「徳川家康」(とくがわいえやす)は、戦国から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で、天下を統一し、江戸幕府の初代征夷大将軍になりました。家康として伝わる、でっぷりとしたタヌキ親父のような肖像画からは想像できませんが、家康は武芸の達人で、剣豪だったと言われています。
徳川家康
家康は、1542年(天文11年)三河国(現在の愛知県東部)の国人土豪で岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡子として、岡崎城にて誕生。家康が3歳のときに両親が離婚し、母と生き別れてしまいます。それだけでも寂しい子供時代ですが、家康にはさらに苦難が待ち受けていました。
家康は6歳のときに、松平家が庇護(ひご)を受ける今川家に人質に出されますが、その途中で身柄を奪われ、今川家に敵対する織田家に送られてしまいます。さらに、その2年後には父・広忠が家臣に殺害され、岡崎城は今川氏の支配下に置かれてしまうのです。人質交換で今川家に移された家康は、今川義元(いまがわよしもと)の下で、14歳で元服・結婚、17歳で初陣を果たします。
そんな家康の転機となったのが、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)です。この戦いは、織田信長が少数の兵で、今川義元率いる大軍を破った、戦国の世を揺るがす大転機となった戦いです。
家康は、合戦後に岡崎城を取り戻すと今川家を見限り、信長と同盟を結びました。信長の失脚後は豊臣秀吉に追従し、豊臣政権下の五大老の筆頭として着々と力を蓄えます。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」に勝ち、ついに天下を我が物としたときには、家康は59歳になっていました。
家康は天下を取った人で、言うならば「キングオブ戦国武将」です。それなのに、「好きな戦国武将ランキング」の上位に家康の名前が来ることが少ないのはなぜなのでしょう。それには、「日本人の好きなヒーロー像」という物を考えてみるとよく分かります。
まず、そのひとつが「あと一歩のところで、志半ばに散った悲劇のヒーロー」という物です。家康以外の戦国武将は、皆「志半ばに散った人」と言えますが、家康は勝者ですから、これには当てはまりません。
また、日本人の好きな「物語」は、「自分が死ぬと分かっていても、己の信じた道を貫き、忠義を尽くす」という物です。豊臣方の敗戦を覚悟しつつ「大坂の陣」を戦った「真田幸村」(さなだゆきむら)などは、その典型と言えるでしょう。しかし家康は、常に強者に付いて最後までしぶとく生き抜きます。
家康は享年75歳で、当時としてはかなり長生きでした。健康にとても気を配っていたと言われています。大名として、どんな贅沢も思いのままになる生活をしていても、食事に気を付け、自制していたのです。それが他の武将が不摂生から病没していく中、家康が天下を取ることができた理由でもありますが、なかなかできることではなく、家康はやっぱり凄い人。しかし、あまりに凄すぎたため、親しみがわきにくいのかもしれません。
「どん底からはい上がり、華々しく活躍した人」というのも、日本人の好きなヒーローのパターンです。百姓から天下人に上り詰めた豊臣秀吉が真っ先に浮かびますが、実は秀吉の主君である信長も、尾張の守護大名・斯波氏(しばし)の家臣・織田氏のさらに分家の出です。それに比べると、岡崎城主の嫡男として生まれた家康は、家柄の点ではかなり恵まれていますが、その分「日本人の好きな英雄像」からは、またもや遠ざかる結果に。
家康が天下を取ることのできた理由のひとつが、家臣の存在です。松平家に代々仕え、家康の不遇の際も松平家を見放さなかった家臣達がいてくれたことが、のちの天下取りに大いに役立ちました。家臣との信頼関係は一朝一夕で築ける物ではありません。信長のように、家臣に裏切られたり、秀吉のように、最後は肉親すら信じられず、粛清しまくったことが、結果的に豊臣家の滅亡を招いたりしたことでも分かります。
家康が家柄や運に恵まれたのは確かですが、自分を律して、強者に仕えながら力を蓄えて、機が熟すまで待ち続け、ここぞというチャンスをしっかり物にしたのは、家康自身の並々ならぬ努力があってのことです。それが、家康を約260年続く徳川幕府の祖にしたと言えます。信長の派手な活躍や秀吉の出世物語の陰に隠れてしまいがちですが、真に成功を手にするために必要なことを、家康の生き方は教えてくれるのです。
日本の産業のルーツや日本らしい文化のほとんどは江戸時代に花開きました。「鎖国」(さこく:外国との交流を断絶、もしくは制限すること)のために、日本の文化が遅れたとする説もありますが、実際には幕府は諸外国の情報はきちんと把握していたとも言われています。諸外国との交流を制限したおかげで、日本は他のアジアの国々のような欧米諸国による植民地化を免れ、自国の文化を守ることができたとする説もあるのです。
家康が徳川幕府を開いて、泰平の世を築かなければ、日本は現在とはまったく違った国になっていたかもしれませんし、日本という国自体、なくなっていたかもしれません。家康の成し遂げたことは、それほど偉大だったと言えるのです。
ソハヤノツルキは、家康が亡くなる間際に、この刀の鋒/切先(きっさき:刀身の先端部分)を、当時の幕府にとって常に脅威であった西国に向けて置くように遺言したと伝わる太刀です。
この太刀は、平安時代前期の武官で、蝦夷(えぞ)征伐で名高い初代征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の佩刀「楚葉矢の剣」(そはやのつるき)の写しだと言われています。家康は、田村麻呂が朝廷の敵を、この太刀で討伐したことにあやかって、家康にとっての宿敵である西国ににらみを利かせたいと願ったのかもしれません。
ソハヤノツルキは家康の死後、家康の墓所である「久能山東照宮」(くのうさんとうしょうぐう)に納められ、家康の願い通り、泰平の世は約260年の長きに亘って続いたのです。