名家に代々伝えられた日本刀

宇喜多家・前田家伝来の薙刀 伯耆国住広賀

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薙刀 銘 伯耆国住広賀 号 渡海龍(ほうきこくじゅうひろよし ごう とかいりゅう)は、刀工「伯耆国住広賀」(ほうきこくじゅうひろよし)の手によって作られた薙刀です。その持ち主は、備前国武将であった「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)。渡海龍の号は、1592年(文禄元年)に「豊臣秀吉」の命で朝鮮へ出兵した「文禄の役」の際、宇喜多秀家がこの薙刀で奮闘したことから付けられました。
本薙刀は宇喜多秀家のあと、宇喜多家と深い関係があった加賀前田家へと伝来。そこで、刀工一派である伯耆国住広賀とその持ち主であった宇喜多秀家、そして宇喜多家と前田家との関係を紐解いていくと共に薙刀 銘 伯耆国住広賀の魅力をご紹介します。

刀工一派 伯耆国住広賀とは

「伯耆国住広賀」(ほうきこくじゅうひろよし)とは、室町時代末期に「伯耆国」(ほうきのくに:現在の鳥取県西部)で活躍した刀鍛冶集団です。広賀一派は、かつて伯耆城城主「小幡左衛門尉」(おばたさえもんのじょう)の臣下でしたが、城主没落により刀工に転身、初代相州伝綱広のもとで作刀の技術を学んだと言われています。

広賀には「道祖尾派」(さいのおは)と「見田派」(みたは)があり、道祖尾派は文明年間(1469~1486年)に現れ、江戸時代は倉吉鍛冶町(現在の鳥取県倉吉市倉吉鍛冶町)に住居を構えていました。

一方、見田派は天文年間(1532~1555年)に存在。初代の「五郎左衛門尉」(ごろうさえもんのじょう)から始まりましたが、広賀両派は共に隆盛を極め、江戸時代初期まで続きます。

豊臣秀吉の秘蔵っ子!宇喜多秀家ってどんな人?

宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、「備前国」(びぜんのくに:現在の岡山県東部)岡山城城主「宇喜多直家」(うきたなおいえ)の嫡男として1573年(天正元年)に生まれます。

宇喜多秀家は宇喜多直家の晩年の子であり、父が病死した1581年(天正9年)に弱冠9歳の若さで家督を継ぎました。

翌年、中国征伐でやってきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子という厚遇を受けることになります。

ただ厳密に言うと、羽柴秀吉が気に入ったのは、宇喜多秀家の母・おふくであったとも言われています。おふくは、当時絶世の美女と謳われた女性で、しかも夫・宇喜多直家が他界したばかりの未亡人。好色であった羽柴秀吉が彼女に目を付けない訳がありません。

こうして羽柴秀吉に気に入られた宇喜多秀家は、14歳となった1585年(天正13年)、元服によりそれまで名乗っていた「宇喜多八郎家氏」から、羽柴秀吉の「秀」の文字を賜り宇喜多秀家へと改名。同時に、従五位下侍従兼河内守(じゅごいげじじゅうかわちのかみ)の官位も賜っており、早々の出世から羽柴秀吉の寵愛ぶりを窺うことができます。

宇喜多秀家は、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」や1590年(天正18年)の「小田原の役」に参加し、豊臣一門衆として豊臣秀吉の天下取りに手を抜くことはありませんでした。そして、備前・備中(現在の岡山県西部)・美作(現在の岡山県北東部)を統治する57万4,000石の大名へと成長していくのです。

海を渡った渡海龍!宇喜多秀家が朝鮮の地で戦った文禄の役

豊臣秀吉の天下取りを支えるべく奔走した宇喜多秀家は、今度は日本海を渡り朝鮮半島へと向かうことになります。1592年(文禄元年)、いわゆる「文禄の役」が始まったのです。

宇喜多秀家は同年5月、李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン:現在のソウル)に入城。このとき宇喜多秀家に与えられた役割は漢城守備の総帥でした。当時、宇喜多秀家は21歳。総帥の立場としては若すぎる年齢で、それほどに豊臣秀吉の恩寵があったことが見て取れます。

秀吉軍

豊臣秀吉軍

開戦後、豊臣秀吉軍は開城(ケソン)・平壌(ピョンヤン)を押さえ、順調にことが運んでいたかのように見えました。

しかし、日本軍の戦局は提督・李如松(リジョショウ)率いる明軍の登場により悪化します。

明軍の反撃を受け、続けざまに各拠点を撤退に追い込まれたとき、宇喜多秀家の奮起によって停戦にこぎ付けたのが「碧蹄館の戦い」(へきていかんのたたかい)でした。

このとき宇喜多秀家は、伯耆国住広賀の薙刀を手に、捨て身の戦いを見せたと伝わっています。碧蹄館での戦いは、狭い谷間という地の利と、雨という天候が宇喜多秀家達を優勢に押し上げました。騎馬戦がメインであり、切れ味も鈍い短剣を使った明軍に対して、日本軍が薙刀や長刀・長槍を主に使ったことが有利に動いたのです。

エリートから一転、徳川に破れ八丈島へ島流し

八丈島

八丈島

こうして朝鮮出兵は休戦に終わったのですが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉は死去します。

豊臣秀吉は死の直前、宇喜多秀家を五大老に任じていますが、その頃の宇喜多家と言えば、お家騒動により家臣団が次々と四散し、重要な戦力が流出する事態に見舞われていました。

さらに悪いことに、宇喜多家を去った家臣を迎え入れたのが徳川家でした。

主要な戦力を持たない宇喜多秀家は「関ヶ原の戦い」で徳川軍に敗れ、宇喜多秀家の長男、次男と共に八丈島への島流しに処されることに。このとき宇喜多秀家32歳。八丈島での不自由な生活を50年以上も続け、ついぞ島を出ることなく83歳でこの世を去りました。

八丈島で宇喜多秀家はこんな辞世の句を詠んでいます。

「み菩薩の 種を植えん この寺へ みどり松の あらぬ限りは」

<現代語訳>
悟りを開くきっかけになったこの寺に、この松はあり続けてくれるだろうか

天下人である豊臣秀吉の養子として華々しい出世街道を歩んだのち、残りの人生を流刑の地、八丈島で過ごすことになってしまった宇喜多秀家。盛者必衰(じょうしゃひっすい:勢いのある者もいつかは衰え滅びること)とは言え、宇喜多秀家の心境はいかほどだったでしょう。

宇喜多家と前田家との深い関係

流刑に処された宇喜多秀家の薙刀 伯耆国住広賀は、そののち、加賀藩前田家に渡ります。宇喜多家から前田家に渡った経緯を見てみましょう。

豊臣秀吉の養女「豪姫」と結婚

豪姫

豪姫

豊臣秀吉の宇喜多秀家への寵愛ぶりは、加速します。と言うのも、同じく豊臣秀吉の養女であった豪姫と結婚することになったのです。

豪姫は、加賀国(かがのくに:現在の石川県南半部)前田利家(まえだとしいえ)とまつの間に生まれた四女で、両親に似て美しい容姿を備えていました。

豊臣秀吉は、それまで実子に恵まれず、かねてからの前田家との約束により、豪姫が生まれるとすぐ養子に迎え入れて育てます。

豊臣秀吉の豪姫への溺愛ぶりは有名で、豪姫に見合う、三国一の婿として宇喜多秀家に白羽の矢を立てたのです。豪姫は、宇喜多秀家の正室として宇喜多家に入り、ここに前田家と宇喜多家の関係が始まります。

そして時は流れ、天下分け目の戦いで宇喜多秀家が敗れると、豪姫は実家である加賀国前田家へ戻ることに。こうした経緯を背景として、伯耆国住広賀の薙刀は前田家に伝わったのでした。その後、薙刀の所在は一時不明でしたが、前田家支流・上野国七日市藩(こうずけのくになぬかいちはん:現在の群馬県富岡市)1万14石の所領にあることが判明。現在、広賀の薙刀はその歴史を私達に伝えています。

薙刀 銘 伯耆国住広賀の特徴

本薙刀には、末相州伝の作風が強く見られます。「相州伝」とは、鎌倉時代・中期以降の「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)で発展した刀工技術。特に、室町時代以降に始まる綱広一門によって作られた日本刀を、「末相州伝物」と呼んでいます。

初代相州綱広は天文年間の刀匠で、本薙刀である伯耆国住広賀が門下として技術を学んだ刀匠でした。

相州伝の特徴は強い「地沸」(じにえ)であり、この性格は本薙刀にもよく現れています。「」(にえ)とは、刃文を構成する要素のひとつであり、白い砂粒のように見える大きな粒子の模様のこと。地沸の強さに加えて、沸部分の密度の高さにも美しさがあり、見逃すことはできません。

地肌は、木目の模様をした「板目肌」(いためはだ)に、ちりめんのように白く泡立った「杢目肌」(もくめはだ)が混ざっています。また、刃文は「互の目」(ぐのめ)の尖り刃で、頭の尖った互の目が波打つように表現されており、渡海龍たるゆえんの力強さと凄味を誇ります。

薙刀 銘 伯耆国住広賀
薙刀 銘 伯耆国住広賀
伯耆国住広賀作
天正二年八月日
鑑定区分
保存刀剣
刃長
55.8
所蔵・伝来
宇喜多秀家 →
加賀前田家伝来 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

宇喜多家・前田家伝来の薙刀 伯耆国住広賀

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