藤原仲麻呂
藤原仲麻呂は、第45代天皇「光明皇后」(こうみょうこうごう)の甥っ子で、左大臣を務めた「藤原武智麻呂」(ふじわらのむちまろ)の次男という、エリート貴族の家に生まれました。
藤原家は、光明皇后を後ろ盾として政権を担っていましたが、737年(天平9年)天然痘が流行し、父である藤原武智麻呂が死去。
これによって、次の政権を担ったのが左大臣であった「橘諸兄」(たちばなのもろえ)でした。
橘家の台頭によって、藤原家の勢力はいったん衰えたように思われましたが、橘諸兄の政権下になっても、光明皇后を後ろ盾に藤原仲麻呂は順調に出世します。743年(天平15年)に「公爵」(こうしゃく:貴族の称号の第一位)になり、746年(天平18年)には、人事権を握る「式部省」(しきぶしょう)にまで上り詰めます。しかし、策略家だった藤原仲麻呂は、大幅な人事異動を行なうなどして、橘諸兄の勢力を徐々に削いでいったのです。
その後、749年(天平勝宝元年)に「聖武天皇」(しょうむてんのう)が譲位し、娘の「孝謙天皇」(こうけんてんのう)が即位すると、藤原仲麻呂は「大納言」に昇進。さらに、「紫微中台」(しびちゅうだい:政治・軍事機関)と「中衛大将」(ちゅうえのだいしょう:主君を護衛する軍)の長官もかねていたことにより、事実上、光明皇后と藤原仲麻呂が政権と軍権を掌握することとなりました。
756年(天平勝宝8年)、聖武上皇が亡くなると、遺言によって「天武天皇」(てんむてんのう)の孫「道祖王」(ふなどおう)が皇太子となります。
しかし、藤原仲麻呂らの策動により、道祖王は聖武上皇の喪中に女官と密通したことを咎められ、翌757年(天平勝宝9年)3月に皇太子を廃されます。
ここで、藤原仲麻呂が次の皇太子として推薦したのが「大炊王」(おおいおう:のちの淳仁天皇)です。大炊王は、藤原仲麻呂の早世した長男の未亡人を妻としており、藤原仲麻呂の邸に住まう身内同然の人物。これにより、藤原氏の権力をさらに盤石なものにしようとしたのです。
そんな藤原仲麻呂の台頭を良く思わない橘諸兄の子「橘奈良麻呂」(たちばなのならまろ)は、藤原仲麻呂を滅ぼして、「黄文王」(きぶみおう)を立てようと企てます。しかし、757年(天平勝宝9年)6月、密告によってこの企てが発覚。関係者は捕らえられ、数百名が処刑・配流となりました。
橘奈良麻呂の企てを防いだ藤原仲麻呂は、ますます専横(せんおう:わがままな振舞い)を強め、翌758年(天平宝字2年)8月には大炊王を、淳仁天皇として即位させることに成功。
これによって、藤原仲麻呂は、760年(天平宝字4年)1月に「太師」(たいし:太政大臣の唐風名)に任じられ、「位人臣」(くらいじんしん:最高の地位)となり、名実ともに最高権力者となったのです。
孝謙上皇・道鏡との対立
しかし、同年6月、藤原仲麻呂の大きな後ろ盾だった光明皇太后が死去。さらに、孝謙上皇とのパイプ役だった「藤原袁比良」(ふじわらのおひら)も亡くなり、藤原仲麻呂の権力に陰りが見え始めます。
この頃、病気がちだった孝謙上皇は、祈祷僧の「道鏡」(どうきょう)をそばに置き、寵愛するようになりました。
藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じ、孝謙上皇に道鏡との関係を諫めますが、これが孝謙上皇の怒りを買い、政治における重要事の決裁権を藤原仲麻呂から取り上げようとするなど、「孝謙上皇・道鏡」対「藤原仲麻呂・淳仁天皇」の対立が深まります。
絶対的権力を保持したい藤原仲麻呂は、クーデターを決意。764年(天平宝字8年)9月、藤原仲麻呂は諸国の兵士を集めて教練する際に、1国あたり20人の定員を600人に変更する「動員令」を出そうと企てたのです。
藤原仲麻呂の動員令は、動員を指示された大外記「高丘比良麻呂」(たかおかのひらまろ)らの密告により事前に露見。孝謙上皇は、「山村王」(やまむらおう)に命じ、皇権の発動に必要な「駅鈴」(えきれい:律令制で駅馬を利用するときに必要な鈴)と「御璽」(ぎょじ:天皇の印鑑)を淳仁天皇から奪いました。
それを知った藤原仲麻呂は、三男の「藤原訓儒麻呂」(ふじわらのくすまろ)に、駅鈴と御璽を回収した山村王を奇襲させ、取り返します。しかし、孝謙上皇は「坂上苅田麻呂」(さかのうえのかりたまろ)と「道嶋嶋足」(みちしまのしまたり)を派遣し、藤原訓儒麻呂を射殺。藤原仲麻呂一族の官位、及び藤原の氏姓、全財産を奪う宣言をしたのです。
平城京を脱出した藤原仲麻呂は、息子の「藤原辛加知」(ふじわらのしかち)が国守を務める「越前国」(現在の福井県)に向かおうと、琵琶湖西岸を北上します。しかし、朝廷軍は琵琶湖東岸から先回りして藤原辛加知を殺害し、越前の関所である「愛発関」(あらちのせき)を固めました。
藤原仲麻呂は朝廷軍に行く手を阻まれ退却し、近江国高島郡の勝野(乙女ヶ池)で舟を出し、湖上に逃れようとしますが、「坂上石楯」(さかのうえのいわたて)に捕らえられて斬首。藤原仲麻呂の一族と郎党34人も勝野で処刑され、1週間で藤原仲麻呂の乱は幕を閉じることとなりました。
このあと、淳仁天皇は764年(天平宝字8年)11月11日に淡路国に流され、替わって孝謙上皇が「称徳天皇」として再び即位し、称徳天皇と道鏡による独裁政権が6年間続きました。
乙女ヶ池
藤原仲麻呂が捕らえられた乙女ヶ池は、琵琶湖から分かれた内湖で、当時は琵琶湖の水面が乙女ヶ池の西の山麓地帯まで拡がっていたと考えられています。
現在、藤原仲麻呂を悼む石碑などはありませんが、乙女ヶ池の歴史を記した解説文がある他、釣り人に人気の公園となっています。
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