1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。「徳川家康」の率いる東軍が「石田三成」の率いる西軍に勝ったということは分かりますが、一体なぜそんなに早く決着がついたのでしょうか?
天下統一を果たし関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉。武士として最高位であった「征夷大将軍」には農家の出だったことが理由でなれませんでした。武士の最高位には血筋的になるのが難しかったのです。そこで、豊臣秀吉は公家の最高位である関白を選びました。
しかし、豊臣秀吉は石高を持つ、野心高き日本全国の大名達が、天下を狙っているかもしれないと怖くなったのでしょう。そのため、関白になったのち、豊臣秀吉は関白を絶対的な頂点とするオリジナルの地位を作りました。これが、「五大老」(ごたいろう)と「五奉行」(ごぶぎょう)です。これで豊臣家は権力に脅かされることがないと考えたのでしょう。しかし、このグループ分けが、不満を生み、五大老と五奉行が豊臣秀吉の死後に関ヶ原の戦いを勃発させることとなります。
五大老と五奉行の役割はこのようなものでした。まず五大老は国や政治を指揮・監督する役割。五奉行は、豊臣政権の豊臣政権を支え、治安の維持を目指すいわゆる実務担当です。五大老を分かりやすく言うと国務大臣で、五奉行は官僚のトップと言ったところでしょうか。五大老は有力大名、五奉行は豊臣秀吉直属の家臣5名で構成されていました。これを「五大老五奉行体制」と言います。
豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、遺言状を書きました。遺言状を書いた場所は「大坂城」ではなく、京都に建てられた「指月伏見城」(しげつふしみじょう)。この城は豊臣秀吉が隠居を過ごすために建てられたと言われている城です。
遺言状は主に五大老に宛てた物で、こう記されていました。
「秀頼を守り豊臣家に尽くすように、そして政略結婚はしないように」。
これは、浅野家で伝えられてきた「太閤様御覚書」に記されています。さらに、豊臣家に尽くすよう、誓約書を五大老に書かせていたことも明らかになりました。つまり、豊臣秀吉は五大老を心の底で信用していなかったのかもしれません。
徳川家康・伊達政宗・福島正則
さて、このように豊臣秀吉が遺言状を書いたのには2つの訳があります。その訳は、後継ぎである我が子「豊臣秀頼」がまだ6歳であったこと。もうひとつの訳は、豊臣家を守りたかったということです。しかし、遺言状に反する者が出てきました。「たぬき」と陰で言われていた「徳川家康」です。
徳川家康は、政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず、「伊達政宗」や「福島正則」などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料である禄高(ろくだか)を多くしたり少なくしたりするのに関与したりと、やりたい放題となりました。
このように、豊臣秀吉の亡きあとに暴走気味にあったのは、豊臣秀吉に不満を持っていたから。「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、時鳥(ほととぎす)」という、徳川家康の有名な言葉にあるように、豊臣家の衰退を今か今かと待っていたのかもしれません。
石田三成の才能
滋賀県米原市の「大原観音寺」。この寺には豊臣秀吉がまだ「羽柴秀吉」だった頃の石田三成との出会いが逸話として伝えられています。
豊臣秀吉が鷹狩りをする際に立ち寄った寺が大原観音寺でした。1574年(天正2年)、佐吉という名前でこの寺に仕えていた石田三成にお茶をお願いしたそうです。
《石田三成が出したお茶》
1杯目は、大茶碗にたっぷりの、少し温かいくらいのお茶を。
2杯目は、1杯目よりも少し熱く、量を半分くらいにして出しました。
3杯目は、お菓子と小ぶりな茶碗に抹茶を注ぎ、茶法の通りに飲むことを勧めたそうです。
この繊細な心配りに、才能を感じ、豊臣秀吉は石田三成を傍に置くことを決意。このエピソードは「三献の茶」として大原観音寺に伝えられています。
豊臣秀吉の領国経営(検地による領内や家臣達をまとめながら領地拡張していく)を深く尊敬していた石田三成。
「自分もあんな風になりたい!」と夢を抱き。当時18歳で豊臣秀吉に仕官しました。
石田三成の才能を高く評価していた豊臣秀吉は、若くて武将としての経験のなかった、仕官して間もない石田三成に三百石の高禄を与えています。
高禄はいわゆるお給料のことです。一石は約10万円。三百石ということは3,000万円をわずか18歳で与えられたということ。これは、石田家のことが書かれている「霊牌日鑑」(れいばいにっかん)に残されています。
柴田勝家
1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。この戦いでは「織田信長」の死後、家臣であった「羽柴秀吉」と、同じく家臣であった「柴田勝家」(しばたかついえ)の権力争いが激しく衝突しました。「この戦いで次の天下は決まる!」というくらい重要な戦いです。
この戦いでは豊臣秀吉の配下であった「加藤嘉明」(かとうよしあき)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「加藤清正」、福島正則、「脇坂安治」(わきさかやすはる)、「平野長泰」(ひらのながやす)、「糟屋武則」(かすやたけのり)が大活躍しました。彼らは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる超エリートの武将達。
もちろん、石田三成も大活躍したであろうと思いきや、その戦いぶりはそれほどでもなかったそうです。石田三成は「戦下手」だったのではないかという説があります。
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石田三成は上司である豊臣秀吉には好かれていたかもれません。しかし、周りにはあまり好かれていなかったようです。これは、石田三成への妬み、恨み、不満などが重なったのが原因だと言われています。
豊臣秀吉が命じた2度の「朝鮮出兵」(文禄の役・慶長の役)で、石田三成は朝鮮で戦っている武将と、日本の連絡役としての役割を担っていました。
朝鮮で日本兵は大変苦戦。朝鮮で戦っている武将達からは不満の声が勃発。内容は、「戦略を変えてほしい」というものでした。
石田三成はそれを素直に豊臣秀吉に伝えます。それを聞いた豊臣秀吉は激怒。戦略の変更を石田三成に訴えた武将達は領地を減らされるなどの処罰を受けました。これが原因で石田三成を良く思わない人もちらほら。
ちなみに、朝鮮へ出兵した武将の多くはのちに起こる関ヶ原の戦いにて東軍と西軍に分かれます。東軍と西軍に分かれた原因が朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)であったかどうかについては、定かではありません。
朝鮮出兵武将の不満なのか?関ヶ原の戦い東軍と内通者
豊臣秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年(慶長3年)に豊臣秀吉は亡くなりました。現地には、豊臣秀吉に思い入れの深い武将達もいます。それにもかかわらず、石田三成は朝鮮へ出兵している武将達に豊臣秀吉の死を知らせませんでした。これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。
1599年(慶長4年)、文禄の役・慶長の役での不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。
七将とは、尾張清洲城主の福島正則、肥後熊本城主の加藤清正、三河吉田城主の「池田輝政」、丹後宮津城主の「細川忠興」(ほそかわただおき)、甲斐甲府城主の「浅野幸長」、伊予松山城主の加藤嘉明、豊前中津城主の「黒田長政」の7名です。
実際はこれに、阿波徳島城主の「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)、伊予宇和島城主の「藤堂高虎」(とうどうたかとら)も加わったとされています。
この暗殺未遂事件が起こったことにより、石田三成は京都の「伏見城」へ一時立て篭もりました。その仲介に入ったのは徳川家康です。
これにより、石田三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」へ隠居にて隠居することになります。石田三成に不満を持っていた武将達による徳川家康への好感度は上がったことは言うまでもありません。
石田三成の暗殺未遂事件の黒幕は、徳川家康だったのではないかという説が浮上。それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも徳川家康が仕掛けたのではないかと言われています。
このように言われている理由は、石田三成が隠居したあとの徳川家康の行動。石田三成の隠居後、徳川家康は石田三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、豊臣秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。これは、遠く離れた石田三成の耳にも届くことになります。
徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と徳川家康への不信感を募らせる石田三成。
直江兼続
石田三成以外にも、徳川家康のやりたい放題ぶりをよく思わない武将達がいました。会津の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)とその家老「直江兼続」(なおえかねつぐ)です。そこで、徳川家康に1通の手紙を渡そうということになります。手紙はこのような内容です。
「最近の貴方の行ないは目に余ります。秀頼様(豊臣秀吉のあとを継ぐ予定だったご子息)に何か言うことはないですか?」
これが関ヶ原の戦いを勃発させることとなったと言われている「直江状」です。この1通の手紙が、徳川家康を怒らせてしまいました。徳川家康は、石田三成や上杉景勝よりもはるか上の位です。徳川家康側からすると「目上の者に向かって、その無礼な手紙は何だ!」ということになります。
徳川家康は上杉景勝に詰問状を送り返し、大坂城への上洛を促します。それを上杉景勝が一蹴。これにより、徳川家康は「会津征伐」を決意し大坂城から会津へ出向きます。
この征伐では、徳川家康との力量差が明らかとなりました。なんと、会津征伐を行なうために天皇の許可を取ったのです。つまり、国の方針で会津征伐を行なったということ。これは、「自分は目上であるぞ!」という周りへの見せしめでもあったのです。
関ヶ原の戦い
大坂城から会津へ向かうため、会津より西は徳川家康が不在となりました。これを見計らって、反徳川派がひそかに西で集結します。集まったのは石田三成をはじめ、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)など。そののち、笹尾山(岐阜県不破郡関ケ原町)で西軍となる兵を挙げました。
徳川家康は西軍が結成されたとき小山(栃木県小山市中央町)にいました。西軍の結成を徳川家康は予測していたのです。そのため、これは徳川家康の仕組んだ罠だという説があります。その証拠に西軍が結成されたあと、会津征伐をあっさりと中止しています。
1600年(慶長5年)7月、徳川家康は会津攻め諸将を下野国小山に集結。集まった諸将はいずれも徳川家康に忠誠を誓っています。これが東軍結成の瞬間です。この小山での軍議はのちに「小山評定」(おやまひょうじょう)として広く世に知られるようになりました。そして、関ヶ原の戦いが始まります。
「いざ西へ!」というとき、徳川家康は「結城秀康」(ゆうきひでやす)を上杉景勝に対する押さえとして、宇都宮城に残しました。そして、諸将を西へ向かわせているのですが、ここで徳川家康は余裕を見せます。なんと一旦江戸に戻ったうえで、急ぐ様子もなく東海道を西へ上って行きました。この行動からも分かるように、徳川家康には天下への切符が見えていたのでしょう。
毛利輝元
着々と天下へ向けて歩む徳川家康に対し、石田三成は戦術に優れていたわけでも、人徳があったわけでもありません。しかも、関ヶ原の戦いのとき、石田三成が持っていた領地は19万石。このような理由から、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名毛利輝元に決まりました。
しかし、毛利輝元は「関ヶ原の戦い」で、指揮も戦いへの参加もしていません。しかも、さっさと降参して大坂城を東軍に引き渡してしまいます。このようなことから、毛利輝元は「東軍の内通者だったのではないか?」という説も。
表向きの西軍の総大将は毛利輝元ですが、実際に指揮命令を行なっていたのは石田三成です。やはりそれが原因なのか、関ヶ原の戦いのさなか、リタイアする者や裏切り者が続々と現れました。
まず、石田三成の重臣として大きな信頼を得ていた「島左近」(しまさこん)が関ヶ原の合戦中に倒れました。さらに西軍であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)が進路妨害。これが原因となり、進路を妨害され動けなくなった西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)が出陣できない理由を「今、弁当を食べているから」と言い訳したことに由来する「宰相殿の空弁当」という出来事も発生しました。このように、吉川広家が味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。
「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もあからさまに西軍から東軍へ。裏切ったのは彼だけではありません。その他にも藤堂高虎などが内通者だったと言われています。そのあと、すぐに「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くちきもとつな)も寝返りました。さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。このように、石田三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。これは石田三成にとって大誤算でした。
その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出。しかし、東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着していました。この場所で東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。石田三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり、処刑されてしまいます。
一方、慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。1603年(慶長8年)の2月、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。