切腹とは、自らの腹を切るという武士の自害方法のこと。室町時代には、切腹という行為のなかに美学や忠義、誇りといった気高い精神を見出していたのです。実際に、切腹することで後世に名を残した歴史的人物は何人もいました。外国人には理解されない切腹について、ご紹介致します。
源義経
日本の切腹には古く長い歴史があり、平安時代末期のヒーロー源義経の生涯を書いたとされる「義経記」には、源義経が武士として切腹したと言う記述が見られます。
しかし、実際に書かれたのは室町時代中期とされており、平安時代末期に武士が切腹をする習慣があったかどうかは分かりません。
平家側の自害の方法としては入水による最期を選ぶ武士も多く、武士の自害の方法として切腹は定着していなかったことが分かります。
このあとの記録としては、鎌倉幕府の終焉で北条氏一族が切腹して末期を迎えたと「太平記」に書かれています。太平記は室町時代初期に書かれたことを考えると、室町時代初期には武士の切腹という風習が一般的になっていたことが窺えるのです。武威を誇示する勇気ある行為として武家社会に根付いた切腹は、武士にとってふさわしい自害の方法として定着していきます。
切腹
なぜ切る場所が腹なのでしょうか。腹を切っても、すぐに絶命はしません。切腹した人間を放置すれば、一昼夜かけて長い時間苦しんで絶命します。
苦しむ時間を短くするために、介錯という作法が必要になりました。これは、切腹する者の背後もしくは左横に立ち、切腹をしたあとすぐさま首を切り落とすことで、苦しむ時間を減らすという武士の情けです。切腹は武士の名誉であるため、見苦しくないように、介添えをする意味がありました。
介錯は切腹する者の家中から選ばれます。介錯は打ち首とは違い、切腹をする武士の介助をする尊厳を伴ったものです。切腹人が自ら腕の立つ親しい武士に依頼することもありました。依頼されたほうも、尊厳をもってそれを受け、介錯をします。切腹の苦しみを長引かせない思いやりのある行為として首を切るのです。一太刀で首を切り落とすのは難しい技。精神を修練し、剣の熟練者でなければできません。
1868年(慶応4年)に起こった事件として、土佐藩士がフランス人の水兵を11人殺害した「堺事件」があります。この事件を収束させるために、土佐藩士20人が切腹することになりました。検使役のフランス人の目の前で次々と切腹と介錯が行なわれていきます。
しかし、二度太刀をふるっても首を切り落とすことができないため、まだ意識のある藩士から「まだ死なん、まだ死なん、早く切れ」と催促される始末でした。修羅場のようになっていく切腹の現場に検使役のフランス人が耐え切れなくなり、11人目が切腹を終えた時点で処刑は中止となりました。
介錯は大変難しいものであり、また切腹の習慣のない外国人からは理解できないものであったのです。介錯の役割として、切った腹から内臓をわざと露出して最後の抗議をする無念腹(納得していない切腹)を防ぐ役割もありました。
「武士道」の著者、新渡戸稲造(にとべいなぞう)はなぜ腹を切るのかを下記のように書いています。
人間の腹には、霊魂と愛情が宿っているという思想があり、真心と潔白を示すために腹中を見せるのが、切腹の意味だと言われています。
切腹は江戸時代には武士の名誉ある最期として定着します。自らの潔白を示すために切腹したり、主や上司から失敗の責任を取るように切腹を命じられたりしました。命じられてする切腹のことを「詰腹[つめばら]を切る」と言います。何か不祥事があったときに、詰腹を切らされる者がでてくるのです。現代のように部下の責任を上司が取るのではなく、武家社会では、上の者の責任を下の者が取るという掟が暗黙の了解になっていきます。
平穏な江戸時代において、武勇を示す切腹の方法は変化していきます。日本刀で人を切る経験もなく、自分の腹を上手には切れない武士がほとんどになりました。切腹を上手にできなければ、本人も苦しく、周囲からも見苦しい切腹になってしまいます。
切腹の作法は、細かく決められ、武士の子どもも切腹の作法は一通り教わります。しかし、実際に自分の腹に刃をたてることは困難な事例が多くなり、短い木刀や、扇子でもって腹にあてたところ(扇子腹)で、介錯をして貰うという切腹方法に変わっていきます。
介錯されたあとは、うつ伏すのが武士の嗜みです。あおむけに倒れるのは大変恥ずかしいことでした。そのためにも、介錯人はうつ伏す状態になるように介錯をしなければなりません。切腹の作法を知らない武士のときは、扇子に手を伸ばした瞬間に介錯をするという作法もありました。
うつ伏せに倒れるために、抱き首という切断方法がありました。首の皮一枚残して切ることです。首を切断すると、きれいに切れるほど高く遠くに飛んでしまいます。そのため、抱き首にして切ると、前傾に倒れるので武士の作法としてかなった切り方になります。
切腹したのちの身体は、付き添いの検使役が絶命していることを確認し、切腹の完了を告げます。周囲に張り巡らした白木綿の幕と一緒に、白い布でくるまれた遺骸は、遺族に下げ渡されました。
江戸時代初期には仕えた藩主が亡くなったときに、あとを追って切腹する家臣が多くいました。この場合の切腹は追腹(おいばら)と言い、当時は見事な忠義であると流行してしまいます。
例を挙げると、1657年(明暦3年)に死没した鍋島勝重には26人もの殉死者がいました。強制によるもではなく自らの意思で追腹をします。
あまりにも流行したため、幕府は1663年(寛文3年)に殉死を禁止します。実際にその後に殉死が出た藩を、幕府が厳罰に処したためにようやく追腹の流行が収まったのでした。
切腹の思想
戦国時代までは武勇を誇る切腹と、罰としての切腹があります。
江戸時代の武士の切腹は、君主を守るためという大義が生じました。藩名や家名を汚してはいけないという忠義の心にあります。
藩の内部で何事か失態があっても、誰かが腹を切れば、説明責任なく物事が解決したかのような終わり方。主君を守るために、家臣が犠牲になったと言えるでしょう。
これを現代における組織の責任の取り方としたら、許されるものではありません。トップが責任を取ってこそ、組織が正常でいられる時代です。現代でも政権を揺るがす事態が起こったときに、キーマンが自殺をして深層が闇の中に葬られています。