厳島の戦い
厳島の戦い
「厳島の戦い」(いつくしまのたたかい)は、1555年(天文24年/弘治元年)に、安芸国厳島(現在の広島県)で、「毛利元就」(もうりもとなり)と「陶晴賢」(すえはるかた)との間で起こった合戦のことです。陶軍の兵力が20,000に対して、毛利軍が4,000と圧倒的に不利な状況でありながら、毛利軍が勝利を収めた戦いとして有名です。
この厳島の戦いは、「河越城の戦い」や「桶狭間の戦い」と合わせ、戦国時代の「日本三大奇襲戦」と呼ばれています。なお、この戦いをきっかけに毛利元就は飛躍し、やがて一代で山陽や山陰10ヵ国を領有する戦国大名となりました。かつて厳島の戦いが繰り広げられた広島県廿日市市の古戦場厳島神社をご紹介します。
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厳島の戦いの概要

厳島の戦いの背景

毛利元就

毛利元就

毛利氏が台頭する前の中国地方は、大内氏と尼子氏の二大勢力が覇権を争っていました。

九州北部から山陽にかけて力を持っていた「大内義隆」(おおうちよしたか)と、山陰を支配していた「尼子経久」(あまごつねひさ)が勢力争いを繰り広げるなか、安芸国の国人領主にすぎなかった毛利家は、大内氏や尼子氏と巧みな外交を行ないながら、どちらかに従属することで、その勢力を維持していました。

もともと毛利家は尼子氏の家臣でしたが、「毛利元就」(もうりもとなり)が家督を継ぐと、尼子氏の重臣「亀井秀綱」(かめいひでつな)が、毛利元就を失脚させようとしたことが判明。これに不信感を抱いた毛利元就は、尼子氏から離反。そののち、大内氏に人質として家臣「井上新三郎」を送ることによって臣従の意を表明し、毛利元就は大内氏の家臣となったのです。

吉田郡山城の戦い(郡山合戦)

吉田郡山城跡

吉田郡山城跡

毛利元就が大内氏に転属したあと、1540年(天文9年)、「尼子晴久」(あまごはるひさ)が率いる30,000の軍が、毛利元就の居城「吉田郡山城」(現在の広島県安芸高田市)へ進軍し、「吉田郡山城の戦い」(郡山合戦)が起こります。

毛利軍は、わずか3,000の兵と圧倒的に不利な状況でしたが、これに見事勝利。

この戦いによって尼子氏の勢力は弱まり、安芸や備後の国人衆達は、尼子氏から大内氏側に鞍替えし、尼子氏討伐を求める声が高まったことから、大内義隆は尼子晴久の討伐へと踏み切りました。

月山富田城の戦い

月山富田城跡

月山富田城跡

1542年(天文11年)、大内義隆は自ら総大将となり、総勢15,000の軍勢を引き連れて進軍します。

そのあと毛利元就をはじめ、「宍戸隆家」(ししどたかいえ)や「吉川興経」(きっかわおきつね)、「小早川正平」(こばやかわまさひら)らの国人領主達も合流し、最終的には40,000を超える大軍で、尼子氏の本拠地である「月山富田城」(がっさんとだじょう:現在の島根県安来市)を攻撃したのです。

当初は、大内軍が有利でしたが、難攻不落の月山富田城を前に戦いが長期化。なかなか月山富田城を落とせない大内勢に不安を抱いた国人領主らが、再び尼子氏へと寝返ったことにより、大内氏の包囲網は総崩れ。補給路も断たれたことによって、大内軍は全軍を撤退することとなりました。

これに意気消沈した大内義隆は、軍事からは遠ざかり、学問、文学、宗教に力を注ぎ始めるようになります。それと同時に、それまで重用していた武断派「陶隆房」(すえたかふさ)のちの「陶晴賢」(すえはるかた)を退け、文治派「相良武任」(さがらたけとう)らを重用するようになったのです。

さらに、軍事や政治から離れた大内義隆は、公家らと遊び耽っていたことから、武闘派・陶隆房は次第に謀反を考えるようになります。そして、1551年(天文20年)、「大寧寺の変」により、陶隆房は、主君である大内義隆を滅ぼし、大内家の実権を掌握したのです。

一方、毛利元就にとっては、大内義隆は仕えていた主君であり、嫡男「毛利隆元」の妻が大内義隆の養女だったことから、陶隆房に反発。これにより、「厳島の戦い」(いつくしまのたたかい)が起こったのです。

厳島の戦いが開戦

陶晴賢

陶晴賢

陶軍の兵力が20,000に対して、毛利軍が4,000と、圧倒的に不利な状況で、毛利元就が思い付いた作戦は、情報操作による敵の戦力ダウンと奇襲戦でした。

まず、毛利元就は、陶軍の重臣筆頭であった「江良房栄」(えらふさひで)の脅威を取り除くため、江良房栄に対して毛利軍に寝返るよう工作。しかし、これは敢え無く失敗に終わります。

毛利元就はこれで諦めることなく、今度は「江良房栄が謀反を企んでいる」という噂を流し、陶晴賢を疑心暗鬼に陥れます。

さらに、江良房栄の筆跡を偽造した謀反の証拠となる書状を用意し、これを陶晴賢の目に入るように仕向けました。この書状を目にした陶晴賢は、やはり噂は本当であったと江良房栄を暗殺。毛利元就の思惑通り、陶軍の戦力をダウンさせることに成功したのです。

次に、毛利元就が考えたのは、安芸の「宮島」(厳島)での奇襲攻撃でした。「兵多きが勝つ」が戦いの常識ですが、この戦力差を覆すには、大軍のメリットをなくし、少ない兵力を集中させる必要がありました。このため、大軍だと身動きが取りにくい宮島(厳島)で、一斉攻撃をするしかないと考えたのです。また、宮島(厳島)の周りは海に囲まれていたため、援軍が来ないこともメリットに挙げられました。

毛利元就は陶軍を宮島(厳島)におびき寄せるため、1554年(天文23年)、陶側の支城「宮尾城」(現在の広島県廿日市市)を急襲して宮島(厳島)を手中にし、陶晴賢を挑発します。さらに、宮尾城を拠点として防衛網を構築したのです。

これに加え、毛利元就の重臣「桂元澄」(かつらもとずみ)に対して、毛利家を裏切るふりをするよう命じ、桂元澄から「宮島の開戦後、陶軍に寝返り、毛利元就の本拠地である吉田郡山城を攻める」という偽の密書を陶晴賢に送らせます。さらには、「毛利軍は、今、厳島に来られたらと困る」という嘘の情報を流すことで、陶晴賢が宮島(厳島)を侵攻するように仕向けたのです。

これらの策略に対し、陶晴賢の家臣のなかには、「毛利元就が罠にはめようとしているのではないか、厳島に行くのは止めた方が良い」と進言する者もいましたが、圧倒的な兵力差があるという過信が仇となり、陶晴賢は毛利元就の策略にまんまと嵌り、大軍を引き連れて厳島(宮島)へ進軍していきました。

1555年(天文24年)9月21日、500艘の大船団を組んで厳島(宮島)に渡った陶軍は、「塔の岡」(現在の五重塔の辺り)に本陣を置き、20,000の大軍で宮尾城を囲み攻撃を開始します。一方、宮尾城の兵は、わずか500。攻撃開始からわずか数日で、たちまち窮地に陥ります。これに対し、毛利元就は、瀬戸内海の有力者であった「村上水軍」に援護を要請しました。

小早川隆景

小早川隆景

そして、同年9月30日の夜、暴風雨の中、毛利軍は厳島(宮島)への渡海を強行し、夜陰にまぎれて「包ヶ浦」(つつみがうら)に上陸し、毛利元就と嫡男の毛利隆元は、陶晴賢が本陣を構える塔の岡の背後へ、三男の「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)と村上水軍は船で島の正面へ向かい、2手に分かれて一気に攻め込みました。

深い眠りのなか、前後から挟撃された陶軍は、大軍ゆえにたちまち大混乱に陥ります。毛利軍の攻撃によって陶氏の水軍も次々と沈没し、まもなく自壊。

逃げ場を失った陶晴賢は、「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」という句を残し、「大江浦」(おおえのうら)で自刃することとなりました。

毛利元就が、嫡男・毛利隆元宛ての書状で、「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と記した通り、常に間者(敵方の様子を探る者)を抱え、その情報をもとに敵と己を知り、精緻に戦略を組み立てたことにより、陶軍20,000の敵に対し、毛利軍4,000という圧倒的に不利な戦いを、見事大勝利で終わらせることができたのです。

なお、厳島の戦いのあと、策略とは言え、厳かな厳島(宮島)を汚した毛利元就は、社殿や回廊を洗い、板を取り替えた他、厳島(宮島)の表面にある土を削って海に流すことで、戦で流れた血の臭いを消す作業を行なったと言われています。

この厳島の戦いをきっかけに、毛利元就は、山陰の尼子氏も制圧し、中国10ヵ国120万石という国内最大の戦国大名にのし上がっていくこととなりました。

厳島の戦いの古戦場

厳島神社

満潮で海に浮かんで見える様子

満潮で海に浮かんで見える様子

厳島神社」は、1996年(平成8年)、世界遺産として登録され、広島の観光地として有名です。

創建は593年(推古元年)で、1168年(仁安3年)「平清盛」によって、今の寝殿造の社殿が造営されました。

潮が満ち、廻廊で結ばれた社殿が海に浮かんだように見える光景は必見です。また、パワースポットとしても人気があります。

厳島神社へのアクセス方法は、広島電鉄宮島線「広電宮島口駅」で下車し、徒歩約5分のところにあるフェリー乗り場「宮島口桟橋」から乗船し、「宮島桟橋」で降りるのが便利です。車では、広島岩国道路の「廿日市IC」から、宮島口桟橋の駐車場まで約10分です。

「厳島神社」施設情報

「厳島神社」の施設情報です。「この施設の詳細を見る」ボタンからより詳しい投稿情報をご確認頂けます。

所在地 〒739-0588
広島県廿日市市宮島町1‐1
電話番号 0829-44-2020
交通アクセス 広島電鉄宮島線「広電宮島口駅」下車後、フェリー「宮島桟橋」下船 徒歩約10分

交通アクセス情報を見る

営業時間 【厳島神社】
[1月1日]
0~18時30分
[1月2~3日]
6時30分~18時30分
[1月4日~2月末日]
6時30分~17時30分
[3月1日~10月14日]
6時30分~18時
[10月15日~11月30日]
6時30分~17時30分
[12月1~31日]
6時30分~17時

【宝物館】
8~17時

【千畳閣】
8時30分~16時30分
休館日 年中無休
駐車場 無し
入場料 【昇殿初穂料】
大人 300円(250円)
高校生 200円(150円)
中・小学生 100円(70円)

【宝物館拝観料】
大人 300円(250円)
高校生 200円(150円)
中・小学生 100円(70円)
※()内は50名以上の団体料金です。

[昇殿・宝物館のセット価格]
大人 500円
高校生 300円
中・小学生 150円

【千畳閣昇殿料】
大人 100円
中・小学生 50円
※千畳閣には共通割引、団体割引はありません。
公式サイト http://www.itsukushimajinja.jp/index.html

厳島神社のアクセス

厳島神社
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「厳島神社」
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