天下分け目の「関ヶ原の戦い」において、東軍の勝利を決定付けたのが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りだと言われています。ここでは、秀秋の人物像と、彼にまつわる名刀についてご紹介します。
小早川秀秋
「小早川秀秋」(こばやかわひであき)は、父が「木下家定」(秀吉の妻である、ねねの兄)であり、血縁上は「豊臣秀吉」の甥にあたります。
秀秋は3歳のとき、実子のいない秀吉の養子として引き取られ、7歳のときには丹波亀山城に10万石の領地を与えられ、10歳で中納言という高い官職に出世しました。その後、「豊臣」姓を与えられるなど秀吉の威光をもとに、輝かしい経歴を積み上げていきます。
しかし、この状況も秀吉に実の息子となる秀頼が生まれたことによって大きく変化しました。秀吉は当然、実の息子である秀頼に跡を継がせたいと考えるようになり、養子である秀秋は邪魔な存在となってしまったのです。ここで、毛利家の「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)には実子がいなかったことから、秀吉は隆景に対し、秀秋を養子にもらうように提案しました。これにより秀吉は自分の養子を有力な大名の養子にし、かつ、自分の跡継ぎからは遠ざけたのです。こうして、秀秋は小早川姓を名乗ることとなりました。
その後、秀吉は秀頼に跡を継がせる体制を磐石とするため、秀秋と同じく養子であった秀次に対し謀反の嫌疑をかけ、自害させました。そのあおりを受け、秀秋も丹波亀山に持っていた領地を没収されたのです。
しかしながら、養父である隆景の配慮もあり、筑前名島城にある30万石の領地を隆景から譲り受けました。また、この領地も秀秋を良く思わない秀吉の理不尽な指示により、秀秋は半分の15万石の領地に転任させられるという仕打ちを受けたのです。この処置はあまりに理不尽であるという認識は様々な大名も持っており、「徳川家康」らの計らいによって、もとの筑前に30万石の領地を取り戻すことができました。
このとき秀秋の心中は、幼い頃に秀吉から受けた恩義よりも、成長して秀頼の目の敵とされたことに対する憎しみの方が大きく、一方で領地を取り戻す計らいをしてくれた家康には恩義を持っていたと推察できます。
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そんな折、徳川家康が打倒豊臣政権を図り、兵を挙げました。この際、秀秋は「石田三成」から西軍に付くように求められました。秀秋に対し、三成が出した条件は「西軍に付けば、秀頼が成人するまでの期間、秀秋を関白の地位に据える。」という物です。しかし、これまでの経緯もあり、秀秋の心中は秀頼の味方として戦うことは気分が良い物ではないことだったと考えられます。
ここで、家康は秀秋に、東軍に寝返るように要請する使者を遣わせ、さらに寝返ることで大きな領地を得ることも約束しました。秀吉に振り回される一方で、家康に恩義を感じていた秀秋は、この使者が契機となって東軍に寝返り「関ヶ原の戦い」における大勝利の立役者となったと考えられるのです。
このことから、秀秋の寝返りは、忠義にもとる行為ではあるものの、秀吉から受けた仕打ちに対する相応の報いでもあると考えられます。秀吉としては、息子秀頼に跡を継がせたいがために蔑ろにしてきた養子に足をすくわれる結果となってしまったのです。
多くの領地を与えられながらも、関ヶ原の戦いから2年後に小早川秀秋は亡くなってしまいます。享年は20歳と非常に若い年齢でした。死因は少年期から摂取してきたアルコールに起因する内臓疾患が原因だとされています。これも秀吉から受けてきた仕打ちによるストレスが原因なのでしょう。
秀秋は幼少期から輝かしい経歴を経てきたものの、その経歴を与えた秀吉によって人生を狂わされ、18歳時に下した寝返りの決断で「関ヶ原の戦いでの裏切り者」として、現代までその名が知られる激動の人生を送った人なのです。
関ヶ原の戦いで寝返ったことから、弱々しいイメージがどうしても生じてしまう小早川秀秋ですが、この「波游兼光」(なみおよぎかねみつ)に関しては、勇壮なエピソードがあります。
秀秋がある日、高野川の岸で従者と共に歩いていると、草むらから現れた曲者に斬りかかられたのですが、秀秋はその斬撃をかわし、持っていた日本刀でこの曲者を斬り付けました。 斬り付けられた曲者は川に飛び込み、泳いで逃げていったものの、対岸に到着すると倒れてしまったのです。従者が曲者を確かめに対岸に渡ってみると、右肩から袈裟がけに一刀両断されていたとのことでした。
これは波游兼光という名称が付けられた一説ではありますが、切れ味と秀秋の武勇を示すエピソードであると言えます。
波游兼光
銘 | ランク | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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無銘※ | 重要美術品 | 2尺1寸4分余 (約65cm) |
個人蔵 |
※ただし、金象嵌にて「羽柴岡山中納言秀詮所持之 波およぎ末代の剣 兼光也」とある。