戦国時代の姫・女武将一覧

ねね(高台院)

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農民出身でありながら天下人となった「豊臣秀吉」。その背景には、豊臣秀吉の正室「高台院」(こうだいいん)通称「ねね」の内助の功が大きかったと言われています。2人の間に子どもはいませんでしたが、親族などを養子として迎え入れ、豊臣政権を支える立派な武将に育て上げました。ここでは、ねねの生涯と豊臣政権での役割、夫・豊臣秀吉没後の行動などについてご紹介します。

反対を押し切り豊臣秀吉の妻となる

ねね(高台院)

ねね(高台院)

「高台院」(こうだいいん)通称「ねね」は、「杉原定利」(すぎはらさだとし)と「朝日殿」(あさひどの)の娘として、尾張国朝日村(おわりのくにあさひむら:現在の愛知県清須市)で生まれました。その生年には諸説あり、明確には分かっていません。

ねねの名前にも諸説あり「豊臣秀吉」の伝記「太閤素生記」(たいこうすじょうき)には、同音で「禰々」とする表記が見られます。

しかし、豊臣秀吉がねねに送った書状には「お禰」(おね)と記されており、名前がねねで、愛称として「おね」と呼ばれていた可能性が高いと考えられているのです。

1561年(永禄4年)に、ねねは「織田信長」の家臣であった豊臣秀吉と結婚します。

しかしこのとき、ねねの実母・朝日殿が大反対しています。なぜなら、ねねが養女となった「浅野家」は、れっきとした武士の家柄。

その一方で、農民出身の豊臣秀吉は、浅野家に比べると身分が低かったのです。

のちに豊臣秀吉が出世して大名になったあとも、朝日殿は2人の結婚を認めなかったと言われています。

夫・豊臣秀吉の出世と世継ぎ問題

豊臣秀吉

豊臣秀吉

そののち、豊臣秀吉は織田信長の家臣のなかでも、一番の出世街道を辿っていくことになります。

1567年(永禄10年)、斎藤家の居城であった「稲葉山城」(いなばやまじょう)を織田信長が落城して美濃を平定すると、ねねは豊臣秀吉と共に、美濃へ移り住みました。

1573年(元亀4年/天正元年)に浅井家が滅亡すると、豊臣秀吉は同家の領地であった北近江3郡を織田信長から与えられ、織田家において「明智光秀」に次いで2番目に大名になります。

そののち、豊臣秀吉とねねは「長浜城」(現在の滋賀県長浜市)へと移り住んだのです。

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世継ぎができない悩み

豊臣秀吉とねねは仲睦まじい夫婦でしたが、世継ぎがなかなか生まれませんでした。その代わりにねねは、親族の子どもや豊臣家の人質として預けられていた子ども達を養育。そのなかには「加藤清正」や「福島正則」(ふくしままさのり)、「石田三成」、「黒田長政」(くろだながまさ)など、豊臣秀吉の重臣となった人物がいたのです。

ねねは、どの子どもにも分け隔てなく愛情を注いで育てており、彼らが元服したあとも実の母のように慕われ大事にされました。

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豊臣秀吉の天下統一を陰で支えたねね

豊臣秀吉は長浜を賜ったあとも、播磨(はりま:現在の兵庫県南西部)攻めや中国攻めを命じられ、出陣を繰り返します。豊臣秀吉の留守の間には、ねねが夫に代わって政務を担当したこともありました。

中国攻めも大詰めとなった1582年(天正10年)「本能寺」(現在の京都府京都市)で、明智光秀の謀反によって織田信長が自刃した事件「本能寺の変」が起こります。この知らせを受けた豊臣秀吉は、毛利家と和睦し、織田信長の仇を討つために引き返しました。

このとき、長浜城にいたねねは美濃へと逃亡。

豊臣秀吉は本能寺の変の約10日後に「山崎の戦い」で明智光秀を討つことに成功。織田信長の後継者として名乗りを上げた豊臣秀吉は、天下統一へ突き進んでいきます。豊臣秀吉が天下人に近付くにつれて、ねねの影響力も大きくなっていったと考えられています。

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北政所と称されたねね

1585年(天正13年)に、豊臣秀吉は朝廷から関白宣下を受けました。これに伴い、ねねは「北政所」(きたのまんどころ)という通称で呼ばれるようになります。北政所とは、摂政と関白の正室に対して用いられていた尊称。この時期にねねは豊臣秀吉と共に「大坂城」(現在の大阪城)へと移り住んでいます。

このときのねねは、大きな発言力と影響力を持っていたと伝えられており、それが窺える史料がポルトガル人宣教師である「ルイス・フロイス」による著書「日本史」。「関白殿下の妻は異教徒であるが大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」と記されているのです。

1588年(天正16年)、107代天皇「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)が、豊臣秀吉の邸宅である「聚楽第」(じゅらくだい)へ行幸されました。このときに、ねねが様々な手筈を整えて内助の功を発揮したおかげで万事上手くいき、ねねは「従一位」(じゅういちい)の位階に叙せられました。従一位は、当時の女性に与えられる最高の位。生前に従一位に叙せられた女性は数人しかおらず、約500年ぶりのことだったのです。

豊臣秀吉の側室「淀殿」とねねの関係

豊臣秀頼

豊臣秀頼

1593年(文禄2年)、豊臣秀吉は側室「淀殿」(よどどの)との間に「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を儲けます。

待望の男児が晩年になって誕生し、豊臣秀吉は喜び、豊臣秀頼を寵愛したため、豊臣秀頼の母・淀殿の影響力が大きくなっていったのです。

通説では、ねねが淀殿との不仲を理由に、豊臣秀頼の味方に付かなかったことが豊臣家を滅亡に導いたとされています。

豊臣秀吉の正室であるねねは、夫が亡くなったあとに頭角を現していた「徳川家康」にしたがうことが、豊臣家の衰退を防ぐ得策であると考えていました。

一方で、淀殿は豊臣秀吉の嫡男・豊臣秀頼こそが、天下人となるべき人物であると主張。このような淀殿の振る舞いが、徳川家康との確執を生むことになり、豊臣家が滅亡する要因のひとつとなったのです。

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豊臣秀吉の死去から豊臣家の滅亡まで

豊臣秀吉の没後に動き出した天下

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、日本の情勢が徐々に変化します。この頃、豊臣秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼は5歳と幼く、政務を担うことは不可能。徳川家康はこの状況を利用して、天下統一を果たすために動き出したのです。

豊臣秀頼の後見人である「前田利家」(まえだとしいえ)が生きていた間は均衡が保たれていましたが、1599年(慶長4年)に前田利家が亡くなると、徳川家康に形勢が傾き始めます。

豊臣秀吉が亡くなった翌年に、ねねは京都に移り住み、入れ替わりに徳川家康が大坂城に入城。徳川家康は、前田家に謀反の疑いをかけ、同家が領していた加賀国(かがのくに:現在の石川県南部)への侵攻を計画。このとき前田家は、2代当主の「前田利長」(まえだとしなが)の母「まつ」を江戸に送ることで謀反の疑いを晴らしました。

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ねねが関ヶ原の戦いに及ぼした影響とは

さらに徳川家康は、1600年(慶長5年)豊臣政権で政務を担当した「五大老」のひとりである「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)にも謀反の疑いがあるとして、上杉征伐を計画。

すると、徳川家康とどのような関係を築けば良いかを相談するため、加藤清正や福島正則が、ねねを訪ねて来たのです。

このとき、ねねは徳川家康にしたがうように助言したと言われています。

ねねに養育され、実の母のように慕う子ども達は、「関ヶ原の戦い」のときには大名になっており、ねねの影響力は天下を動かすほど大きかったのです。

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豊臣家の滅亡からねねの晩年

高台寺

高台寺

豊臣秀吉は亡くなる前に、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の娘「千姫」(せんひめ)を豊臣秀頼に娶らせる旨の遺言をしています。

1603年(慶長8年)、その遺言通りに2人の婚礼を見届けたねねは、仏門に入り豊臣秀吉の菩提(ぼだい)を弔うため、「高台寺」(こうだいじ:現在の京都府京都市)の創建を決意。

この頃のねねと徳川家と関係は良好で、徳川家康から同寺の建立許可を得ただけでなく、資金援助も受けたのです。これ以降、ねねは高台寺の門前に屋敷を構え、終生をそこで暮らしたと言われています。

1615年(慶長20年/元和元年)の「大坂夏の陣」において、徳川家康は豊臣秀頼に対して、大坂城からの退去、もしくは淀殿を人質として差し出すことを要求。しかし、豊臣秀頼が拒否したため徳川家康は大坂城に向け出陣。

このときねねは、徳川家康の要求を受け入れるように説得することを目的に、大坂城へ向かおうとしていました。ねねの影響力を恐れた徳川家康は、ねねの甥である「木下利房」(きのしたとしふさ)に監視役を命じて、ねねの動きを封じたのです。

ねねにはどうすることもできないまま、豊臣家の滅亡を見届けることなり、1624年(元和10年/寛永元年)に高台寺で亡くなりました。

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