関ケ原合戦祭り(関ケ原町) 関ケ原合戦祭り(関ケ原町)
関ケ原合戦祭り(関ケ原町)

関ケ原合戦祭りは、岐阜県関ケ原町で毎年10月中旬の2日間にわたって繰り広げられる関ケ原町最大のイベントです。歴史好きな人達の交流の場としても人気で、秋を彩る壮大な歴史イベントとして、全国から多くの戦国ファンが集まります。関ケ原合戦祭りの由来や概要、見どころなどを詳しくご紹介すると共に、「関ケ原合戦」が始まったきっかけや合戦の流れ、合戦で活躍した武将達などについても解説します。

2020年の関ケ原合戦祭りは中止になりました。

岐阜関ケ原古戦場記念館 岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。

歴史ファンの集う一大イベント「関ケ原合戦祭り」

関ケ原合戦祭りは、毎年10月中旬に開催されている戦国イベント。目玉である「関ケ原合戦絵巻」を見ようと、全国から40,000人近い戦国ファンが集うことでも有名です。

一般参加者が甲冑(鎧兜)を身にまとい、殺陣(たて:斬り合いの演技)や演出を交えて歴史上の関ケ原合戦を現代によみがえらせようというのが関ケ原合戦絵巻のコンセプト。歴史ファンの心をつかむだけでなく、「鉄砲隊演武」など見どころもたっぷりあり、歴史の重みと面白さを実感できる人気のイベントです。

関ケ原合戦祭りの由来と発祥

関ケ原合戦祭りの由来と発祥

関ケ原町で毎年開かれている、関ケ原合戦祭りは、「天下分け目の戦い」とも呼ばれた関ケ原合戦を模しています。いにしえの合戦をしのび、歴史のうねりを体現したいという思いから毎年開催されるようになりました。

一般の参加枠を設け、殺陣などを練習した上でイベントに臨みます。実際に甲冑(鎧兜)を身にまとい、武者行列を行なったり合戦を再現したり、歴史ファンにとって非常に胸が躍るお祭りです。

参加の公募は毎年8月頃に行なわれ、多くの参加者が全国各地から集まります。一般公募にあたって希望する武将隊を選べるのが、関ケ原合戦祭りの大きな特徴です。

歴史上の登場人物のひとりになったり、合戦の行方を見守る観客になったりと様々な楽しみ方ができるため、リピーターが多いことも関ケ原合戦祭りが人気を集める理由です。ただし、希望者が多い場合には、希望通りの隊に所属できない場合もあります。

関ケ原合戦祭りの概要

「関ケ原合戦絵巻」、「鉄砲隊演武」といったメインイベントの他にも、「戦国グッズマーケット」、「のろしパフォーマンス」、「関ケ原戦国ライブ」など数多くのイベントを楽しむことができます。

「関ケ原合戦絵巻」に参加する場合は、大将・副将・・足軽・のぼり持ちの5種類の役があり、それぞれで持ち物や役割などが違うため、前日から練習を行ない、合戦本番に備えます。

関ケ原合戦祭りの見どころ

関ケ原合戦絵巻

関ケ原合戦絵巻

関ケ原合戦祭りのメインイベントは、「関ケ原合戦絵巻」です。全国から集まった甲冑(鎧兜)をまとった武者姿の約120人が、関ケ原合戦を忠実に再現。石田三成、島津義弘(しまづよしひろ)、宇喜多秀家、大谷吉継(おおたによしつぐ)、小早川秀秋で構成された西軍5隊と、徳川家康、黒田長政(くろだながまさ)、福島正則で構成された東軍3隊それぞれが笹尾山会場に陣を敷きます。

特に注目するのは、東西両軍が整列しての出陣式のあと、笹尾山会場から陣場野会場まで西軍、東軍の順に隊列を組むところ。東西の各大将である石田三成と徳川家康が馬に乗り、大谷吉継は輿(こし)に乗り、勇壮な姿を披露しながら行進していくシーンは、非常に見応えがあります。

また、軍議と呼ばれる来場者との記念撮影や、各隊によるフリーパフォーマンスの披露など、見どころが盛りだくさん。陣場野会場に到着した東西両軍の甲冑武者達が、オリジナルの脚本・演出をもとに関ケ原合戦を再現する一大群衆劇は、この場でしか見られないので大人気です。殺陣なども十分に練習を重ね、一見の価値がある合戦シーンが再現されます。

島津義弘のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
大谷吉継のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
小早川秀秋のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
黒田長政のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
福島正則のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

鉄砲隊演武

鉄砲隊演武

笹尾山会場で披露される本物の火縄銃を使った「鉄砲隊演武」も見逃せません。

火薬を詰めた火縄銃を手にした鉄砲隊の雄姿に、大きな歓声が上がります。

使われるのはもちろん空砲ですが、迫力ある轟音が響きます。

各武将の思惑が交錯し、決した勝敗!
「関ケ原合戦」を詳しく解説

天下人、豊臣秀吉の亡きあと、天下統一を狙う実力者、徳川家康と、石田三成の勢力に分かれ、関ケ原を舞台に繰り広げられた激戦を総称して「関ケ原合戦」と呼びます。「天下分け目の戦い」とも呼ばれ、この合戦の勝敗が、その後の日本の行く末を大きく左右しました。ここでは、関ケ原合戦の概要と、関ケ原合戦で活躍した武将達について詳しく解説していきます。

関ケ原合戦の概要

1600年(慶長5年)、関ケ原で行なわれた野戦を「関ケ原合戦」と呼びます。関ケ原合戦の端緒は、豊臣秀吉亡きあと、巻き起こった豊臣政権の内紛でした。それまでの豊臣秀吉の独裁体制から、幼い後継者、豊臣秀頼(とよとみひでより)五奉行・五大老が支える集団運営体制へと移行しようとしたものの、そのなかで様々な政治的葛藤があり、新体制が崩壊してしまいます。

この背景には、地方大名への支配力強化をうたう石田三成、増田長盛(ましたながもり)といった強硬派と、これに反対する宥和派の対立があったこと、朝鮮出兵時における作戦方針、軍功を巡る争いがあったことや、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)切腹事件の余波を受けたものとも言われていますが、明確には分かっていません。

いずれにしても、1598年(慶長3年)の豊臣秀吉死後、翌年の前田利家(まえだとしいえ)の死をきっかけに、五奉行のひとりである石田三成が加藤清正(かとうきよまさ)、福島正則、黒田長政(くろだながまさ)、藤堂高虎(とうどうたかとら)細川忠興(ほそかわただおき)、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)、浅野幸長(あさのよしなが)の7将に襲撃され、佐竹義宣(さたけよしのぶ)、宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸向かいにある自身の屋敷に立て籠もる事件がありました。

襲撃に加わった7将は、「慶長の役」末期の戦いにおいて、不公平な戦後賞罰が行なわれたことに不満を抱いていたとされています。ここに、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝(うえすぎかげかつ)らが仲裁に入り、石田三成は奉行職を解かれたのち、居城に蟄居(ちっきょ:閉門を命じた上、謹慎させること)処分となりました。

1599年(慶長4年)にはさらに、徳川家康暗殺計画が発覚。首謀者は、前田利家の嫡男、前田利長(まえだとしなが)ですが、五奉行のひとりである、浅野長政(あさのながまさ)や豊臣秀頼、淀殿(よどどの)側近の大野治長(おおのはるなが)などもその計画に加わっており、計画に加担した諸将への処分が下されました。

首謀者の前田利長に対しては、加賀征伐の軍が組織されましたが、前田利長が弁明に努めたため、前田利長の母、芳春院(ほうしゅんいん)らを人質として江戸預かりにすることで決着を見ています。こうした騒動の中、徳川家康は豊臣秀吉の遺言に反して大坂城西の丸に入り、政権中枢で権力拡大を図っていました。味方を増やすための多数派工作として、多くの大名に加増転封を行なっています。

重大な決定を専横(せんおう:わがまま勝手に振る舞うこと)し、権力をどんどん強大にする徳川家康と、危機感を抱いた大老・上杉景勝の関係が悪化。1600年(慶長5年)4月、徳川家康の家臣達が、上杉方に反逆の意志を詰問する意図で会津若松に送り込まれます。

こうした徳川家康の動きに対して、直江兼続(なおえかねつぐ)から送られてきた書状が「直江状」と呼ばれ、徳川家康に対する批判が込められたものです。徳川家康側は、会津との交渉の最中である5月に、すでに会津征伐を決めていました。6月16日に大坂を発ち、7月1日に江戸に到着。すぐさま東北の諸大名に会津攻めを指示しています。

各武将の思惑が交錯し、決した勝敗!「関ケ原合戦」を詳しく解説

一方の大坂では、石田三成が反徳川として挙兵。この知らせを受け、徳川家康は標的を会津から石田三成へと変更しました。徳川家康をはじめとする東軍の諸隊は、すでに下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)小山まで行軍していましたが、ここで「小山評定」と呼ばれる軍議を開き、方針を定めたのち、西へ向けて引き返しています。

東軍の総大将である徳川家康は、江戸城にとどまったまま、味方である諸大名を尾張の清州城に待機させました。また、嫡子の徳川秀忠(とくがわひでただ)に総勢38,000人の軍勢を与え、信濃国(現在の長野県)周辺を攻略するようにとも指示しています。

これは、軍を東海道と中山道に二分させるためのものでした。総大将に毛利輝元を担いだ西軍は、毛利輝元を豊臣秀頼の守護のために大坂城に残し、石田三成らが美濃国(現在の岐阜県南部)に進出。大垣城を本拠地に、大坂、石田三成の居城がある近江国(現在の滋賀県)へ敵を向かわせないための防衛線を張ったのです。

こうした動きの結果、岐阜城に西軍、清州城に東軍とそれぞれの拠点が置かれることになり、東西両軍は、美濃国と尾張国の国境でにらみ合いを続けました。

しかし、東軍が岐阜城を攻略するに至り、西軍は石田三成のいる大垣城に籠城。東軍の侵攻を阻もうと西軍が必死の防衛を続けるなか、江戸城の徳川家康が、30,000人の大軍と共に出陣し、徳川秀忠の率いる38,000人の兵も美濃へと進軍するように指示します。

しかし、徳川秀忠の軍勢は、西軍の拠点・上田城の攻略に手間取り、到着が遅れたこともあって、徳川家康の軍に合流することができませんでした。

この事態を受けた徳川家康は、自軍だけでの進軍を決意。9月14日の夜明けに長良川を渡り、大垣城攻撃を自ら指揮することになります。この段階でも、なお西軍は有利な状態にありましたが、同じ14日に小早川秀秋が松尾山城に入城との知らせがもたらされ、石田三成の動揺を誘いました。なぜなら、この時点に至るまで小早川秀秋が自らの去就を明かしておらず、東軍につく可能性もあったからです。

大垣城が東軍に落とされるのを恐れた石田三成は、なるべく早く関ケ原へ急行し、松尾山城の小早川秀秋を説得しようと考えました。石田三成らは、9月14日の夜に大垣城を出て、関ケ原へとひた走ることになります。

こうして関ケ原へ移動する時期が早まり、西軍は、十分な準備が整わないまま進軍する羽目になりました。一方の東軍も、西軍の動きを察知し、関ケ原へと軍を進めて合戦に向けて陣を敷いたのです。

9月15日午前8時頃、東西両軍の決戦の幕が切って落とされました。早朝からたちこめていた深い霧が晴れかかった瞬間に、銃撃が始まったとされています。この場に集った兵力は、東軍が約90,000人、西軍が約80,000人。東軍・福島正則と西軍・宇喜多秀家の衝突を皮切りに、両軍入り交じっての戦闘が始まりました。

石田三成隊に攻めかかろうとする黒田長政隊と細川忠興隊を島左近(しまさこん)が必死に防ぎ、小西行長隊、大谷吉継隊がそれぞれ前面の敵勢を迎え撃つなど、一進一退の攻防が繰り広げられました。

しかし、この段階で積極的に戦に参加していたのは、西軍では石田三成隊、宇喜多秀家隊、大谷吉継隊、小西行長隊の計30,000人に過ぎません。戦闘開始から2時間後、石田三成は狼煙(のろし)を上げ、いまだ参戦していない武将達に加勢を促します。

しかし、毛利軍30,000人は動くことができませんでした。実は最前列にいる吉川広家隊が東軍と内通し、足止めをしていたからです。毛利秀元(もうりひでもと)は、戦況を把握することすらできず、加勢を催促する使者に言い訳をしながら、合戦が終わるまで山上にとどまりました。

島津義弘隊も動こうとしないまま、松尾山城にいた小早川秀秋が東軍に寝返り西軍の大谷吉継隊に襲いかかったため、大谷吉継隊はあえなく壊滅。東軍諸隊は、大谷吉継隊の守っていた陣地を突破し、宇喜多秀家隊や小西行長隊を攻めたのです。

石田三成らの西軍諸隊は、前方や側面からの攻撃になすすべもなく、次々に壊滅。総崩れとなり、石田三成自身も戦場から離脱することになります。残された島津義弘隊は、敵中突破に踏み切らざるを得ず、徳川家康本陣の前をかすめ、多くの兵を失いながらも戦場を脱するに至りました。合戦の始まる当初、兵力にはさほど差がありませんでしたが、裏切りなどが相次ぎ、最終的に東軍120,000人に対して西軍30,000人という結果で勝敗が決したのです。

歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
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関ケ原合戦で活躍した武将

毛利輝元

毛利輝元 毛利輝元

毛利輝元は、豊臣秀吉から嫡男・豊臣秀頼の養育係を任され、五大老に選ばれるなど、絶大な信頼を置かれていた実力者です。

豊臣秀吉の死後は、東軍か西軍のどちらにつくかで家中の意見が分かれましたが、毛利輝元の独断で西軍への従軍を決意。

この状況に納得のいかなかった毛利輝元の従弟、吉川広家(きっかわひろいえ)が、東軍の黒田長政に内通し始め、毛利軍は分裂しました。

西軍の総大将として大坂城入りした毛利輝元は、関ケ原合戦に際して、一族の毛利秀元を派遣。毛利秀元を大将に据え、徳川家康本陣の背後に陣を布き、突撃をかける思惑だったのです。

しかし、先鋒の吉川広家が寝返ったため、合戦に参加しないまま勝敗が決定してしまいました。

毛利輝元は、大坂城にとどまったまま西軍壊滅の報を受け、様々な選択肢を用意されたものの、所領安堵を条件に大坂城西の丸から退去。その後、四国、九州に配していた毛利勢も順次撤退させました。

しかし、徳川家康が、毛利輝元と交わした所領安堵の約束を反故に。吉川広家の取り成しにより、毛利氏は周防国(すおうのくに:現在の山口県東部)、長門国(ながとのくに:現在の山口県西部)の2国に減封され、最盛期からの領地の多くを失うことになりました。

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宇喜多秀家

徳川家康 宇喜多秀家

宇喜多秀家は、幼い頃から豊臣秀吉に重用され、末期の豊臣政権下においても五大老のひとりとして政権を支えていた武将です。豊臣秀吉の養子となり、豊臣秀吉の養女、豪姫(ごうひめ)を正室としていました。

関ケ原合戦においては、17,000人の兵を率いて、西軍の主力として活躍。東軍の福島正則隊と激しい戦闘を繰り広げましたが、小早川秀秋の裏切りによって総崩れ、宇喜多秀家隊は壊滅状態となります。

宇喜多氏は改易処分になりますが、宇喜多秀家自身は伊吹山の山中に逃げ込み、落ち武者狩りを行なっていた豪族宅に約40日間にわたってかくまわれました。その後も追っ手の目をかいくぐり、西軍側であった島津家を頼って薩摩国(現在の鹿児島県)に落ち延びています。

しかし島津氏が、1603年(慶長8年)に徳川家康のもとへ身柄を引き渡し、駿河国(現在の静岡県東部)の久能山へと幽閉。1606年(慶長11年)に八丈島に配流されました。

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石田三成

石田三成 石田三成

石田三成もまた、豊臣秀吉の信任が厚い人物のひとりです。五奉行のひとりであり、関ケ原合戦に際しては西軍を率いました。東軍勝利に終わった合戦後は、伊吹山の東にある相川山を越えて追っ手の目をかわしますが、9月21日に捕縛されます。

一方で、石田三成の居城である佐和山城も9月18日に東軍の攻撃を受け、一族の多くが討ち死にしました。捕縛された石田三成は9月22日に大津城へと移され、お城の門前で生きさらしにされます。

その後、徳川家康との会見を経て大坂へと移送され、9月28日に大坂・堺で街中を引き回されました。10月1日、京の六条河原で斬首され、41歳で他界しています。

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徳川家康

徳川家康 徳川家康

徳川家康は、安祥松平家9代当主として生まれ、幼少から織田家、今川家で人質となって育ちます。

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いに際して織田信長と同盟を結び、織田信長の死後は、強大な権力を保持したまま、豊臣秀吉に臣従。

小田原の役後に、北条氏の旧領を得て、豊臣政権下で最大の領地を得るに至りました。また、豊臣秀吉の晩年に五大老に任ぜられ、大老筆頭にもなっています。

豊臣秀吉没後の関ケ原合戦においては、東軍を率いて西軍に勝利。1603年(慶長8年)には征夷大将軍に任ぜられ、領地である江戸に幕府を開きました。1615年(慶長20年)の豊臣家滅亡にいたって、天下を掌握。ここで戦国時代の終結となります。

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まとめ

岐阜県の関ケ原町で毎年10月中旬に開催される、関ケ原合戦祭りについて詳しくご紹介しました。全国から戦国時代ファンが集まる熱いイベントで、歴史絵巻の登場人物になりきり、合戦に参加できる点が大きな魅力。

関ケ原合戦における武将達の思いを肌身で感じられるイベントとしても人気です。歴史絵巻の一員として、または合戦をすぐ近くで見守る一員として、ぜひ、関ケ原合戦祭りにご参加下さい。

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こちらのページでは、岐阜県関ケ原町の「関ケ原合戦祭り」についてご紹介。関ケ原合戦祭りの開催地やお祭りの概要などの基本情報や写真など、「関ケ原合戦祭り」について詳しくご覧頂くことができます。
写真で観る関ケ原合戦祭りも素敵ですが、実際に観るお祭りの迫力は、写真や動画の物とは格段に違うことでしょう。ぜひ実際に足を運んでみて下さいね。
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