武将・歴史人
石田三成
武将・歴史人
石田三成

文字サイズ

石田三成と言えば、徳川家康と戦った「関ヶ原の戦い」を思い出す人も多いと思いますが、軍事と言うよりは、豊臣秀吉の政務担当として、政治や経済面で優れた能力を発揮しました。そんな石田三成にも、つねに腰にしていた愛刀がありました。ここでは、石田三成の生涯とその愛刀についてご紹介します。

石田三成の生い立ち

石田三成

石田三成

石田三成は、1560年(永禄3年)に近江国坂田郡の土豪、石田正継の次男として生まれました。

幼名は佐吉と言い、幼い頃は寺に預けられていました。これは貧しかったからという理由ではなく、この頃に生まれた武家の次男や三男は、学問修行として寺入りすることもめずらしいことではありませんでした。

その後、偶然その寺に立ち寄った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に見いだされ、小姓(身分の高い者に仕える者)として、豊臣秀吉に仕えることになりました。

豊臣秀吉と石田三成の出会い~三献茶のエピソード~

三成が15歳だった頃、長浜城主であった秀吉が領内で鷹狩をしていた帰り道、喉が渇いたため寺に立ち寄って、寺の小姓(三成)に茶を所望したところ、小姓が大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて差出し、飲み干した秀吉が2杯目を所望すると、小姓は1杯目よりも少し熱いお茶を茶碗に半分だけ入れて差し出しました。さらに秀吉が3杯目を求めると、今度は熱いお茶を小さな茶碗で差し出しました。

秀吉は、まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、のちの熱い茶を充分味あわせようとする細かい気配りに感動し、そのまま小姓(三成)を長浜城に連れて帰り、家臣にしたと伝えられています。

この「三献茶」のエピソードは、現在もその真偽について議論されていますが、三成が豊臣政権で五奉行まで昇りつめたことを考えれば、子供の頃から相手が欲している物を瞬時に察する能力に長けていた子供であったということがうかがい知れます。

この豊臣秀吉との出会いが、戦国武将石田三成の始まりとなりました。

石田三成と愛刀 石田正宗(石田切込正宗)

現代で言う官僚のような立場だった石田三成も、豊臣秀吉対柴田勝家の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)に参陣して「一番槍」(槍を用いて交戦の口火を切る軍団)を務めた他、27歳で「九州征伐」、32歳で「小田原攻め」に従軍するなど、参謀として数々の戦に参戦しました。

その戦いの傍らにあったのが、鎌倉時代末から南北朝時代に、相模国鎌倉で活躍した刀工「正宗」の日本刀(刀剣)であったと伝えられています。

この正宗の日本刀(刀剣)は、無銘であるものの、沸(にえ)の美しさを表現した「相州伝」(そうしゅうでん)の作風で、「石田正宗」(いしだまさむね)と言われています。また、刀身の棟に2ヵ所、茎の棟に1ヵ所の切込み(受け傷)があることから、別名「石田切込正宗」(いしだきりこみまさむね)とも呼ばれています。

正宗の作品の中では静かで安らかな作風で、豊臣政権の政務担当として「泰平の世」を目指していた石田三成と通ずる物を感じさせる日本刀(刀剣)です。

石田正宗

石田正宗

ランク 刃長 所蔵・伝来
無銘 重要文化財 約68.78cm 東京国立博物館

刀剣/石田正宗(石田切込正宗)の伝来

石田正宗は、関白豊臣秀次に仕えた毛利若狭守が所持していましたが、主君を失い流浪の身になったため、岡山城主であった宇喜多秀家(うきたひでいえ)が400貫で買い取り、秀家から石田三成へと贈られたと伝えられています。(享保名物帳より)

その後、朝鮮出陣時の武勲を三成が握りつぶしたとして、以前から対立していた加藤清正(かとうきよまさ)・福島正則(ふくしままさのり)らに三成が襲撃され、その際、擁護した徳川家康が三成を佐和山城(三成の居城)へ帰らせる途中、再び襲われることを心配して、家康の次男結城秀康に護衛を命じました。三成は、命を賭けて護送してくれた御礼として、自身の日本刀(刀剣)である「無銘正宗」を秀康に贈り、秀康はこれに敬意を表し、石田正宗と名付けて終生大切にしたと言われています。

秀康の死後は、子孫の津山藩主の松平家に伝来し、近年になって愛刀家であった渡邊三郎氏が所持していましたが、子息の渡邊誠一郎氏より「東京国立博物館」へ寄贈され、現在も同博物館に所蔵されています。

石田三成の「脇差」

石田三成は、石田正宗の他に、相州伝の代表的刀匠「貞宗」の脇差も所持していました。江戸時代の脇差とは異なる平造の「寸延短刀」(刀身の長さが一尺を超えるが短刀の様式を持つ物)で、「腰刀」(こしがたな)とも呼ばれていました。

この脇差は豊臣秀吉から拝領した物で、三成が家宝として命の次に大切にしていたと言われています。

その後、三成は関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、家康の命で三成を探していた田中吉政に捕えられますが、その際、腹痛で病んでいた三成に対し、ニラ粥を勧めるなど手厚くもてなしてくれた田中吉政に、秀吉から給わった脇差を授けたと伝えられています。

石田貞宗

ランク 刃長 所蔵・伝来
無銘 重要文化財 約31.2cm 東京国立博物館

石田三成の生涯

石田三成は戦場で目立った武勲を挙げていませんが、それでも秀吉が側近として寵遇したのは、戦場の後方支援として補給・輸送に腕を振るい、「太閤検地」(田畑の測量とその収穫量の調査)でも大きな成果を挙げるなど、政務や経済面での才能を高く評価していたからと考えられます。秀吉は、「有能な実務者は豪胆な武将以上に得難い」として、三成を「五奉行」のひとりに抜擢しており、人一倍真面目で忠誠心が強かった三成も、また秀吉の「天下統一」と「泰平の世」を築くために終生を尽くしました。

「刀は武将の魂」とよく言われますが、三成が最後に捕らえられた際、秀吉から拝領した脇差を敵方の田中吉政へ渡したのも、自分は朽ちても、秀吉や自分の魂を「日本刀で後世へ繋ぎたい」という気持ちがあったのかもしれません。

歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

石田三成

石田三成をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「武将・歴史人」の記事を読む


坂上田村麻呂

坂上田村麻呂
「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代に活躍した武将。桓武天皇より征夷大将軍に任命され、大和朝廷が異民族と見なしていた東北地方に住む「蝦夷」(えぞ)を平定した人物です。「毘沙門の化身」と恐れられた田村麻呂の人物像と、彼にまつわる名刀についてご紹介します。

坂上田村麻呂

足利尊氏

足利尊氏
室町幕府の初代将軍(在位:1338~1358年)である「足利尊氏」(あしかがたかうじ)。 この足利将軍家の重宝として伝わった日本刀(刀剣)として、「二つ銘則宗」(ふたつめいのりむね)や「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)などが挙げられます。 ここでは、尊氏の歴史とともに愛刀をご紹介します。

足利尊氏

楠木正成

楠木正成
「楠木正成」(くすのきまさしげ)ゆかりの日本刀(刀剣)は、国宝「小竜景光」(こりゅうかげみつ)。 「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)による鎌倉幕府の打倒計画に参加した正成は、「太平記」にも描かれている程です。正成の歴史の一部と日本刀(刀剣)をご紹介します。

楠木正成

新田義貞

新田義貞
「新田義貞」(にったよしさだ)と言えば、難攻不落の鎌倉幕府を滅ぼした凄い人物。南北朝の動乱においては、南朝の「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)側に付き、ライバル・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立します。「日本一の至誠の武将」と言われた悲劇のヒーロー・新田義貞の生涯に迫ります。

新田義貞

足利義満

足利義満
京都にある「金閣寺」は、現代においても有名な建物です。公家文化と武家文化が融合した華やかな北山文化の象徴として、国内外の人が観光で訪れています。この金閣寺を建立した足利義満の経歴と、彼が所持したと伝えられる日本刀(刀剣)をご紹介します。

足利義満

明智光秀

明智光秀
「明智光秀」(あけちみつひで)と言えば、わが国史上最大の謀反「本能寺の変」を首謀した人物。「織田信長」を裏切った「主君殺し」、「逆賊」と嫌われている印象が強い反面、頭脳明晰で教養も深く、気配りのできる愛妻家だったという一面も。ここでは、明智光秀の人物像と、彼にまつわる名刀についてご紹介します。

明智光秀

朝倉教景

朝倉教景
「朝倉教景」(あさくらのりかげ)は、戦国時代の武将で、越前国(えちぜんこく:現在の福井県)の戦国大名・朝倉氏の家臣です。朝倉家当主3代に亘って事実上の当主に近い政務を行ない、その時代に朝倉家は全盛期を迎えました。「教景」は、朝倉氏の重要な諱(いみな:実名)で、複数名が名乗っているので、ここでご紹介する「教景」は、区別のため出家後の名である「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)と呼びます。

朝倉教景

池田輝政

池田輝政
「池田輝政」は姫路城の大規模改築や「岐阜城の戦い」などで有名な武将です。この輝政ゆかりの刀剣では、国宝の「大包平」や重要文化財の「池田来国光」をはじめ、数多く存在します。では、これらの刀剣は輝政とどのような関係があったのでしょうか。輝政の経歴と共にご紹介します。

池田輝政

上杉謙信

上杉謙信
上杉謙信は、誰もが知る戦国最強の武将です。 また、謙信は日本刀(刀剣)の愛好家としても知られ、謙信所有の日本刀(刀剣)はどれもすばらしい物だと言われます。ここでは、謙信が戦国時代最強の武将と言われるまでの生い立ちと、名刀についてご紹介していきます。

上杉謙信

注目ワード

ページトップへ戻る