合戦の街 関ケ原(関ヶ原の戦い)

「天下分け目の戦い」とも言われるほど、日本の歴史に大きな影響を与えた合戦「関ヶ原の戦い」が、どのような場所で繰り広げられかご存じでしょうか?関ヶ原の戦いは、1600年(慶長5年)現在の岐阜県不破郡関ケ原町で起こった徳川家康が率いる東軍と、石田三成や毛利輝元が率いる西軍による有名な合戦です。
「合戦の街 関ケ原」では、総勢15万人以上が参戦した関ヶ原の戦いについて、東軍・西軍の著名な武将の紹介、合戦の経緯や結末について解説します。他にも、関ヶ原の戦いを描いたドラマや小説の紹介、現在の関ケ原を代表する観光施設や祭りについても知ることのできるコンテンツです。

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関ヶ原の戦いを知る

「天下分け目の戦い」とも言われ、日本史の大きな転換点になった「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)。関ヶ原の戦いとは、1600年(慶長5年)に、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で起こった「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「石田三成」(いしだみつなり)・「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍が争った戦いです。 なぜ、日本の一大決戦が関ケ原で行なわれたのでしょうか。関ケ原とはどんな場所なのか、その歴史と環境をご紹介します。
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天下人「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の死後、政権掌握に向かって動き出した「徳川家康」(とくがわいえやす)と、それに対抗する「石田三成」(いしだみつなり)の勢力によって引き起こされた「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)。 1600年(慶長5年)9月15日に行なわれた決戦は、現在の岐阜県西美濃地域に位置する関ケ原町を舞台に、徳川家康率いる「東軍」と石田三成率いる「西軍」が死闘を繰り広げ、「天下分け目の戦い」として語り継がれるようになりました。 総勢15万人以上が参戦した関ヶ原の戦いには、一体どのような武将が参戦していたのでしょうか。東軍・西軍を率いた2人と共に、両軍で活躍した主な武将をご紹介しましょう。
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「天下分け目の戦い」と言われる「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)において、忘れてはならない人物と言えば、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)、「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「朽木元綱」(くつきもとつな)など、西軍から東軍へ寝返った武将達です。 西軍として軍を配置していたにもかかわらず、なぜ東軍へ寝返ったのか。その背景と武将達の人物像に迫ります。
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1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。「徳川家康」の率いる東軍が「石田三成」の率いる西軍に勝ったということは分かりますが、一体なぜそんなに早く決着がついたのでしょうか?
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関ヶ原の戦い 布陣図

関ヶ原の戦い 布陣図

参戦した東軍武将

天下分け目の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で勝者となった、東軍総大将「徳川家康」(とくがわいえやす)。およそ200年続いた戦国の世を終わらせ、新時代を切り拓いた天下人として知られる人物ですが、実は関ヶ原の戦いに至るまでは、辛く苦しい道のりを歩んでいました。 岡崎城主の父「松平広忠」(まつだいらひろただ)の長男として生まれた徳川家康は、幼少期から少年期にかけて「織田氏」(おだし)や「今川氏」(いまがわし)のもとで人質として過ごしたあと、父の暗殺、主君の死など、苦難の日々を送ります。 次々と襲い掛かる災難に心が折れて自害しようとしたこともありました。しかし、大きな試練を経験したからこそ、徳川家康はあらゆる力を身に付けて東軍総大将となり、関ケ原で勝利を掴み取ることができたのです。 どん底にいた徳川家康が、天下統一を果たすまでの軌跡を、関ヶ原の戦いと共にご紹介します。
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「福島正則」(ふくしままさのり)は、「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)や「武断派七将」(ぶだんはしちしょう)の筆頭として知られる戦国武将です。幼少の頃から小姓として「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕え、いわゆる「豊臣秀吉子飼いの武将」として多くの合戦で活躍し、武辺者(ぶへんしゃ:勇敢な武士)として戦国の世にその名を轟かせました。 豊臣秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる「東軍」に与し、先鋒の主力部隊として「西軍」最大部隊を率いる「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)と乱戦を繰り広げ、東軍の勝利に大きく貢献します。 しかし、徳川家康という新たな天下人の誕生は、福島正則の人生に大きな波乱を巻き起こすことになったのです。東軍先鋒として武功を挙げながら、戦後に失墜することとなった福島正則の人生を関ケ原の戦いを通してご紹介します。
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「藤堂高虎」(とうどうたかとら)と言えば、「豊臣家」(とよとみけ)と「徳川家」(とくがわけ)に仕えるまで、次々と主君を替えたことで知られる戦国武将。 「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」との格言を残しているほど、21歳までは仕官先を転々と渡り歩きました。こうした言動から「変節漢」(へんせつかん:状況によって主義主張を変える男に対する蔑称)と言われることもありますが、その一方で、豊臣家と徳川家に仕えてからの藤堂高虎は忠臣だと評価されることも。 また多くの名城を築いた「築城の名手」としても評価されています。多様な顔を持つ藤堂高虎の人生を、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)を中心にご紹介しましょう。
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「本多忠勝」(ほんだただかつ)と言えば、「酒井忠次」(さかいただつぐ)、「榊原康政」(さかきばらやすまさ)、「井伊直政」(いいなおまさ)と並んで、「徳川四天王」のひとりに数えられた人物です。 幼少期から約50年間「徳川家康」(とくがわいえやす)に仕え、人生を徳川家康に捧げた忠臣。戦国随一の猛将で、「織田信長」(おだのぶなが)からは「花実兼備の勇士」と称され、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)からは「天下無双の大将」と呼ばれました。初陣から数えて生涯57回参戦したなかで、ただの一度も手傷を負わなかったという逸話も。 「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で、東軍の勝利に大いに貢献した本多忠勝の人生をご紹介します。
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「井伊直政」(いいなおまさ)は、戦国時代の武将。戦国の世に沈みかけていた「井伊家」(いいけ)を再興させた他、政治力や外交力を活かして徳川家臣団筆頭に上りつめ、「徳川四天王」のひとりとして「徳川家康」(とくがわいえやす)の天下統一に大きく貢献した功臣です。 また、自他共に厳しい性格から「井伊の赤鬼」(いいのあかおに)や「人斬り兵部」(ひときりひょうぶ)などの異名で恐れられ、常に戦場の最前線で激戦を繰り広げた猛将でもありました。 「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では、東軍の中心的存在としてあらゆる面で活躍し、戦後も江戸幕府の基盤を固めるために邁進した井伊直政の人生をご紹介します。
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「細川忠興」(ほそかわただおき)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕えた戦国武将。「明智光秀」(あけちみつひで)の娘「細川ガラシャ」(ほそかわがらしゃ)を妻に迎え、溺愛していたことで知られています。 また、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる「東軍」に与して、136もの首級を挙げた猛将である一方で、晩年は茶人としても名を馳せました。
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参戦した西軍武将

「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。 1600年(慶長5年)9月15日、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦。東軍が勝って、徳川家康の天下を決定的としました。興味深いのは、天下の行く末を決めた戦いでありながら、わずか6時間で決着という、まさに短期決戦であったこと。では、なぜこれほど早く終わったのでしょうか。 実は、そこには「毛利氏」(もうりし)の存在が大きく関与しています。西軍の実質的な代表者は、「太閤の恩顧に報いん」と挙兵した石田三成ですが、西軍総大将となったのは毛利輝元です。安芸広島120万5,000石を誇った中国地方の大名で、豊臣政権下での「五大老」のひとりでもあります。実はこの毛利輝元、西軍総大将でありながら、戦いの場にその姿はありませんでした。関ヶ原の戦いを毛利輝元と毛利氏に焦点を当てて、ご紹介します。
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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、のちの歴史からみると、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、1600年(慶長5年)9月15日に、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦し、結果的に徳川家康が勝ち、江戸幕府開府へと向かう、まさに「天下分け目の戦い」でした。 そこにはもちろん、語り尽くせないほどのドラマがあったのですが、全体として捉えると、いよいよ天下に王手のかかった徳川家康に、「石田三成と豊臣官僚集団」が「待った」をかけるため挑んだ戦いという構図が見えてくるのです。敗者となった西軍の実質的な代表者である石田三成に焦点を当ててご紹介します。
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1600年(慶長5年)9月15日に開戦した「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、勝利した東軍「徳川家康」(とくがわいえやす)が、その天下を決定的なものとし、江戸幕府開府へとつながるまさに天下分け目の戦いでした。 しかし、この結果が逆転していたら、日本の歴史はどうなっていたのでしょうか。敗者となった「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍にも、十分に勝機はあったと言われています。 なぜなら、西軍には石田三成はもとより、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)がその才能を買っていた人物達が名を連ねていたからです。「小西行長」(こにしゆきなが)もそのひとり。キリシタン大名としても知られる小西行長をご紹介します。
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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を、わずか6時間で決めた戦いです。 西軍に付いた「大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、豊臣秀吉が一目置いていた軍略に富む人物。当初から西軍の勝利は「冷静にみて、やはり無謀だ」と読んでいた節があります。 しかしそれでも、親友「石田三成」(いしだみつなり)を尊重し、心をひとつに戦う覚悟を決めたのです。そんな、大谷吉継にスポットを当てご紹介します。
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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる「東軍」と、「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる「西軍」が、美濃国(みののくに:現在の岐阜県)関ケ原を舞台に行なった合戦です。 「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、西軍として参戦し、西軍の中心的人物として活躍した武将。本戦は、わずか6時間で決着しましたが、宇喜多秀家とその子々孫々は、日本の歴史上、最も数奇な運命をたどった一族として名を残しました。 「宇喜多家」(うきたけ)は関ヶ原の戦いのあと、江戸時代265年に亘る歳月を「八丈島」(はちじょうじま:現在の東京都八丈町)と言う絶海の孤島で生きることを余儀なくされたのです。関ヶ原の戦いを通じて、宇喜多秀家の生涯、及び宇喜多家が八丈島でどのように過ごしたのかをご紹介します。
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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍が、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県)関ヶ原を舞台に開戦し、東軍が勝利した戦いです。 「天下分け目の戦い」とも言われる合戦として有名ですが、西軍に属した武将のなかには、東軍に参加するつもりが、情報伝達の不十分さから西軍の中心人物として参戦せざるを得なくなってしまった人物がいました。それは、九州の「薩摩国」(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)、「大隅国」(おおすみのくに:現在の鹿児島県東部)、「日向国」(ひゅうがのくに:現在の宮崎県)の3国を統治していた「島津義弘」(しまづよしひろ)。 また、関ヶ原の戦いにおいては「島津の退き口」、通称「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる決死の敵中突破を行なったことでも有名です。
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関ヶ原の戦いの結末

豊臣政権最大の内紛「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)。「東軍」も「西軍」も共に、「豊臣家」(とよとみけ)のための戦いという大義名分を掲げて戦っており、東軍も初めから「徳川家康」(とくがわいえやす)を征夷大将軍にし、江戸幕府を開かせるために参戦したわけではありません。 しかし、東軍の大将である徳川家康は、関ヶ原の戦いの結果得た莫大な所領によって、これまでの封建制支配を覆す「幕藩体制」(ばくはんたいせい:幕府の支配下に置きながら、独立の領地をもつ諸藩を統治する政治体制)を確立します。表向きは「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の後見役という立場を利用し、一方では着々と徳川の世に遷す(うつす)準備をしていました。
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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、1600年(慶長5年)9月15日に東軍が勝利。大将「徳川家康」(とくがわいえやす)は、12日後の9月27日に「大坂城」(おおさかじょう)の西の丸に入り、論功行賞(ろんこうこうしょう:功績の程度により賞を与えること)のため、勲功の調査へと動きました。 担当は、「井伊直政」(いいなおまさ)、「本多忠勝」(ほんだただかつ)、「榊原康政」(さかきばらやすまさ)、「本多正信」(ほんだまさのぶ)、「大久保忠隣」(おおくぼただちか)、「徳永寿昌」(とくながながまさ)の6名。彼らによる精力的な調査・査定活動によって、徳川家康から論功行賞が発表されたのが、10月15日のことです。 戦いぶりを評価され、領地を加増・安堵された大名についてご紹介します。
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「天下分け目の戦い」と言われる「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、敗者となった西軍の大名達に過酷な運命をもたらしました。関ケ原で散った者や、捕らえられた末に斬首となった者、また子々孫々に至るまで、その責め苦を負わされた大名もいます。 関ヶ原の戦いのあとに行なわれた戦後処理によって、どのような処罰を受けたのか。改易・減封された西軍諸将をご紹介します。
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1614年(慶長19年)11~12月と、1615年(慶長20年)4~5月。大坂で豊臣軍と徳川軍(幕府)が対峙する合戦が発生しました。「大坂冬の陣・夏の陣」です。戦いに敗れた豊臣宗家は滅亡し、徳川家を頂点とした長期安定的な政権が本格化することになりました。なお、「大阪」は明治以前「大坂」と表記されており、本稿では大坂と表記します。
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関ヶ原の戦いを描いた作品

「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、今までに多くのドラマや小説で描かれています。その理由は、「東軍」と「西軍」の激突というとてもシンプルな構図で分かりやすく、日本史の勉強になってしまうからです。脇を固める個性的な人物が数多く登場し、それぞれの武将視点によって様々に表現されるのも魅力のひとつ。ここでは天下分け目の戦いが、ドラマや小説でどのように描かれてきたかをご紹介します。
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「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、歴史的に名を馳せる武将が多く活躍したことから、ゲームや小説、映画などの創作作品において、高い人気を集める合戦です。 なかでも注目を集めるのは、関ヶ原の戦いを舞台としたゲームでは、史実に基づいた展開を軸にする一方で、プレイヤーの選択によって結末が変化するのが特徴であり、「もしもあのとき、このようなことが起きていたら」と想像を実行できるのが最大の魅力です。今回は、関ヶ原の戦いをテーマにしたゲームをご紹介します。
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関ケ原を観光する

「天下分け目の戦い」と言えば、1600年(慶長5年)9月15日に起こった「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)。「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と、「石田三成」(いしだみつなり)を中心とする西軍が、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県)関ケ原を舞台に「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあと、日本の行く末を決める戦いを繰り広げました。 その合戦の様子を史実に基づきつつ、ユニークに再現した合戦テーマパークが、関ヶ原の戦いの舞台となった岐阜県不破郡関ケ原町にあります。その名も「関ケ原ウォーランド」。体験型テーマパークとして魅力的な関ヶ原ウォーランドは、日本随一の珍スポットとも言われる突っ込みどころ満載の面白さも併せてご紹介します。いざ、合戦の地へ。
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天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で知られる岐阜県不破郡関ケ原町には、関ヶ原の戦いの舞台となった史跡を巡るおすすめのウォーキングコースがいくつかあります。 関ケ原は、古くから東西を結ぶ交通の要衝でした。一説によると、関ケ原の地名は「原っぱ」(はらっぱ)から来ているとも言われており、その名称の通り自然豊かな土地が広がっています。 かつて決戦の地として多くの武将が集結した関ケ原には、どのような史跡が残っているのか。歩いて史跡を巡りたい方必見のウォーキングコース(約6kmをおよそ6時間かけて巡る「行軍コース」)を順にご紹介します。
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「岐阜関ケ原古戦場記念館」は、1600年(慶長5年)に起きた天下分け目の合戦と謳われる「関ヶ原の戦い」を誰にでも分かりやすく解説することを目的とした体験型施設です。2020年(令和2年)、関ヶ原の戦いの古戦場である岐阜県不破郡関ヶ原町にオープン。関ヶ原の戦いに至るまでの歴史的背景を映像化し、床面スクリーンで観賞する「グラウンドビジョン」や、再現映像で関ヶ原の戦いを体験する「シアター」、合戦と同時代に使用されていた刀剣を始めとする武具や古文書の常設展示など、見どころ盛りだくさんの施設となっています。
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「関ヶ原合戦祭り」は、毎年10月の2日間にわたって開催される関ヶ原町最大のイベント。全国から多くの戦国武将ファンや関ヶ原ファンが集まり、歴史好きが交流する場としても高い人気を誇っています。 お祭りのメインとなる「関ヶ原合戦絵巻」では、一般参加者が甲冑(鎧兜)に身を包み、現代によみがえらせた「関ヶ原の戦い」を体験できるのも魅力です。
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関ヶ原の戦い 関連YouTube動画

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関ケ原合戦祭りのイベント情報や様子をブログでご紹介!

日本刀に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けする、刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」のコンテンツ「合戦の街 関ケ原」のページです。
誰もが一度は聞いたことのある「関ヶ原の戦い」の舞台となった、合戦の街「関ケ原」についてご紹介。合戦に参加した武将や、関ヶ原の戦いの経緯や結末についても解説し、関ケ原がどのような場所だったのかを知ることができます。
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