戦国時代の姫・女武将一覧

朝日姫

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天下人「豊臣秀吉」の妹であった「朝日姫/旭姫」(あさひひめ)。すでに尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の農民に嫁いでいた朝日姫でしたが、天下を取りたい兄の夢のために、長年連れ添った夫と無理矢理離縁させられ「徳川家康」の正室となりました。ここでは、朝日姫が徳川家康に嫁ぐことになった背景を、天下統一を果たすまでの兄・豊臣秀吉が歩んだ道のりと共に紐解いていきます。

朝日姫が徳川家康に嫁ぐまで

朝日姫

朝日姫

「朝日姫/旭姫」(あさひひめ)は、1543年(天文12年)に尾張国中村(現在の愛知県名古屋市)で、父「竹阿弥」(ちくあみ)と母「なか[大政所]」(おおまんどころ)の娘として生まれました。

一説には、朝日姫と「羽柴秀吉」(はしばひでよし)のちの「豊臣秀吉」は異父兄妹であったとされ、もうひとりの兄である「羽柴秀長」(はしばひでなが)のちの「豊臣秀長」(とよとみひでなが)は、朝日姫と同じ両親であったと伝えられています。

そんな朝日姫の最初の結婚相手は、尾張の農民であった「佐治日向守」(さじひゅうがのかみ)です。

佐治日向守は羽柴秀吉の出世に伴い、武士として取り立てられるようになりました。

羽柴秀吉が朝日姫を「徳川家康」に嫁がせようとしたときには、佐治日向守はすでに亡くなっていたという説や、朝日姫と離縁したことをきっかけに自害したという説もあります。

  • 豊臣秀吉のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

  • 豊臣秀吉のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • なか(大政所)の活躍するまでの経緯や、成し遂げた偉業などをご紹介します。

兄の天下のために犠牲となった朝日姫

羽柴秀吉、天下統一への道

豊臣秀吉

豊臣秀吉

順調に出世への道を歩み始めていた朝日姫の兄・羽柴秀吉。

1573年(天正元年)には、浅井氏攻めの恩賞として、主君「織田信長」から浅井家旧領であった北近江3郡を与えられています。そして「今浜」の地に12万石で封ぜられ、大名となったのです。

このときに羽柴秀吉は、今浜の地名を「長浜」に改め、「長浜城」(現在の滋賀県長浜市)を築城し城主となりました。この頃、中村にいた朝日姫とその家族が、同城において、羽柴秀吉と一緒に住み始めたと言われています。

さらに羽柴秀吉は、1577年(天正5年)、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)と但馬国(たじまのくに:現在の兵庫県北部)を攻略。これに加えて、織田信長の命により、毛利氏の支配下にあった中国地方への侵攻も行なっています。

中国攻めが終盤に差し掛かった1582年(天正10年)、備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県西部)の「高松城」(現在の岡山県岡山市)を水攻めにしていた羽柴秀吉のもとに、織田信長が家臣「明智光秀」の謀反によって、自刃させられた「本能寺の変」の知らせが届きました。

このときには、長浜城にいた朝日姫でしたが、羽柴秀吉の正室であった「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)をはじめとする家族全員で、すぐに美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)に逃れています。そののち、長浜城は明智光秀によって占拠されてしまったのです。

羽柴秀吉は、織田信長の仇を討つために、対立していた毛利氏と和睦。高松城の城主「清水宗治」(しみずむねはる)の切腹を見届けると、京都に向けて引き返しました。これが、いわゆる「中国大返し」です。

京都へ向かう道中で羽柴秀吉は、織田氏の宿老(しゅくろう:古参の重臣など重要な地位に就く者)であった「丹羽長秀」(にわながひで)、同じく重臣であった「池田恒興」(いけだつねおき)、織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)などと合流。明智光秀を討つために、京都の山崎へ向けて進軍を開始しました。

のちに「山崎の戦い」と呼ばれたこの合戦において、羽柴軍の総大将は織田信孝でしたが、実質的に指揮を執っていたのは、最も多くの兵を抱えていた羽柴秀吉であったと伝えられています。

羽柴秀吉軍の兵力が3~4万人だったことに対し、明智光秀軍は1万数千人と、大きな差がありました。明智光秀の軍勢は、味方になってくれると見込んでいた武将の多くに参戦を拒否され、明智光秀単独の部隊になってしまっていたのです。両軍の間で激戦が繰り広げられますが、軍勢の数の上で圧倒的に有利だった羽柴軍が勝利。この合戦において、明智光秀は竹やぶで落ち武者狩りに遭い命を落としました。

そして羽柴秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を討ったことを足掛かりに、本能寺の変で亡くなった主君・織田信長の天下を継ぐために動き出します。

本能寺の変が起きたときの織田家当主は、織田信長の生前に家督を譲られていた「織田信忠」(おだのぶただ)でしたが、父である織田信長と同様に、明智光秀に屈して自刃していたため、織田家当主が不在となり、織田家の跡継ぎ問題が起こっていました。

清州城

清州城

これを解決するべく、羽柴秀吉や「柴田勝家」など、織田氏の重臣達が「清州城」(現在の愛知県清須市)に集まり、話し合いの場が設けられます。

「清須会議/清洲会議」(きよすかいぎ) と呼ばれるこの話し合いでは、明智光秀を倒したことで、主君・織田信長の仇を討った羽柴秀吉の発言力が大きく、その思惑通りに進んだと言われているのです。

この清須会議では、織田忠信の嫡男である「三法師」(さんほうし)のちの「織田秀信」(おだひでのぶ)が織田家の家督を継ぐこと、その後見人は織田信孝とすること、さらには織田信長の妹「お市の方」(おいちのかた)が、柴田勝家に嫁ぐことなどが決まりました。

清須会議には、織田氏の重臣達が揃って出席していましたが、そのなかでも羽柴秀吉と柴田勝家は犬猿の仲と言えるほど、お互いをライバル視していた関係。

その原因となったのは、1577年(天正5年)、越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の「上杉謙信」が加賀国(かがのくに:現在の石川県南部)にまで侵攻してきたときのことです。羽柴秀吉と柴田勝家は、軍議において意見が食い違い、それ以降、仲違いすることになります。

そんな両者の対立は清須会議の終了後、決定的なものとなることに。織田信長に忠誠を誓っていた柴田勝家は、主君亡きあと、天下の座を奪おうとする羽柴秀吉のことを疎ましく思っていたのです。

また清須会議では、織田信長が残した領地の再分配についても決められました。この領地決めについても、羽柴秀吉主導で行なわれ、柴田勝家は羽柴秀吉が初めて築いたお城であり、その居城としていた長浜城を譲られただけでなく、越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北東部)を安堵されます。

しかし、柴田勝家は養子であった「柴田勝豊」(しばたかつとよ)を守将として長浜城に入城させ、自身は越前国を拠点とすることにしたのです。

越前国は、冬になると雪がたくさん降る地域。そこで羽柴秀吉は、柴田勝家が雪のために身動きできないことを好機と捉え、柴田勝豊や織田信孝など、柴田勝家の味方を次々に切り崩して降伏させ、さらには、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)出身で伊勢国(いせのくに:現在の三重県北中部)を攻略した「滝川一益」(たきがわかずます/たきがわいちます)を攻めました。

そして1583年(天正11年)、まだ雪が残る4月に柴田勝家を総大将とする北陸軍が、近江国の「賤ヶ岳」(しずがたけ)付近に布陣。羽柴秀吉軍と直接対決を行なうことに。

賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)と称されるこの合戦では、柴田家勝軍が3万人、羽柴秀吉軍については、約5万人または約10万人の戦力であったとも言われています。それぞれの軍勢には数に開きがありましたが、すぐに決着は付かず、膠着(こうちゃく)状態が続いていたのです。

この合戦において羽柴秀吉は、最初にわざと美濃国の織田信孝を攻めて、柴田勝家軍を誘い出そうとします。すると、柴田勝家側に付いていた「佐久間盛政」(さくまもりまさ)が、賤ヶ岳のうち羽柴秀吉の家臣「中川清秀」(なかがわきよひで)が守っていた「大岩山砦」(おおいわやまとりで)への急襲を仕掛けてきたのです。

これを成功させた佐久間盛政は、そのまま大岩山砦に居座り続けました。これを知った羽柴秀吉軍は、美濃からすぐに引き返して反撃し、佐久間盛政の部隊は惨敗。さらには、この激戦の最中に「茂山砦」(しげやまとりで)に布陣していた柴田勝家軍の「前田利家」(まえだとしいえ)が戦わずに退却したため、柴田勝家軍は総崩れ。柴田勝家は、織田信長より与えられていた「北ノ庄城」(きたのしょうじょう:現在の福井県福井市)のちの「福井城」(ふくいじょう)に引き返すしかありませんでした。

この賤ヶ岳の戦いにより、織田氏の旧家臣達は、ほぼ羽柴秀吉の配下に付くことになり、織田信長の後継者は羽柴秀吉とすることが正式に決まったのです。

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羽柴秀吉と徳川家康が対峙した「小牧・長久手の戦い」

徳川家康

徳川家康

織田氏の覇権争いに勝利した羽柴秀吉は、次の標的を三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の徳川家康に定めます。

本能寺の変のあとに徳川家康は、空白地となっていた旧武田領の甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)と信濃国(しなののくに:現在の長野県)の大部分を手中に収め、この2ヵ国に加えて、遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部、及び北東部)、そして三河国の計5ヵ国を所領とする大大名になっていました。

そんな徳川家康に、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)は、羽柴秀吉から織田家の覇権を取り戻すために協力を依頼。徳川家康が、織田信雄のこの要請に応じたことにより、羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍の戦が始まったのです。

徳川家康は、1582年(天正10年)に起きた「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)の際、「北条氏」と同盟を結んでおり、さらには四国の「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)、越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)の「佐々成政」(さっさなりまさ)、そして紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県、及び三重県南部)の「雑賀衆」(さいかしゅう:鉄砲傭兵または地侍集団)にも協力を仰ぎ、羽柴秀吉軍を囲む手はずを整えていました。

そして、1584年(天正12年)に「小牧・長久手の戦い」が勃発。進展がなかなか見られない状況を打開しようと、羽柴軍の「森長可」(もりながよし)と池田恒興、羽柴秀吉の甥にあたる「羽柴秀次」(はしばひでつぐ)らが、徳川家康の本拠である三河国に攻め込み、奇襲する作戦を立てたのです。

しかし、この作戦に気付いた徳川家康は、逆に羽柴秀次軍の背後から接近し攻撃。池田恒興と森長可を討ち取りました。

これを受けて羽柴秀吉は、織田信雄の本拠である美濃国や伊勢国の諸城を攻略していき、織田信雄に対して和睦を提案します。織田信雄がこれを受け入れたことにより、徳川家康は羽柴秀吉と戦う大義名分がなくなってしまったのです。このとき徳川家康は、和睦を結ぶ条件として次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)を羽柴秀吉のもとへ人質として送っています。

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離縁させられ、徳川家康の正室となった朝日姫

羽柴秀吉はこれ以降、徳川家康との戦いを一旦休止し、小牧・長久手の戦いにおける徳川家康の協力者達から先に、討ち取っていくことにしました。まずは、紀伊国の雜賀衆から討伐を開始。そして長宗我部氏、佐々氏といった順序で、次々と徳川家康の協力者を制圧していったのです。

そんななか、北条氏と同盟を結んでいた徳川家康は、陸奥国(むつのくに:現在の東北地方北西部)の伊達氏とも親しい関係であると噂されていました。徳川氏と北条氏に加え、伊達氏までもが同盟を組んで交戦することになれば、その兵力は10万人ほどになってしまいます。さらに徳川家康は、戦上手であったと評されており、羽柴秀吉がその武力をもって戦ったとしても、確実に勝てる保証はありません。そこで、羽柴秀吉は交渉を行なうことで、徳川家康を臣従させようと考え始めたのです。

この頃、四国を征伐中であった羽柴秀吉は、1585年(天正13年)に関白となりました。そしてその翌年には、106代天皇「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)より、「豊臣」姓を下賜され「太政大臣」(だじょう/だいじょうだいじん)に就任しています。

これにより、豊臣政権を確立させた豊臣秀吉は、何とかして徳川家康を自身の臣下にしたいがために、朝日姫を徳川家康のもとへ正室として嫁がせることを打診。徳川家康は、自身の息子である結城秀康を人質として差し出していただけでなく、徳川家のなかでも豊臣秀吉にしたがっていたほうが良いとする議論が起きていたこともあり、その申し出を受け入れることにしました。

このときの朝日姫には、夫がいたと言われていますが、豊臣秀吉は無理矢理にでも離縁させて、徳川家康に嫁がせようとしたのです。そのため、朝日姫の夫であった佐治日向守は、これに心を痛めて自害したという話も伝わっています。

なか(大政所)

なか(大政所)

豊臣秀吉は天下人としての威厳を示すために、徳川家康に何度も上洛を促していましたが、妹・朝日姫を嫁がせても拒否されていました。

そこで豊臣秀吉は、最後の手段として、自身の母・なか(大政所)を朝日姫の見舞いという名目で(実質的には人質として)徳川家康のもとへ送り出します。

徳川側からの人質は結城秀康ひとりだけですが、関白の豊臣秀吉からは、徳川家に2人も人質を差し出したことになったのです。

これにより徳川家康は、豊臣秀吉による要請にようやく応じて上洛。「臣下の礼」を取って、豊臣秀吉に仕える意志を示したのです。

豊臣秀吉に謁見する前日、徳川家康が宿泊していた豊臣秀長の屋敷に、豊臣秀吉が突然訪ねて来ました。そのとき豊臣秀吉は、謁見の場では大きな態度で接するが、それでも臣下の礼を取って欲しいと、徳川家康にお願いしたと言います。

翌日、豊臣秀吉は前日の打ち合わせ通り、徳川家康に対して荘厳な態度で接しましたが、徳川家康も丁重に臣下の礼を取りました。これを見た諸大名は、徳川家康ですら豊臣秀吉には頭を下げるのかと、驚いたことが伝えられています。豊臣秀吉は、事前に伝えてあったとは言え、徳川家康の器の大きさに感心したのです。              

その頃、駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市)で待っていたなか(大政所)と朝日姫にも、逸話が残されています。徳川家康が上洛している間、その留守を徳川家康の家臣である「本多重次」(ほんだしげつぐ)が務めていました。本多重次は、徳川家康への忠義心は人一倍持っていましたが、とにかく気性が荒く怒りっぽい性格だったのです。

そして本多重次は、徳川家康の上洛中になか(大政所)と朝日姫がいる屋敷の周りに、薪を積み上げたと言われています。主君である徳川家康に万が一のことがあったときには、すぐに館ごと燃やし2人を焼き殺す準備をしていたのです。

この話を聞いた豊臣秀吉は、怒り心頭に発しました。この逸話だけが原因ではありませんが、1590年(天正18年)の「小田原征伐」のあと、豊臣秀吉は徳川家康に命じて、本多重次に蟄居の刑を科したと言われているのです。

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徳川家康の正室となった朝日姫のその後

なか(大政所)の見舞いのため大坂へ戻る

徳川家康が上洛を果たすと、その人質であったなか(大政所)は大坂城(現在の大阪城)へ帰っています。朝日姫は変わらず「駿府城」(すんぷじょう:現在の静岡県静岡市)にいましたが、1588年(天正16年)に母であるなか(大政所)の体調が優れないという知らせを受けると、そのお見舞いのために大坂を訪れていたのです。

朝日姫は徳川家康にとっては正室ですが、それは形式上のことであり、実質的には人質。そんな朝日姫を大坂に行かせたことから、徳川家康は朝日姫を非常に丁寧に扱っていたことが窺えるのです。ちなみに朝日姫はこのとき、なか(大政所)の体調が良くなると駿府城に戻ったと伝えられています。

兄の天下統一のために翻弄された朝日姫の最期

瑞龍寺

瑞龍寺

朝日姫は、なか(大政所)を訪ねて間もなく病気がちになり、1590年(天正18年)に「聚楽第」(じゅらくてい/じゅらくだい:現在の京都府京都市)で死去。前の夫と離縁させられてから死去までの期間はわずか4年であり、徳川家康との結婚生活は2年ほどでした。

朝日姫がいつ駿府城から聚楽第に帰ったのかは不明ですが、徳川家康が上洛し豊臣秀吉に臣下の礼を取ってくれたことで、豊臣秀吉の妹としての役目を果たしたと言えるのです。しかし、それは同時に乱世の時代に翻弄された、悲劇の女性であったことも意味しています。

朝日姫は、徳川家康により「東福寺」(とうふくじ:京都府京都市)に葬られました。さらに徳川家康は、駿府の「瑞龍寺」(ずいりゅうじ:静岡県静岡市)にも、朝日姫のためのお墓を作り、豊臣秀吉が亡くなったあとも、朝日姫の冥福を祈っていたと言われています。

朝日姫

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