「栄姫」(えいひめ)は、福岡藩初代藩主「黒田長政」(くろだながまさ)の継室(けいしつ:後妻のこと)となった女性です。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が始まる直前に黒田長政と結婚し、大坂で戦乱に巻き込まれます。はたして栄姫とは、どのような人物だったのでしょうか。ここでは栄姫の生涯と、栄姫にかかわりの深い人物達についてご紹介します。
栄姫
「栄姫」(えいひめ)の父は、戦国大名「保科正直」(ほしなまさなお)。
保科正直は、もともと信濃国諏訪郡(しなののくにすわぐん:現在の長野県諏訪市)の「高遠城」(たかとおじょう:現在の長野県伊那市)城主である「諏訪頼継」(すわよりつぐ)に仕えていました。
しかし、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の戦国大名「武田信玄」が行なった「信濃侵攻」により、保科正直の父「保科正俊」(ほしなまさとし)の主君である諏訪氏が1552年(天文21年)に降伏。
そののち、保科正俊は武田信玄の配下の「信濃先方衆」(しなのせんぽうしゅう:別名を国衆。譜代の家臣ではなく戦などで降伏したあとに服属する家臣のこと)として、「下伊那攻め」(しもいなぜめ)や「北信濃攻め」などに従軍しました。
保科正俊、保科正直親子は、武田氏の家臣として「飯田城」(現在の長野県飯田市)を守備していましたが、1582年(天正10年)に「織田信長」と「徳川家康」率いる連合軍の「甲州征伐」により落城。
保科正直は武田氏が滅ぶと、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)の「箕輪城」(みのわじょう:現在の群馬県高崎市)にいる実弟「内藤昌月」(ないとうまさあき)を頼ります。
しかし、箕輪城も侵攻してきた織田信長の家臣「滝川一益」(たきかわかずます)率いる織田軍に敗北したため、箕輪城を開城し降伏しました。
1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」で織田信長が没すると、保科正俊と父・保科正直は北条家に身を寄せます。そののち、北条家は織田信長が統治していた旧武田領に侵攻。そこへ、織田家の命を受けて討伐へやってきた徳川家康軍と、北条軍が交戦します。
保科正俊、保科正直親子は北条方として戦っていましたが、徳川方が優勢に立つとすぐさま徳川方へ転じました。
結果としてこの素早い判断が功を奏し、保科正俊と保科正直は、徳川家康から2万5,000石を拝領し、信濃国・高遠城を与えられます。
さらに保科正直は、1584年(天正12年)徳川家康の妹である「多劫姫」(たけひめ)を正室に迎えました。この女性こそが、栄姫の母となる人です。
栄姫の母・多劫姫は、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)「坂部城」(さかべじょう:現在の愛知県知多郡)城主「久松俊勝」(ひさまつとしかつ)と「於大の方」(おだいのかた)の間に生まれた娘。於大の方は、徳川家康の母でもあるため、徳川家康と多劫姫は父親違いの兄妹になります。
多劫姫は保科正直と婚儀を挙げる以前に「松平忠正」(まつだいらただまさ)に嫁いでいましたが、松平忠正を病気で亡くしました。そののち、松平忠正の弟「松平忠吉」(まつだいらただよし)に嫁ぎますが、松平忠吉も病没してしまいます。
こうして多劫姫は、徳川家康の配下となった保科正直のもとに嫁ぐことになりました。多劫姫は保科正直との間に2男4女を儲けており、このなかのひとりが栄姫です。
黒田長政
栄姫が嫁いだ相手は「黒田長政」(くろだながまさ)という戦国大名。父親は「豊臣秀吉」の配下で、軍師の「黒田官兵衛/黒田孝高」(くろだかんべえ/くろだよしたか)です。
黒田長政は、1568年(永禄11年)「姫路城」(現在の兵庫県姫路市)で生まれ、幼名を「松寿丸」(しょうじゅまる)と言います。
1577年(天正5年)黒田官兵衛は織田信長の軍門に降り、配下であった豊臣秀吉に嫡男・黒田長政を人質として預けました。
黒田長政は人質ではありましたが、豊臣秀吉の正室「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)に可愛がられていたこともあり、充実した子供時代を過ごしています。父・黒田官兵衛も、豊臣秀吉の播磨攻め「上月城の戦い」(こうづきじょうのたたかい)で戦果を挙げたことを皮切りに、軍師としての才覚を見せるようになりました。
1582年(天正10年)、織田信長が本能寺の変で没する頃には、黒田長政は父と共に豊臣秀吉に仕えるようになります。黒田長政は、知略を得意とする父・黒田官兵衛とは違い、武人として頭角を現していました。
そして、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で、武功を挙げたはじめての恩賞として、河内国(かわちのくに:現在の大阪府柏原市)450石を豊臣秀吉から拝領。さらに、1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」では2,000石の加増となり、黒田長政は順調に出世への道を歩んでいました。
1587年(天正15年)九州を平定した際、黒田家は豊前国(ぶぜんのくに:現在の福岡県東部と大分県北部)に12万5,000石が与えられます。そして、1589年(天正17年)には父・黒田官兵衛が隠居すると、黒田長政が家督を継ぎました。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、嫡男である「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の後継に関する問題で、豊臣政権内部は次第に対立を激化させます。特に、豊臣秀吉の配下で、幼い頃から仕えていた黒田長政、「加藤清正」、「福島正則」ら武断派(合戦で戦功を挙げている者の派閥)と、「石田三成」を代表格とする文治派(豊臣政権内で政務を担う者の派閥)はより対立を深めました。
黒田長政は、豊臣秀吉に次いで実力のある大名・徳川家康に接近。このとき徳川家康は、豊臣政権を内部分裂させるために、多くの味方を必要としていました。このような理由から、黒田長政と徳川家康は同盟を結び、その証として縁談を進めることに決めたのです。
黒田長政は、すでに「蜂須賀正勝」(はちすかまさかつ)の娘「糸姫」を、正室としていましたが、徳川家康の娘を正室とするため糸姫と離縁しました。
1598年(慶長3年)黒田長政が糸姫と離縁したのち、徳川家康は保科家の娘であった栄姫を養女としてから、黒田長政に嫁がせます。輿入れの化粧料(女性が嫁ぐ際の持参金・土地・権利など)として徳川家康は、豊後国玖珠郡(ぶんごのくにくすぐん:現在の大分県玖珠町)1,000石を栄姫に下賜。
1600年(慶長5年)、黒田長政は「会津征伐」へ向かう徳川家康にしたがって出陣。同じ頃、石田三成はこの隙を突いて、大坂から西軍を率いて挙兵しました。石田三成は挙兵すると共に、大坂に住む徳川方の諸大名の妻子達を、人質にする計画を実行に移します。
もともと、豊臣秀吉が君臨していた頃から、大坂には豊臣家への恭順の意を示すために、諸大名の妻子達が人質として住んでいました。石田三成は、妻子達を大坂から逃がさないようにすることで、戦を有利に進めようと考えたのです。
大坂天満(おおさかてんま:現在の大阪府天満)にある黒田屋敷には、栄姫と黒田長政の母「光」(てる)がいました。 黒田家は、主君である黒田長政の母・光と、妻・栄姫を石田三成方の人質に取られまいと、重臣「栗山利安」(くりやまとしやす)、「母里友信」(もりとものぶ)らと屋敷を脱出します。
脱出に関する逸話に、光と栄姫らを、ひとりずつ俵に詰め込み、母里友信が商人に扮して、天秤棒を担いで脱出したという話が伝わります。これは、怪力で名を馳せた、母里友信ならではの話です。他にも、母里友信が病人を装い、毎日、駕籠に乗って番所を通過していたところ、役人が憐れに思い、ついには駕籠のなかを確認しなくなったために、毎晩ひとりずつ脱出させることができたという話もあります。
栄姫と光は、屋敷からの脱出には成功しましたが、黒田家の領地は豊前国であり、大坂からはかなりの距離がありました。徒歩で向かうには時間も距離もかかる上、女性の足で急ぐには困難な道のり。また、海路を取ろうにも、石田三成方の諸将の警戒が強い大坂の町で、船を手に入れるのはほとんど不可能でした。
ここで思わぬ事態が起こります。栄姫達と同じように、人質として身柄を確保されそうになっていた「細川忠興」(ほそかわただおき)の正室「細川ガラシャ」が自害し、細川屋敷に火を放って抵抗を示したのです。
この混乱に乗じて船を入手した母里友信達は、栄姫と光を船底に隠し、川を下り海に出ることに成功。さらにそこで、より大きな船に乗り換えることができたため、豊前国を目指すことができました。
1603年(慶長8年)徳川家康は、朝廷から「征夷大将軍」に任じられ、徳川家による幕藩体制が始まります。黒田家は早くから徳川家康に味方していたため、徳川家とは友好な関係を築いていました。
順風満帆に見えた黒田家でしたが、世継ぎ問題で黒田家は大きく揺れることになります。
黒田長政は、栄姫との間に3男2女を儲けましたが、嫡男である「黒田忠之」(くろだただゆき)の粗暴で自己中心的な性格を憂い、3男である「黒田長興」(くろだながおき)に家督を譲ることを考えていました。黒田長政は、その旨を黒田忠之への手紙にしたためます。「2,000石の田地で百姓となるか、1万両を持って関西で商いをするか、1,000石の知行で寺を建て僧となるかを選べ」という内容でした。
これに対し、栗山利安の子「栗山利章」(くりやまとしあきら)が血判状を黒田長政に提出して、黒田忠之の廃嫡(家督を継ぐ権利を剥奪すること)に反発。血判状に署名した藩士達は「嘆願を聞き入れないのであれば、全員切腹する覚悟がある」と伝えます。
事態を重く捉えた黒田長政は、黒田忠之の後見人として栗山利章を立てることを条件に、黒田忠之に家督を譲ることを決意。そののち1623年(元和9年)、黒田長政は息を引き取りました。
黒田長政の死後、黒田忠之が2代目福岡藩藩主を継ぎます。さらに、黒田忠之の弟・黒田長興は支藩となる秋月藩(あきづきはん)5万石の藩主になり、さらに下の弟「黒田高政」(くろだたかまさ)は東蓮寺藩(とうれんじはん)4万石の藩主になるなど、落ち着きを見せた黒田家でした。
しかし再び、黒田忠之の素行について問題が浮上します。
黒田本家の家老となっていた栗山利章と黒田忠之との間で軋轢が生じました。栗山利章が、黒田忠之に生活習慣の乱れや、飲酒などについて正すよう進言したことで、黒田忠之は栗山利章を煩わしく思うようになります。
黒田忠之は、筆頭家老である栗山利章を遠ざけ、小姓の頃から仕えていた側近の「倉八十太夫」(くらはちじゅうだゆう)に1万石を与え重用します。倉八十太夫に命じて、豪華な大船「鳳凰丸」を建造、足軽を200人も雇い軍備増強を図ったため、江戸幕府からお咎めを受けました。これは当時、江戸幕府は軍縮の時代にあり、黒田忠之のやり方は暴政を行なっていると見なされたためです。
徳川家光
さらに1632年(寛永9年)栗山利章が幕府に対し、「黒田氏は幕府に対し謀反を起こす」と上訴したことで将軍自らが裁決する大事件となります。これが「黒田騒動」です。
1633年(寛永10年)将軍「徳川家光」は黒田家には所領安堵の沙汰を申し付けました。
しかし、騒動を起こした責任として栗山利章は福岡藩を追放され、陸奥国(むつのくに:現在の福島県白河市)盛岡藩預かりの身となります。
栄姫は、黒田騒動が起きたとき、すでに出家(夫を先に亡くした妻が仏門に入ること)し「大涼院」(だいりょういん)と号していましたが、実家の保科家に、黒田家を助けるよう江戸幕府へ働きかけてほしいと嘆願。保科家は、徳川将軍家とのかかわりが強かったことから、この嘆願が黒田家の所領安堵に繋がった理由のひとつとして考えられます。