分倍河原の戦い
分倍河原の戦い
「分倍河原の戦い」(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉幕府が滅亡に至る節目となった合戦です。鎌倉時代後期、現在の東京都府中市にあたる武蔵国多摩川沿いの分倍河原で、「北条泰家」(ほうじょうやすいえ)率いる鎌倉幕府と、「新田義貞」(にったよしさだ)率いる反幕府軍との間で起きました。分倍河原の戦いで、反幕府軍の新田義貞が勝利したことにより、北条執権は滅亡、鎌倉幕府は倒壊することとなったのです。かつて分倍河原の戦いが繰り広げられた東京都府中市の古戦場分倍河原古戦場碑をご紹介します。
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分倍河原の戦いの概要

鎌倉幕府への反感、そして挙兵

天皇の皇位継承問題で鎌倉幕府に対して反感をもっていた「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は、倒幕の志をもって謀りごとを巡らせていました。

1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の倒幕計画が幕府の知るところとなります。後醍醐天皇は、笠置山(現在の京都府相楽郡笠置町内)に籠城しますが、幕府軍に敗れ捕縛されたあと、隠岐島に流刑。それでも、隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、新田義貞に倒幕の命を下しました。

新田義貞が率いる反幕府軍は南へ進行し、途中、利根川に至るところで越後の新田一族(清和源氏の名流)や甲斐・信濃の源氏一族と合流。翌日には、「足利高氏」(あしかがたかうじ:のちの足利尊氏)の嫡男「千寿王」(せんじゅおう)も合流します。さらに、千寿王の参戦により、上野や下野、上総、常陸、武蔵の武士達も集合し、20万7千騎にも上る兵力に膨れ上がったのです。

分倍河原の戦いで鎌倉幕府は滅亡へ

新田義貞

新田義貞

新田義貞率いる反幕府軍は、現在の埼玉県の入間川を渡ると、5月11日には武蔵国入間郡小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)において、「桜田貞国」(さくらださだくに)率いる幕府軍を撃破。続いて5月12日には、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、幕府軍を撃破します。

それぞれ、「小手指原の戦い」、「久米川の戦い」と呼ばれる戦いです。幕府軍は、最後の防衛線となる分倍河原へと撤退します。

鎌倉幕府は、小手指原、久米川での敗戦の知らせを受けて、鎌倉幕府執権「北条高時」の弟・北条泰家を大将とする10万の援軍を派遣。分倍河原にて合流します。5月15日、反幕府軍の新田義貞は、分倍河原で幕府軍を攻撃しますが、今度は援軍を得た幕府軍が優勢になり、新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市堀兼)まで退却せざるを得なくなりました。

しかし、相模国の軍勢を率いた「三浦義勝」(みうらよしかつ)が新田軍の援軍に入ると、翌5月16日未明には、三浦一党が幕府軍を急襲。形勢は逆転して幕府軍は退却します。関戸(現在の東京都多摩市)付近において幕府軍は壊滅状態になり、北条泰家も鎌倉へ逃げ帰ってしまいます。分倍河原で幕府軍を圧倒したことで、新田軍には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となりました。

敗退した幕府軍は鎌倉に籠もり激しく抵抗しますが、5月21日、新田軍は稲村ケ崎から侵攻。ついに鎌倉は陥落します。翌22日には、北条高時をはじめ、残る一族が「菩提寺」(ぼだいじ:菩提を弔う寺院)である「東勝寺」(とうしょうじ:神奈川県鎌倉市にあった寺院)に火を放ち自害。これで鎌倉幕府は滅亡となってしまいました。5月8日の旗揚げから、実に2週間で決着がついた戦いでした。

南北朝の内乱と、新田義貞の最期

足利尊氏

足利尊氏

鎌倉幕府が滅亡したあと、後醍醐天皇は自らが政務を行なう「建武の新政」を開始しましたが、足利尊氏が後醍醐天皇と対立したため再び政情は不安定に。

そこで後醍醐天皇は足利尊氏追討の命を下します。これに対し、足利尊氏は北朝方の光明天皇を擁立し対抗。この南北に2名の天皇が存在する「南北朝時代」が、1336年(建武3年/延元元年)から1392年(明徳3年/元中9年)まで57年間続きます。後醍醐天皇を擁する南朝は、公家達による失政もあり、劣勢でした。

新田義貞は、南朝方の総大将として各地を転戦しましたが、箱根で起こった「湊川の戦い」で敗北を喫します。北陸に移り、越前で恒良親王と尊良親王を擁護して奮戦しましたが、「燈明寺畷」(とうみょうじなわて:現在の福井県福井市)の戦いで、1338年(暦応元年/延元3年)7月2日に命を落としました。

水田にはまり馬の足を取られて身動きができなくなったところ、眉間をで射られ、最期は自刃して果てたと伝えられています。その後、新田義貞の首は京都に送られ、市中を引き回されたうえ、晒し首に。最大の朝敵としての扱いでしたが、京都には新田義貞の恩恵を受け、慕う者も多数いました。

新田義貞の死は、南朝方に大きな打撃を与え、獅子奮迅の働きを挙げた武将を失った南朝の勢いは徐々に衰えていくこととなります。

分倍河原の戦いの古戦場

分倍河原古戦場碑

分倍河原古戦場碑

分倍河原古戦場碑

新田軍と北条軍が激戦を繰り広げた分倍河原の戦いの戦場跡は、東京都府中市分梅町にあります。

現在は1935年(昭和10年)に建てられた「分倍河原古戦場碑」があるだけです。鎌倉幕府を倒すほどの合戦があった場所とは思えない静かな新田川緑道脇に、その碑があります。

碑は、新田義貞の子孫で、元男爵の「新田義美」(にったよしてる)の筆により制作された物。京王線「中河原駅」から徒歩約10分の位置にあります。

新田義貞公之像

新田義貞公之像

新田義貞公之像

中河原駅の隣、JR南武線と京王線の乗換駅である「分倍河原駅」のロータリーにあるのは、1988年(昭和63年)に府中市によって建てられた「新田義貞公之像」です。

像の作者は、文化勲章受章者の「富永直樹」氏で、題字は、当時の府中市長「吉野和男」氏。日本刀を振り上げた勇壮な騎馬姿の像で、その顔は鎌倉の方向を見つめるように作られています。

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)は、江戸時代の1655年(明暦元年)から1657年(明暦3年)、土地の百姓が、象嵌(ぞうがん)が施された身分の高い武将のを掘り起こし、福井藩主「松平光通」(まつだいらみつみち)に献上したところ、福井藩軍法師範の手によって鑑定がなされ、新田義貞の兜と判明。これを受けて、この発見の地を「義貞戦没地」と認定し、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ碑が建てられました。

その後、1870年(明治3年)に新田義貞を祀る祠堂が建てられ、1876年(明治9年)に新田義貞を祭神とする「藤島神社」を建立。掘り出された兜は、藤島神社に奉納されたあと、現在の福井県福井市に移転し、現在は祠堂だけが残っています。なお、燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地は、別名「新田塚」と呼ばれています。

「分倍河原古戦場碑」施設情報

「分倍河原古戦場碑」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒183-0033
東京都府中市分梅町2丁目59-4
交通アクセス 「中河原駅」下車 徒歩8分

交通アクセス情報を見る

駐車場 無し
入場料 無料
公式サイト -

分倍河原古戦場碑のアクセス

分倍河原古戦場碑
分倍河原古戦場碑
分倍河原古戦場碑
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「分倍河原古戦場碑」
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分倍河原古戦場碑です。
分倍河原古戦場碑です。
碑の文字は、新田義貞の子孫で元男爵の新田義美氏の筆による物です。
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新田川緑道内に分倍河原古戦場碑があります。
新田川緑道内に分倍河原古戦場碑がありま…
分倍河原古戦場碑周辺の様子です。
分倍河原古戦場碑周辺の様子です。
静かな遊歩道が続いています。
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歴史を感じながら散歩ができます。
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分倍河原古戦場碑の説明板です。
分倍河原古戦場碑の説明板です。
分倍河原古戦場碑への看板です。
分倍河原古戦場碑への看板です。
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