天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で知られる岐阜県不破郡関ケ原町には、関ヶ原の戦いの舞台となった史跡を巡るおすすめのウォーキングコースがいくつかあります。
関ケ原は、古くから東西を結ぶ交通の要衝でした。一説によると、関ケ原の地名は「原っぱ」(はらっぱ)から来ているとも言われており、その名称の通り自然豊かな土地が広がっています。
かつて決戦の地として多くの武将が集結した関ケ原には、どのような史跡が残っているのか。歩いて史跡を巡りたい方必見のウォーキングコース(約6kmをおよそ6時間かけて巡る「行軍コース」)を順にご紹介します。
関ヶ原駅前観光交流館
「関ヶ原駅前観光交流館」(せきがはらえきまえかんこうこうりゅうかん)は、「いざ!関ヶ原」という愛称を持つ、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)の史跡を巡る出発点にふさわしい施設。
「JR関ヶ原駅」の傍に位置し、観光情報の発信拠点となっている場所です。
観光案内の他、おみやげショップや休憩スペースなどもあり、関ヶ原の戦いにまつわる史跡巡りの拠点として活用されています。
< 基本情報 >
松平忠吉・井伊直政陣跡
「東首塚」(ひがしくびづか)、及び「松平忠吉・井伊直政陣跡」(まつだいらただよし・いいなおまさじんあと)は、JR関ヶ原駅の北に位置し、関ヶ原駅前観光交流館から徒歩約5分の場所にある史跡。
東首塚は、関ヶ原の戦いで戦死した東軍諸将の首を埋めたと言われている場所です。
この地でひと際目立つのが、東軍「井伊直政」(いいなおまさ)の赤い陣旗。
陣旗に書かれている「井」の文字は、「井桁紋」(いげたもん)という文字紋の一種。井伊直政が用いた家紋として有名です。
< 基本情報 >
関ヶ原町歴史民俗学習館
「関ヶ原町歴史民俗学習館」(せきがはらちょうれきしみんぞくがくしゅうかん)は、松平忠吉・井伊直政陣跡から徒歩約5分の場所にある、真っ白な外観と武将の陣旗が目印の資料館。
館内には、「関ヶ原合戦図屏風」(せきがはらかっせんずびょうぶ)をはじめ、「甲冑」、「大筒」、「火縄銃」、「ほら貝」など、合戦に使用された武具が公開されています。
1854年(嘉永7年)に描かれた関ヶ原合戦図屏風は、絵師の「翫月邸峩山」(かんげつていがせん)が描いた合戦屏風図です。これは、絵師の「狩野梅春」(かのうばいしゅん)が描いた「彦根屏風」(ひこねびょうぶ)という屏風絵を模写した作品で、本館にはそのレプリカが展示されています。
関ヶ原合戦図屏風には、関ヶ原の戦い本戦の様子が細かく描写されており、右方に描かれた東軍が、左方の西軍を攻め立てる構図となっているのが特徴。描かれている人物は、ひとりひとり丁寧に描かれ、表情も豊か。時間がない場合は、関ヶ原の戦い本戦における、東西両軍の陣形と戦いの流れを解説付きの映像で観られる大型ジオラマがおすすめです。
< 基本情報 >
田中吉政陣跡
「田中吉政陣跡」(たなかよしまさじんあと)は、関ヶ原町歴史民俗学習館から南へ、徒歩約1分の場所にある史跡。
「田中吉政」(たなかよしまさ)は、東軍に属して「黒田長政」(くろだながまさ)と共に、西軍の「石田三成」(いしだみつなり)と戦った武将です。
関ヶ原の戦い本戦後、逃亡していた石田三成を捕縛したのが田中吉政でした。
田中吉政は、敗戦の将となった石田三成に対して、手厚くもてなした逸話があり、戦後は筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南西部)「柳川城」(やながわじょう)を与えられて、近代的な町づくりを行なったと言われています。
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徳川家康最後陣跡
「徳川家康最後陣跡」(とくがわいえやすさいごじんあと)は、田中吉政陣跡のすぐそばにある史跡。
関ヶ原町歴史民俗学習館の裏手、JR関ヶ原駅からすぐ近くの緑豊かな「陣場野公園」(じんばのこうえん)内にある陣跡です。
ここは、関ヶ原の戦い本戦後、「首実検」(くびじっけん:大将が自ら行なう作業で、討ちとった敵方の首級[しゅきゅう:頭部のこと]を判定すること)が行なわれた場所として知られています。
土壇(どだん:斬首の刑を行なうために、一段高く土で築いた場所)の中央には、「床几場徳川家康進旗験馘處」(しょうぎばとくがわいえやすしんきけんかくしょ)と書かれた柱が立っていますが、これは江戸時代に江戸幕府の命を受けた領主「竹中家」(たけなかけ)によって築かれた標柱(ひょうちゅう:目印となる柱のこと)です。
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細川忠興陣跡
「細川忠興陣跡」(ほそかわただおきじんあと)は、徳川家康最後陣跡から徒歩約10分の場所にある史跡。
「細川忠興」(ほそかわただおき)は、約5,000の兵を率いて相川の南付近(現在の[JAにしみの関ヶ原支店]の裏手)に布陣。
関ヶ原の戦い本戦の際には、首級130余りを挙げた猛将として有名です。
また、「明智光秀」(あけちみつひで)の娘「細川ガラシャ」(ほそかわがらしゃ)を正室に迎えたことでも知られています。
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黒田長政・竹中重門陣跡
「黒田長政・竹中重門陣跡」(くろだながまさ・たけなかしげかどじんあと)は、細川忠興陣跡から徒歩約12分の場所にある史跡。
東軍の黒田長政、及び「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)の子である「竹中重門」(たけなかしげかど)の両軍が布陣した場所です。
黒田長政は、関ヶ原の戦い本戦において大きな勲功を挙げた武将。
本戦では、鉄砲隊を従えて西軍相手に切り込み、石田三成の右腕として名を馳せていた「島左近」(しまさこん)を討ち取ったのが黒田長政でした。
竹中重門は、河内国(かわちのくに:現在の大阪府)の武将。はじめは西軍として参戦していましたが、井伊直政の仲介により東軍へ寝返り、そのあとは幼なじみである黒田長政に協力して戦功を挙げました。
戦後、逃亡していた西軍「小西行長」(こにしゆきなが)を捕縛する大功を挙げ、「徳川家康」(とくがわいえやす)から直筆の感状(かんじょう:主君が手柄を立てた家臣へ対して送る書状)を贈られています。
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関ヶ原古戦場決戦地
「関ヶ原古戦場決戦地」(せきがはらこせんじょうけっせんち)は、黒田長政・竹中重門陣跡から徒歩約20分の場所にある史跡。
現在の決戦地跡は、田園に囲まれた穏やかな風景のなかにありますが、この地は関ヶ原の戦いにおいて、最も激しい戦闘が行なわれた場所です。
笹尾山の麓に布陣した西軍の石田三成は、この地で東軍諸将からの猛攻に立ち向かいました。
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笹尾山・石田三成陣跡
「笹尾山・石田三成陣跡」(ささおやま・いしだみつなりじんあと)は、関ヶ原古戦場決戦地から徒歩約15分の場所にある史跡。
石田三成は、関ヶ原の戦い当日、笹尾山に布陣しました。
現在でも、敵の攻撃からの防御として使われた竹矢来(たけやらい:竹を粗く交差させて作った囲い)や馬防柵(ばぼうさく)が復元・設置されています。
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島津義弘陣跡
「島津義弘陣跡」(しまづよしひろじんあと)は、笹尾山・石田三成陣跡より南に約800m、徒歩約10分の場所にある史跡。
西軍「島津義弘」(しまづよしひろ)は、現在「神明神社」(しんめいじんじゃ)がある場所に布陣していました。
神明神社の裏側にあるのが「小池・島津義弘陣所跡碑」(こいけしまづよしひろじんしょあとひ)と刻まれた石碑です。
島津義弘は、関ヶ原の戦い本戦終盤、東軍のなかに取り残されます。 絶体絶命の状況にありながらも、決死の覚悟で敵中突破を試みて、見事、薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西半部)へと逃げ延びました。これが「島津の退き口」(しまづののきくち)通称「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる突破劇です。
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北天満山・小西行長陣跡
「北天満山・小西行長陣跡」(きたてんまやま・こにしゆきながじんあと)は、関ヶ原古戦場開戦地から徒歩約1分の場所にある史跡。
小西行長は、西軍として最後まで戦い抜いた武将です。関ヶ原の戦い本戦では、東軍の田中吉政、「筒井定次」(つついさだつぐ)と交戦しますが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)をはじめとした西軍諸将の寝返りにより部隊は壊滅。
小西行長は、伊吹山へと逃れたあと、キリシタンであることを理由に切腹することなく自ら東軍へと降伏し、そののちは石田三成らと共に六条河原で処刑されました。
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南天満山・宇喜多秀家陣跡
「南天満山・宇喜多秀家陣跡」(みなみてんまやま・うきたひでいえじんあと)は、北天満山・小西行長陣跡から徒歩約10分の場所にある史跡。
宇喜多秀家は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)から厚い信頼を置かれていた武将。
豊臣政権下においては「五大老」のひとりとして重用され、関ヶ原の戦いでも西軍の主力として最後まで戦い続けました。
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平塚為広碑
「平塚為広碑」(ひらつかためひろのひ)は、南天満山・宇喜多秀家陣跡から徒歩約15分の場所にある史跡。平塚家8代目「平塚為忠」の次男「平塚定二郎」が建立した碑です。
「平塚為広」(ひらつかためひろ)は、薙刀の名手として知られる武将。関ヶ原の戦いにおいては西軍に属し、小早川秀秋が寝返る可能性があることを「大谷吉継」(おおたによしつぐ)から聞かされていたため、小早川秀秋を警戒していました。
開戦後しばらくして小早川秀秋の寝返りが伝わると、部隊を率いて奮戦しますが、呼応して寝返った「脇坂安治」(わきざかやすはる)、及び東軍の「藤堂高虎」(とうどうたかとら)、「京極高知」(きょうごくたかとも)らの猛攻により討ち取られます。
なお、女性運動家として知られる「平塚らいてう」(ひらつからいちょう)は、平塚為広の末裔です。
< 基本情報 >
大谷吉継陣跡
「大谷吉継陣跡」(おおたによしつぐじんあと)は、平塚為広碑から徒歩約10分の場所にある史跡。
山中(やまなか)の「大谷吉継墓・湯淺五助墓」(おおたによしつぐのはか・ゆあさごすけのはか)から少し下った場所にあります。
大谷吉継は、西軍に属して指揮を執った知将。本戦においては、病のために輿に乗り、後方から軍を指揮していましたが、小早川秀秋の寝返りに呼応した脇坂安治、「朽木元綱」(くつきもとつな)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「赤座直保」(あかざなおやす)の部隊に襲われて敗走。大谷吉継はそののち自害し、これがきっかけとなり西軍の敗北が決定的になりました。
< 基本情報 >
湯淺五助墓・大谷吉継墓
大谷吉継墓・湯淺五助墓は、大谷吉継陣跡から徒歩約5分の場所にある2基のお墓。
右側の五輪塔が大谷吉継の墓、左側が湯淺五助の墓です。
「湯淺五助」(ゆあさごすけ)は、大谷吉継の右腕として活躍した家臣です。
素性や来歴は不明ですが、関ヶ原の戦いにおいては、大谷吉継の切腹に際して介錯人を務め、その首を隠すために戦場から離れた場所へ埋めたと言われています。
< 基本情報 >
脇坂安治陣跡
「脇坂安治陣跡」(わきさかやすはるじんあと)は、大谷吉継墓・湯淺五助墓から徒歩約30分の場所にある史跡。
脇坂安治は、「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)のひとりに数えられる武将。
関ヶ原の戦い本戦の前から徳川家康と通じていましたが、石田三成が突然挙兵したことで予定が狂い、はじめは西軍として参戦します。
そののち、小早川秀秋の寝返りと同時に脇坂安治も東軍に就き、呼応した朽木元綱や小川祐忠らと共に大谷吉継隊を攻撃。
戦後は、事前に東軍へ属することを伝えていたことから、伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)の「大洲藩」(おおずはん)5万3,500石に加増・移封されます。
< 基本情報 >
松尾山・小早川秀秋陣跡
「松尾山・小早川秀秋陣跡」(まつおやま・こばやかわひであきじんあと)は、脇坂安治陣跡から徒歩約45分の松尾山山頂にある史跡。
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室「高台院」(こうだいいん)の甥で、豊臣秀吉から可愛がられて育ったと言われています。
しかし、豊臣秀吉の側室「淀殿」(よどどの)が「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を産むと、事態は一変。
豊臣秀吉からことあるごとに所領を没収されたり、減封されたりするようになります。そして、困っていた小早川秀秋を助けたのが、徳川家康でした。
諸説ありますが、小早川秀秋は関ヶ原の戦い本戦がはじまる以前から徳川家康と通じており、本戦当日も東軍へ寝返ることを大谷吉継らから警戒されていたと言われています。
< 基本情報 >
福島正則陣跡
「福島正則陣跡」(ふくしままさのりじんあと)は、小早川秀秋陣跡から徒歩約 50分、月見の名所としても知られる「春日神社」(かすがじんじゃ)の境内にある史跡。
境内にそびえ立つ樹齢 800 年の「月見宮大杉」(つきみのみやおおすぎ)は、関ヶ原合戦図屏風にも描かれている大杉として知られています。
「福島正則」(ふくしままさのり)は、賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられる武将。
豊臣秀吉に臣従していましたが、石田三成との関係がこじれた結果、関ヶ原の戦いがはじまる以前から東軍に就くことを表明していました。本戦では、西軍の宇喜多秀家隊と戦い、一時は退却を余儀なくされましたが、のちに反撃に成功。
戦後は、西軍総大将「毛利輝元」(もうりてるもと)が立てこもる「大坂城」(おおさかじょう:現在の大阪城)の接収に奔走し、その功績が認められて安芸国広島(あきのくにひろしま:現在の広島県広島市)、及び備後国鞆(びんごのくにとも:現在の広島県福山市鞆町後地)49万8,000石に加増・転封されます。
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藤堂高虎・京極高知陣跡
「藤堂高虎・京極高知陣跡」(とうどうたかとら・きょうごくたかともじんあと)は、福島正則陣跡から徒歩約15分の「関ヶ原中学校」(せきがはらちゅうがっこう)の敷地内にある史跡。
藤堂高虎は、徳川家康から厚く信頼されていた武将。
関ヶ原の戦い本戦では、京極高知と共に大谷吉継隊と戦った他、脇坂安治ら西軍諸将に寝返るように呼びかけ、戦後はその功績が認められて「宇和島城」(うわじまじょう)8万石の安堵、及び「今治城」(いまばりじょう)12万石を加増されます。
京極高知は、キリシタン大名として知られる武将。豊臣秀吉に仕えていましたが、関ヶ原の戦いでは東軍に与して藤堂高虎と共に大谷吉継隊と衝突し、戦功を挙げます。
江戸時代に入ると、「京極家」(きょうごくけ)の嫡流は家格が高い家臣にのみ着任することが許される「高家」(こうけ:儀式や典礼を司る役職)に取り立てられ、以後幕末まで江戸幕府から厚い信頼を受けました。
< 基本情報 >
西首塚
「西首塚」(にしくびづか)は、藤堂高虎・京極高知陣跡から徒歩約5分の場所にある史跡。
関ヶ原の戦いにおいて戦死した兵を埋葬・供養した場所です。
これを担ったのが、東軍の将であった竹中重門。関ヶ原の地は竹中重門の所領でした。
そのため、徳川家康から命を受けて兵達の埋葬や首実験の手伝い、また戦闘によって破壊された寺社の修復を行なったと言われています。
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