戦国愛のカタチ
妻を愛しすぎた男、細川忠興の屈折した愛情
戦国愛のカタチ
妻を愛しすぎた男、細川忠興の屈折した愛情

文字サイズ

1563年(永禄6年)に生まれた細川忠興(ほそかわただおき)と細川ガラシャ。この同級生カップルの夫婦関係を示す逸話にこんなものがある。ある日、2人が庭先で食事をしていたときのこと。庭師がガラシャに見とれていたと激高した忠興は、庭師の首を切り落とし、日本刀(刀剣)に付いた血をガラシャの着物で拭うという暴挙に出た。ところがガラシャはその惨状をものともせず、食事を続け、汚れた着物を数日間着続けたと言う。そんな姿を見て忠興が「蛇の様な女だな」と言うと、ガラシャは冷ややかな表情で「鬼の女房には、蛇がお似合いでしょう」と答えた。嫉妬に狂う夫と冷めた妻。この温度差が生まれるまでの夫婦の歴史を振り返ってみよう。

結婚1年~4年目-信長も頬をゆるめる新婚カップル

細川忠興

細川忠興

忠興とガラシャが結婚したのは1578年(天正6年)、2人が15歳のとき。

結婚を命じた織田信長が「人形のように可愛い夫婦」と言うほど、見目麗しくお似合いのカップルで、結婚当初の2人は仲睦まじかったよう。

結婚の翌年には長女の「ちょう」が、その翌年には長男の忠隆(ただたか)が誕生している。

結婚5年~7年目-二人を分かつ青天の霹靂

本能寺の変

本能寺の変

順風満帆かと思われた夫婦生活だったが、結婚5年目の1582年(天正10年)、突如暗雲がたちこめる。ガラシャの父、明智光秀が謀反を起こし、織田信長を襲撃。本能寺の変だ。

内通を疑われても仕方がない状況に陥った忠興は、ただちにガラシャを丹後国味土野の山奥に幽閉。その状態は約2年間続いた。

別居期間中も忠興のガラシャへの愛情は変わらなかったようで、1583年(天正11年)に次男の興秋(おきあき)が生まれている。しかし、不自由な幽閉生活は次第にガラシャの心を変えていった。

結婚7年~10年目-ガラシャ、キリシタンになる

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1584年(天正12年)3月、豊臣秀吉のはからいで、ようやくガラシャは細川家の大坂屋敷に戻った。再びともに暮らすようになった忠興とガラシャだが、2人の間に入った小さな亀裂は広がるばかり。うつ状態に陥っていたガラシャは忠興から聞いたカトリックに救いをもとめるようになる。

イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが書いた「日本史」によると、ガラシャの心が自分から離れていくのを察したのか、嫉妬心によるものか、この頃から忠興はガラシャの行動を厳しく監視するようになる。屋敷を出入りする者を記録し、伝言を残すことも許さなかったという。

ガラシャは教会に出かけることができないため、侍女の「いと」を教会に通わせて洗礼を受けさせ、1587年(天正15年)に忠興が九州征伐に出陣している間に、自室でいとの手によって洗礼を受けた。

結婚10年~22年目-ガラシャ、離婚を望む

ガラシャの心は洗礼を受けことで、落ち着きを取り戻していく。もともと気高く気性の激しい性格だったが、明るく穏やかになり、周囲にも優しく接するようになったという。

一方、九州征伐から戻った忠興は、ガラシャの洗礼に激怒し、棄教させようとする。しかし、ガラシャは頑としてこれを拒否。すると忠興は「側室を5人持つぞ」と宣言。一夫一婦制を理想とするキリシタンへの当てつけか、嫉妬させたいという幼稚な発想か、いずれにしても、ままならないガラシャをなんとかしたいという思いから出たこの言葉は、逆にガラシャの心を遠ざけてしまう。

離婚を考えるようになったガラシャは宣教師に相談するが、カトリックでは離婚を認めていないため、説得されて思いとどまっている。

冒頭の「鬼の夫に蛇の妻」の逸話はこの頃のものだろう。

結婚23年目-今生の別れ

石田三成

石田三成

離婚を願っていたガラシャだが、別れは突然、自らの死という形で訪れる。

1600年(慶長5年)、忠興は「自分が不在中、妻の名誉に危険が生じたら、まず妻を殺して全員切腹せよ」と家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ)に言い残して上杉征伐に出かけた。

その留守中に、石田三成が細川家の屋敷を囲み、ガラシャに人質になるように迫ったのだ。

ガラシャはこれを拒否。侍女達を逃がし、細川家の家臣の小笠原秀清に介錯させて亡くなった。このとき、小笠原秀清は逃げることをすすめたが、ガラシャは「夫の言い付け通り、私は自害します。一歩も屋敷から出ることはありません」と断った。

その後小笠原秀はガラシャの遺体が残らないように、屋敷に爆薬を仕掛け火を放ち、他の家臣とともに自害した。

ガラシャの壮絶な死を知った忠興は、棄教まで迫ったキリスト教式の葬儀を行ない、豊前小倉藩ではキリスト教を保護して、ガラシャの菩提を弔ったという。

また、侍女達とともに長男、忠隆の嫁が逃げていたことが分かると、忠孝はこれに激怒し、忠隆に離縁するよう命じ、忠隆がこれを拒否すると、勘当して廃嫡してしまった。

ガラシャを愛するがゆえにクレイジーな言動を執ってしまう忠興と、離婚したいほど嫌っていたはずなのに最後は頑なに夫の言葉を守って死んでいったガラシャ。気の強さは似た者同士。最後には二人の心は通じ合っていたのではないかと思えてならない。

妻を愛しすぎた男、細川忠興の屈折した愛情

妻を愛しすぎた男、細川忠興の屈折した愛情をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「戦国愛のカタチ」の記事を読む


ラブレターに見る、性別を超えた戦国武将の恋ごころ

ラブレターに見る、性別を超えた戦国武将の恋ごころ
LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーの頭文字)やSOGI(Sexual Orientation and Gender Identityの頭文字)といった言葉が世間を賑わし、セクシャルマイノリティーの人権が叫ばれる現代だが、歴史を振り返れば、かつての日本の恋愛は今よりもっと開放的であった。 男色を意味する「衆道」は本来、「主君への忠義のためなら命も捨てる」という武家の少年が持つべき精神性を表す言葉だったとか。裏切り、謀略なんでもありの戦国時代には、命を懸けた深い信頼で結ばれた主従関係が恋愛に発展するケースも多かった。勇猛果敢なイメージのある武田信玄や伊達政宗も家臣との秘められた関係を持っていた戦国武将のひとり。彼らが同性の恋人に送った熱烈な恋文を覗いてみよう。

ラブレターに見る、性別を超えた戦国武将の恋ごころ

足利義満と世阿弥の麗しきボーイズラブ

足利義満と世阿弥の麗しきボーイズラブ
日本の歴史を振り返ると、「腐女子」(ふじょし)と呼ばれるBL(ボーイズラブ)ファンの女子達が喜びそうなエピソードに事欠かない。中でも絵になりそうなのが足利義満と世阿弥(ぜあみ)のカップル。室町幕府の若き三代目将軍と、見目麗しき少年猿楽師(しょうねんさるがくし)、世阿弥との浮き名はBLファンの妄想をかきたてる。

足利義満と世阿弥の麗しきボーイズラブ

愛を掲げて戦った男、直江兼続の愛ってなんだ!?

愛を掲げて戦った男、直江兼続の愛ってなんだ!?
上杉謙信ゆずりの「義」を重んじ、主君、上杉景勝(うえすぎかげかつ)と民のために生きた愛の武将、直江兼続(なおえかねつぐ)。兜の前立にも「愛」の一文字を掲げていたことで有名だが、その意図するところには諸説あるようだ。

愛を掲げて戦った男、直江兼続の愛ってなんだ!?

注目ワード

ページトップへ戻る