歴史上の実力者

道鏡 ~孝謙天皇の寵愛を受けた僧~

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平成から令和へと時代が変わり、女性天皇のぜひを問う声も高まっている昨今ですが、過去を振り返れば8人の女性天皇が存在していました。奈良時代の終わりに第46代・第48代天皇を務めた孝謙天皇(こうけんてんのう)もそのひとり。孝謙天皇が寵愛した道鏡(どうきょう)は、僧でありながら皇位を狙った悪党として「日本三大悪人」のひとりに数えられています。

孝謙天皇と道鏡との出会い

孝謙天皇(こうけんてんのう)は、日本史上6人目の女性天皇です。

父は聖武天皇(しょうむてんのう)、母は光明皇后(こうみょうこうごう)。弟である第一皇子、基王(もといおう)が夭逝し、他に適任者がいなかったことから、749年(天平勝宝元年)に聖武天皇が譲位し、孝謙天皇が即位しました。

以降、光明皇后とその甥の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)のサポートを受けて政治を行なっていましたが、758年(天平宝字2年)に母である光明皇后の看病を理由に、藤原仲麻呂の推す大炊王(おおいおう)に皇位を譲り、孝謙天皇は上皇となりました。そして大炊王は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)として即位したのです。

孝謙天皇と道鏡(どうきょう)が出会ったのは、その3年後の761年(天平宝字5年)のこと。

道鏡

道鏡

760年(天平宝字4年)に光明皇后が崩御すると、考謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂と関係は不和になっていきました。

761年(天平宝字5年)平城宮を改修するために一時的に都を近江国保良宮(おうみのくにほらのみや)に移した際、孝謙上皇は実母が亡くなり気落ちしていたのか、病に臥せってしまいます。このとき加持祈祷を行ない、献身的に看病したのが弓削氏(ゆげし)の僧である道鏡だったのです。

道鏡は700年(文武天皇4年)、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれました。若い頃に法相宗(ほっそうしゅう:中国の唐時代創始で大乗仏教宗派のひとつ。インドから帰国した玄奘[げんじょう:西遊記・三蔵法師のモデル]の弟子・慈恩大師基[じおんだいしき]が開いた宗派)の高僧・義淵(ぎえん)の弟子になりました。

奈良東大寺を開山(創始)した良弁(りょうべん)からサンスクリット語(梵語)を学び、禅に通じていたことから、内道場(宮中の仏殿)に入ることを許されていました。

孝謙上皇は女性天皇であるが故に生涯独身である必要があり、子がなかったため、常に後継問題のストレスにさらされていました。道鏡はそんな孝謙上皇の心のすき間に入り込み、信任を得ていったのです。

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女帝、孝謙上皇の寵愛を受けて出世した道鏡

孝謙上皇・道鏡と藤原仲麻呂・淳仁天皇の対立

孝謙上皇・道鏡と藤原仲麻呂・淳仁天皇の対立

藤原仲麻呂や淳仁天皇は、道鏡への寵愛を深める孝謙上皇を諌めますが、孝謙上皇はこれに激怒。考謙上皇と淳仁天皇は一触即発状態になってしまいます。

762年(天平宝字6年)、孝謙上皇は淳仁天皇が「不孝である」として仏門に入り別居します。そして政務を自身が執ると宣言しました。

764年(天平宝字8年)9月に藤原仲麻呂が軍備を始めたことを察知した考謙上皇は、淳仁天皇から軍の指揮権を奪ってしまいました。

藤原仲麻呂は「藤原仲麻呂の乱」を起こしてこれに対抗しますが、敗れて殺害されてしまいます。

そして淳仁天皇を廃して流罪にすると、孝謙上皇は同年10月に再び皇位に返り咲き、称徳天皇(しょうとくてんのう)となったのです。これは日本史上唯一の出家したままの即位でした。

称徳天皇は道鏡を朝廷の最高位である、太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に任命。弓削浄人(ゆげのきよひと)ら道鏡の実弟をはじめ、道鏡に縁のある者も朝廷において高い地位を得ていきました。

さらに称徳天皇は道鏡に「法王」という地位を与えました。法王とは宗教上、天皇よりも身分が高くなるということ。異例の出世を遂げた道鏡は、称徳天皇とともに仏教中心の政治を展開していきます。

皇室を揺るがす大スキャンダルへ

769年(神護景雲3年)、称徳天皇と道鏡にまつわる、皇室の歴史を揺るがす大事件「宇佐八幡宮神託事件」(うさはちまんぐうしんたくじけん)が勃発します。

道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)と大宰府の主神(かんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」という宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのです。実は、中臣習宜阿曽麻呂も道鏡の息がかかった者でした。

称徳天皇は喜び、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐八幡宮に派遣しました。ところが和気清麻呂が受けた神託は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」。皇位は皇族が継ぐもので、無道の人である道鏡は早く追い払いなさいというものでした。

この神託により、道鏡は天皇になることができなくなってしまったのです。怒った称徳天皇は和気清麻呂に別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という屈辱的な名前を与えて流罪にしました。

道鏡も和気清麻呂を暗殺しようと試みますが、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたと言います。

この事件により、道鏡は女帝をたぶらかして皇位を狙った不届き者として、平将門足利尊氏とならぶ「日本三悪人」に数えられるようになりました。

語りつがれる道鏡の不名誉な噂

宇佐八幡宮神託事件は面白おかしく語り継がれ、道鏡は天皇と姦通していたとする説や、巨根説などのスキャンダラスな噂が生まれました。江戸時代には「道鏡は座ると膝が三つでき」といった破廉恥な川柳もささやかれていたとか。

もっとも、道鏡が皇位に就くことは称徳天皇の希望だったという説や、称徳天皇と道鏡が姦通することは不可能だという説、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になるという神託は、称徳天皇を喜ばせるために中臣習宜阿曽麻呂がねつ造したものだという説など、道鏡の無実を主張する説も多々あります。

真相は分かりませんが、もしも道鏡が天皇に即位していたとしたら、神武天皇から今上天皇まで126代続く天皇家の歴史、ひいては日本の歴史はまったく違ったものになっていたに違いありません。

ちなみに一時は天皇の椅子も視野にあった道鏡ですが、事件の翌年の770年(神護景雲4年)に称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、道鏡の権力は一気に低下します。軍事指揮権は太政官である藤原永手(ふじわらのながて)や吉備真備(きびのまきび)に奪われました。

道鏡は長年の功労により、処刑まではされませんでしたが、弟の弓削浄人ら親族4名は土佐に流されました。道鏡は下野国(しもつけのくに)の下野薬師寺別当(しもつけやくしじべっとう)に左遷され、そこで没します。

道鏡は死後、一庶民として寂しく葬られたと言います。

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