キリスト教は、1549年(天文18年)、ポルトガル人宣教師「フランシスコ・ザビエル」が鹿児島に上陸し、日本に伝来しました。「織田信長」の治世では、キリスト教の布教を積極的に認め、各地に神学校が作られたほど。
豊臣秀吉
特に、九州の戦国大名は、ポルトガルなどとの交易「南蛮貿易」(なんばんぼうえき)により、大きな富を得たり、領地をイエズス会に寄進したりする者も現われました。また、キリスト教に改宗したキリシタン大名が治める領地は、領民の間にもキリスト教が盛んに広がっていったのです。
その後、九州平定を成し遂げた「豊臣秀吉」は、長崎やその周辺がイエズス会領となっていることを問題視。諸外国と大名の繋がりも全国統一の妨げになると判断し、1587年(天正15年)、宣教師を国外に追放する「バテレン追放令」を敷いたのです。
ただし、諸外国との交易は引き続き行なわれ、国内のキリスト教徒にも寛容な姿勢でした。
ところが、1596年(文禄5年)に事態は急変。土佐(現在の高知県)沖に漂着したスペイン船「サン・フェリペ」号の乗組員が、「キリスト教宣教師は、アジアの植民地化の手先である」と発言したのです。この事件を発端に、国内におけるキリスト教禁教の流れは加速度を増していきました。
徳川秀忠
豊臣政権によるキリスト教を禁教とする流れは、徳川政権にも引き継がれます。そして、1612年(慶長17年)、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)がキリスト教を禁止する「禁教令」(きんきょうれい)を敷いたことで、キリシタンの迫害が本格化して行くことになりました。
島原の乱の舞台は、肥前国(現在の長崎県と佐賀県)の島原半島と、肥後国(現在の熊本県)の天草諸島(あまくさしょとう)。2つの場所で同時に発生したことから、「島原・天草一揆」とも呼ばれています。
徳川政権以前、天草諸島はキリシタン大名「小西行長」(こにしゆきなが)によって治められていました。しかし、1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」の戦後処理により、小西行長は領主の座を追われます。
次に天草諸島の領主になったのは、肥前国「唐津藩」(現在の佐賀県唐津市)の藩主「寺沢広高」(てらざわひろたか)です。唐津の飛び地として天草を与えられた寺沢広高は、九州地方が飢饉に襲われたにもかかわらず、通常の2倍もの年貢を領民から搾取。
そして、同じくキリシタン大名の「有馬晴信」(ありまはるのぶ)に代わり、「島原藩」(現在の長崎県島原市)を治めていた「松倉勝家」(まつくらかついえ)も、領民の暮らしをかえりみない圧政を行なっていました。
また、両藩では、キリシタンに改宗を迫り、指を切り落としたり、熱湯攻めにしたりするなどの拷問も辞さない、徹底的な迫害が行なわれていました。キリシタンが多くいた両地における禁教令と無慈悲な統治。島原・天草の領民達に限界が訪れるのは時間の問題だったのです。
天草四郎
藩の圧政に不満が高まる中、天草の人々は、1613年(慶長18年)に天草からマカオへ追放された「マルコス宣教師」の言葉を思い出します。神父は民衆に「25年後、16歳の希望の光、神の子が出現して人々を救うだろう」と言い残していました。
そして、現われたのが長崎から戻った「天草四郎時貞」(あまくさしろうときさだ)だったのです。
天草四郎の本名は「益田四郎」(ますだしろう)で、小西行長に仕えた「益田甚兵衛」(ますだじんひょうえ)の嫡子と言われています。
キリスト教の迫害に大凶作、藩による重税、何もかもが悪い方向に向かっていた当時の天草、そして島原において、熱心にキリスト教を説く天草四郎は、まさに希望の光だったのです。
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。
島原と天草で、一揆を画策する首謀者達は、有明海に浮かぶ「湯島」(ゆしま)で会談を行ない、カリスマ的な存在だった天草四郎をリーダーに置くことを決定しました。
そして1637年(寛永14年)、島原の人々の怒りが頂点に達する事件が起きます。島原藩に年貢を納められなかった家の妊婦が、厳冬の川でさらし者にされ、命を落としたのです。
この事件を発端に、島原の領民は立ち上がり、代官を殺害。次々と寺社を焼き、島原藩の討伐軍を「島原城」(現在の長崎県島原市)へ追い込みます。城下を焼き払い、一揆は島原藩全体に広がっていきました。そして、島原に呼応するかのように、天草でも農民が蜂起。天草四郎らは「富岡城」(現在の熊本県天草郡)へと進軍します。
しかし、島原城、富岡城どちらも落城にはいたりません。島原・天草を合わせた一揆衆は、合流して廃城となっていた「原城」(はらじょう:現在の長崎県南島原市)に立てこもりました。原城に集まった民衆の数は、20,000とも30,000とも伝えられています。
快進撃を続ける天草四郎率いる一揆衆に対して危機感を覚えた江戸幕府側は、「板倉重昌」(いたくらしげまさ)を派遣。原城に総攻撃を仕掛けますが、一揆衆の守りは非常に堅く、苦戦を強いられます。そして、天草四郎の鼓舞により士気を上げた一揆衆は、板倉重昌を討ち取るのです。
原城での籠城戦
そこで徳川幕府は、「松平信綱」(まつだいらのぶつな)を派遣。松平信綱は、原城への兵糧攻めに加え、全九州の大名による12万人の大軍を集めて出陣します。さらに松平信綱は、平戸(現在の長崎県)から呼び寄せたオランダ軍船より128発の艦砲、石火矢台より298発の大砲を原城に撃ち込んだのです。
それでも原城は落城しないため、幕府側も降伏するよう説得しますが、一揆衆が呼びかけに答えることはありません。島原の乱の首謀者はキリシタン大名の家臣。一揆の中心は農民とは言え、農民へと転じた武士も多く、武器の扱いに長けていたことも、一揆が長引いた要因だったと言われています。
しかし、蜂起から4ヵ月、討伐軍の総攻撃により、ついに原城は陥落。まだ16歳だった天草四郎を含め、籠城していた一揆衆は、子供から大人まで全員処刑となりました。
なお、一揆鎮圧後、島原藩主の松倉勝家は、改易(かいえき:領地の没収)の上、斬首刑。唐津藩主・寺沢広高は、天草領40,000石を失い、10年後に自害しています。
徳川幕府は、島原の乱を機に、外交政策や宗教政策を一層厳しく取り締まり、全国でキリシタンの摘発を開始しました。島原の乱は、徳川幕府による、200年以上にわたる「鎖国政策」促進の一因となったのです。
原城跡 埋門跡
天草四郎と一揆衆が最期を迎えた「原城跡」(はらじょうあと)。
現在は、石垣が残るのみですが、1938年(昭和13年)に国の史跡文化財に指定されています。
2018年(平成30年)には、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産にも選出。堀や大手門跡がある他、天草四郎の像も建っています。
島鉄バス「原城前」バス停より徒歩約10~15分です。なお島原城周辺には、天草四郎や島原の乱に関連する施設がいくつもあります。
「南島原市有馬キリシタン遺産記念館」では、原城における戦いやキリシタン弾圧の歴史なども詳しく紹介しているので、ぜひお立ち寄りを。島鉄バス「役場前」より、徒歩約15分です。
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