安土桃山時代
関ヶ原の戦い①
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関ヶ原の戦い①

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1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。「徳川家康」の率いる東軍が「石田三成」の率いる西軍に勝ったということは誰もが知っていることですが、一体なぜそんなに早く決着がついたのでしょうか?この謎を解くために必要なキーワードは「豊臣秀吉」。戦いは、ここから始まります。

関ヶ原の戦いはここから始まった

豊臣秀吉

豊臣秀吉

「関ヶ原の戦い」が起こったのは、1598年(慶長3年)に突如訪れた「豊臣秀吉」の死去から2年後のこと。天下人の死は、野心や忠誠心など、その周りにいた様々な人の心を揺さぶりました。

このように心を揺さぶったのには理由があります。これは豊臣秀吉が死去する前のお話です。関ヶ原の戦いの発端は、実はこの戦いが始まるずっと前から起こっていました。

すべては豊臣家安泰のため?秀吉の天下統一と大名達の役割

天下統一を果たし、関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉。武士として最高位であった「征夷大将軍」には、農家の出だったことが理由でなれませんでした。武士の最高位には血筋的になるのが難しかったのです。そこで、秀吉は公家の最高位である関白を選びました。

しかし、秀吉は石高を持つ野心高き日本全国の大名達が、天下を狙っているかもしれないと怖くなったのでしょう。そのため、関白になったのち、秀吉は関白を絶対的な頂点とするオリジナルの地位を作りました。これが、「五大老」(ごたいろう)と「五奉行」(ごぶぎょう)です。これで豊臣家は権力に脅かされることがないと考えたのでしょう。しかし、このグループ分けが不満を生み、五大老と五奉行が秀吉の死後に関ヶ原の戦いを勃発させることとなります。

五大老と五奉行の役割

五大老と五奉行の役割はこのような物でした。まず五大老は、国や政治を指揮・監督する役割。五奉行は、豊臣政権を支え、治安の維持を目指すいわゆる実務担当です。五大老を分かりやすく言うと国務大臣で、五奉行は官僚のトップと言ったところでしょうか。五大老は有力大名、五奉行は秀吉直属の家臣5名で構成されていました。これを「五大老五奉行体制」と言います。

五大老 所有国 石高
徳川家康 関東 256万石
前田利家 北陸・加賀 83万石
宇喜多秀家 備前 57万石
上杉景勝 会津 120万石
毛利輝元 中国 120万石
五奉行 役割 所有国 石高
石田三成 行政 佐和山 19万石
増田長盛 建築・土木 大和郡山 22万石
長束正家 財政 近江水口 5万石
浅野長政 司法 甲府 22万石
前田玄以 宗教 丹波亀山 5万石

豊臣秀吉の遺言

豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、遺言状を書きました。遺言状を書いた場所は「大坂城」ではなく、京都に建てられた「指月伏見城」(しげつふしみじょう)。これは豊臣秀吉が隠居を過ごすために建てられたと言われている城です。

遺言状は主に五大老に宛てた物で、こう記されていました。

「秀頼を守り豊臣家に尽くすように、そして政略結婚はしないように」

これは、浅野家で伝えられてきた「太閤様御覚書」に記されています。さらに、豊臣家に尽くすよう、誓約書を五大老に書かせていたことも明らかになりました。つまり、豊臣秀吉は五大老を心の底では信用していなかったのかもしれません。

遺言状に反する者

徳川家康・伊達政宗・福島正則

徳川家康・伊達政宗・福島正則

さて、このように秀吉が遺言状を書いたのには2つの訳があります。ひとつは、後継ぎである我が子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)がまだ6歳であったこと。もうひとつの訳は、豊臣家を守りたかったということです。しかし、遺言状に反する者が出てきました。「たぬき」と陰で言われていた「徳川家康」です。

家康は、政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず「伊達政宗」や「福島正則」などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料である禄高(ろくだか)を増減するのに関与したりと、やりたい放題となりました。

このように、秀吉の亡きあとに暴走気味にあったのは、秀吉に不満を持っていたから。「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、時鳥(ほととぎす)」と言う、徳川家康の有名な句にあるように、豊臣家の衰退を今か今かと待っていたのかもしれません。

徳川家康にちょっと待った!を出した石田三成と関ヶ原の戦い

石田三成

石田三成

やりたい放題の徳川家康に「ちょっと待った!」をかけたのが「石田三成」でした。「豊臣秀頼を立てるべきだ」と家康に物申したのです。

天下を取ったあとの豊臣秀吉に不満を持っていた者は多くいました。そのため、「白黒はっきり付けましょう」となった際、徳川家康側と石田三成側に二分したと言います。

東軍と西軍どっちに付く!?関ヶ原の戦いが始まる

関ヶ原の戦いは、石田三成と徳川家康の戦いと言われていますが、そうではありません。豊臣家と反豊臣家の戦いです。そのため「豊臣家を守ろう!」と賛同する者が西軍として石田側に加わり、豊臣家の方針に納得できない者が東軍に加わりました。

関ヶ原の戦いが始まったとき、東軍と西軍の兵力はほぼ互角。しかし、わずか数時間で西軍の兵力が失われていきます。

6時間で終結する原因!裏切りや不参加が続々!?西軍の悲劇

小早川秀秋

小早川秀秋

関ヶ原の戦いのとき、三成が持っていた領地は19万石であることもあって、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名「毛利輝元」となったのですが、これは三成では求心力が足りないことも一因だったのかもしれません。実際、関ヶ原の戦いが起こる前、豊臣家に忠実だったため「石田三成を暗殺しよう」という計画が持ち上がるほど、石田三成を嫌う者は多かったようです。

このような状態で関ヶ原の戦いは始まりました。しかし、戦いが行なわれた時間としては、わずか6時間で終結してしまったのです。その理由も三成の求心力不足と考えられる要因が多発したことが原因。

地形としては有利な布陣を敷いていた三成であったため、序盤は優勢に進めていた西軍でしたが、日和見をしていた「小早川秀秋」の裏切りにあい形勢が逆転。さらには味方であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)は、出陣要請に対して拒否。肝心の輝元に至っては、戦いへ参加もせず、さっさと降参して大坂城を東軍に引渡してしまいます。このような状態で西軍の兵力が失われたことにより、東軍が狙うは石田三成ただひとりとなりました。

裏切りをきっかけとして瓦解した戦力の西軍に対し東軍が勝利。結果として6時間で終結する短期決戦となりました。戦いに臨むまでの下準備こそが三成の敗因となったのでしょう。そのあとに徳川家康は幕府を開き「大坂冬の陣・夏の陣」により豊臣家は衰退し、徳川の世が始まったのです。

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