徳川家康の策略に嵌った豊臣家は、関ヶ原の戦いで主家をなくした武将などをかき集め、同年10月に大坂冬の陣が起こることとなりました。

大坂冬の陣

真田幸村

真田幸村

1614年(慶長19年)11月、ついに大坂冬の陣が開戦します。

徳川家康は、方広寺の鐘銘事件を口実に、全国の大名達を動員し、大坂城へと出陣。

豊臣家は、徳川家との戦いのため、「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)や「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])といった武将や浪人などを中心に兵力を増強して10万の軍勢を集めますが、対する徳川軍は30万と、圧倒的に徳川軍が有利でした。

数に劣っていた豊臣軍は、大坂城の周囲に多くの砦を配置し、大坂城の二重の堀を活用した籠城戦を選択。一方、徳川軍は数を活かして包囲戦で対抗しました。

大坂城への一斉砲撃

大坂城への一斉砲撃

各砦の戦いは、すべて徳川軍が勝利したものの、大坂城の弱点補強のために作られた「真田丸」という出城から、真田幸村(真田信繁)が鉄砲で徳川軍を反撃。真田幸村(真田信繁)は、誘い込みからの攻撃という戦法に優れており、これによって徳川軍は大打撃を受けました。

徳川軍はこれに対抗するため、最新鋭の砲弾を長距離飛ばせる大砲を取り寄せて、大坂城に撃ち込みます。このとき撃った大砲が、淀君の寝所近くに命中したことにより、豊臣軍が徳川家康に和睦を申請し、徳川家康もこれに了承。

1614年12月に講和が結ばれたことにより、大坂冬の陣は終結となりました。

大坂夏の陣

大坂冬の陣は和議で終わりましたが、それは油断させるための徳川家康の策略でした。徳川家康は、和議後、大坂城のをすべて埋め、城郭や出城を破壊。これによって、大坂城は防御機能を持たないハリボテの城となったのです。

豊臣秀頼

豊臣秀頼

徳川家康は、豊臣秀頼に対し、大坂城を出て、大和(現在の奈良県)、または伊勢(現在の三重県)へ国替するか、浪人を解雇するよう要求し、承知しなければ恭順の気持ちはないものと受け取ると挑発。

豊臣家はこれらの要求を一切拒否したことから、1614年(慶長19年)4月、大坂夏の陣の火蓋が切って落とされたのです。

冬の陣同様、兵力では勝てない豊臣軍は、次々と勇将を失いますが、再び真田幸村(真田信繁)が活躍を見せ、一時は徳川家康を自害にまで追い込みます。

しかし、援軍が来たことによってこれを逃れ、徳川軍は体勢を立て直します。豊臣軍は徳川軍の攻撃に、多数の犠牲を出しており、すでに壊滅状態でした。

そして、徳川方に寝返ろうとした大名が、大坂城に火を放ったことから大坂城は落城。豊臣秀頼は「籾蔵」(もみぐら)の中で、「毛利勝永」に介錯され自刃し、豊臣家は滅亡することとなりました。

これにより、戦国の世に終止符が打たれ、徳川幕府による約260年の天下泰平の世を迎えることとなります。

大坂冬の陣・夏の陣の古戦場

大阪城(大坂城)

大阪城

大阪城

大坂冬の陣・夏の陣の舞台となった大坂城は、豊臣氏の滅亡とともに1614年(慶長19年)に落城したあと、1620年(元和6年)から徳川幕府によって再築されます。

この際、石垣の基盤造りから行なわれ、豊臣家の痕跡は根絶されてしまったことから、現在の石垣は、徳川幕府による物です。

また、再建された天守閣は、1665年(寛文5年)落雷によって焼失してしまいましたが、1931年(昭和6年)に市民の熱い要望により、貴重な文化財を収蔵する博物館施設として復興されました。今は、「登録有形文化財」に指定されています。

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鴫野古戦場跡

「鴫野古戦場跡」(しのぎのこせんじょうあと)は、大坂冬の陣・夏の陣で最大の激戦地跡です。

現在の大阪府大阪市城東区に位置し、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の陣があったと言われています。現在は、その地に大阪市立城東小学校があり、東側に石碑が建立。東側通用門には、古戦場の解説や大坂冬の陣の両軍分布図も見ることができます。

小松山古戦場跡

玉手山公園案内図

玉手山公園案内図

「小松山古戦場跡」は、大坂夏の陣での最終決戦「道明寺合戦」が行なわれた跡地です。

現在、大阪府柏原市の「玉手山公園」内にあり、山頂付近には道明寺の合戦で討ち死にした豊臣方の武将「後藤基次」(ごとうもとつぐ:後藤又兵衛)の碑が建立されています。

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「大坂冬の陣・夏の陣」合戦・古戦場|YouTube動画

大坂冬の陣・夏の陣

「大阪城」施設情報

「大阪城」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒540-0002
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
電話番号 06-6941-3044
交通アクセス 「大阪ビジネスパーク駅」下車 徒歩8分

交通アクセス情報を見る

営業時間 9~17時(入館は16時30分まで)
※桜シーズン、ゴールデンウィーク、夏休みは開館時間の延長あり
休館日 12月28日~翌年1月1日
駐車場 有り
入場料 一般 600円(540円/510円/480円)
中学生以下 無料
※中学生は要証明(生徒手帳など)
※()内は15名以上99名以下/100名以上199名以下/200名以上の団体料金です。
公式サイト https://www.osakacastle.net/

大阪城のアクセス

大阪城
大阪城
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「大阪城」
施設情報サイトのご紹介

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大阪城の写真一覧

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石垣とお堀です。
石垣とお堀です。
お城の周辺の様子です。
お城の周辺の様子です。
大手門です。
大手門です。
金鯱です。
金鯱です。
石標柱です。
石標柱です。
残念石です。
残念石です。
青銅大砲です。
青銅大砲です。
公園内には梅園が広がっています。
公園内には梅園が広がっています。
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