「我は生まれながらの将軍である」と言ったのは、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)。様々な政策を行ない、幕藩体制や幕府機構の確立に尽力しました。徳川家光が幕府の基礎を築かなければ、江戸幕府が約260年続くことはなかったと言われています。
徳川家光が行なった政策とは何か。徳川家光の幼少期や両親・弟・乳母「福」との関係、功績や人物像についてご紹介します。
德川家光
徳川家光は、1604年(慶長9年)生まれ。2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の次男として、江戸城・西の丸で誕生しました。
母は「浅井長政」の娘「江」(ごう)。徳川秀忠には、長男「長丸」(ちょうまる)がいましたが、すでに早世し、徳川家光は最初から嫡男として育てられました。
徳川家光の幼名は「竹千代」です。生まれてすぐに両親ではなく、乳母「福」(のちの春日局)によって育てられました。
これは、祖父で江戸幕府初代将軍「徳川家康」の命令によるもの。幼少期の徳川家光は、体が弱く、温和でおとなしい性格で、吃音(きつおん:なめらかに話すことができない)の症状があったと言われています。
そんな中、1606年(慶長11年)、徳川秀忠は3男「徳川忠長」(とくがわただなが)を授かります。徳川家光と違って、徳川忠長は母・江によって育てられることに。
健康で容姿もよく、利発。徳川秀忠や江は、自分達の手で育てている徳川忠長をとてもかわいがり、体が弱くおとなしい徳川家光よりも、利発で容姿端麗な徳川忠長の方が次期将軍にふさわしいのではないかと考えるようになったのです。
一方、徳川家光は両親からの愛情を感じることがなく、両親と距離を取るようになり、話をするときも遠慮しながら話すようになりました。家臣達の間でも、徳川忠長が江に寵愛されているのをみて、次期将軍候補として徳川忠長に接近する者も現れ始めたのです。
この時代は、「長幼の序」(ちょうようのじょ)が大切にされており、長男が家を継ぐのが当たり前。しかし、徳川秀忠には「結城秀康」という兄がおり、その結城秀康を差し置いて将軍となったという経緯があります。家臣達もそのことは知っていたので、徳川忠長が次期将軍になっても不思議ではないと考えるようになっていました。
この雰囲気を感じとり、徳川家光の将来に不安を感じたのが、徳川家光の乳母・福です。福は、伊勢神宮に行くふりをして、駿府城にいる徳川家康に会いに行き、徳川家光を次期将軍にと直訴。その結果、徳川家康は徳川秀忠や江に徳川家光が次期将軍になることをしっかり伝え、徳川家光に対してそのように接するように話しました。
徳川秀忠はその言葉通り、徳川家光を次期将軍として接するようになりましたが、江は徳川忠長を溺愛するあまり、徳川忠長が次期将軍になっても良いと思い続けていたのです。
徳川家光は、徳川家康の命で乳母・福によって育てられました。福は「明智光秀」の家臣「斎藤利三」の娘。徳川家光の乳母になるために、夫と離縁したと伝えられています。
福は、徳川家光が次期将軍としてふさわしい人物になるように、愛情を一身に注ぎました。両親からの愛情を感じたことが少なかった徳川家光も、福を本当の母のように慕います。福が徳川家光を思う気持ちは、徳川家光が将軍になったあとも変わらずに続きます。
徳川家光は幼少期、女性に興味を示さなかったと言われましたが、それを福が心配して、徳川家光が好きそうな女性を次々と連れてきて会わせたのです。福の努力もあって、徳川家光は徐々に女性に興味を示すようになり、多くの側室を取り子どもにも恵まれました。
福の徳川家光に対する愛情の注ぎ方は本当に命がけ。徳川家光が疱瘡(ほうそう:天然痘)にかかったときには、疱瘡治癒祈願のために伊勢神宮に参拝し、徳川家光の疱瘡治癒のためなら自分は一生薬を飲まないと誓ったとのこと。
徳川家光の病が治ったあと、福が病にかかり、徳川家光が薬を飲むように勧めたときですら、その誓いを守るために薬を飲まなかったという逸話があるのです。
徳川家光の弟は、2歳年下の徳川忠長です。両親から溺愛され、利発だったので、次期将軍になると考える大名や家臣も多くいました。
しかし、祖父・徳川家康が、次期将軍は徳川家光だと決め、後継者問題は決着。徳川忠長は元服前に甲府藩主となりました。ところが、この頃から徳川忠長は、問題行動が目立つようになってきたのです。
徳川家光が3代将軍に就任したあと、徳川忠長の言動は横柄に。駿府を拝領したときには、父・徳川秀忠に「100万石をくれるか、大坂城の城主にして欲しい」という嘆願書を送るなど、父・徳川秀忠も呆れるほどになりました。
また、徳川忠長を溺愛した母・江が亡くなると、問題行動はさらにエスカレート。祖父・徳川家康が元服した神聖な浅間神社で「猿狩り」を行なったり、自分が乗っていた駕籠の担ぎ手を取るに足りない理由で殺害したりしたのです。さらには大事な家臣を、火を焚くように命じて火を付けられなかったため、怒って殺害。
弟ということで、徳川家光は数々の問題行動を大目にみていましたが、家臣の殺害には看過できず、徳川家光は徳川忠長に甲府蟄居を命じました。父・徳川秀忠は激怒し徳川忠長を勘当。処分を徳川家光に任せています。
徳川家光は、父・徳川秀忠が存命中は気を遣って、徳川忠長に蟄居以上の処罰は与えませんでしたが、父・徳川秀忠の死後はすぐに改易し、幕命で自刃させました。
徳川家光が将軍となって、行なった政策をご紹介します。これらの政策は200年以上続けられ、幕府の基本政策となりました。
1623年(元和9年)、徳川家光は父・徳川秀忠にしたがって上洛し、征夷大将軍の辞令を受け、3代将軍に就任しました。
しかし、将軍になったあとも実権は父・徳川秀忠が持ち続け、江戸城本丸の徳川家光側の年寄と、西の丸の徳川秀忠側の年寄による合議政治体制が採られていました。
祖父・徳川家康と父・徳川秀忠の関係がそうであったように、将軍である徳川家光よりも隠居して大御所である秀忠の方が、影響力や発言力などすべての点で上でした。そのため、徳川秀忠が死去するまでは徳川家光は最高権力者ではなく、名ばかりの将軍で、積極的に政治にかかわることはしませんでした。
徳川家光が重要な幕府の基本政策を行なうのは、徳川秀忠の死去後となります。
1632年(寛永9年)、父・徳川秀忠が死去すると、徳川家光は幕府の基盤を作る政策を行ないます。
徳川家光はまず、幕府機構の確立に着手。老中・若年寄・奉行・大目付・評定所などの職務や権限を決めたのです。
徳川家康・徳川秀忠の時代は、側近がその役目を担うなど、あいまいになっていた役職を制度化。将軍を最高権力者とする江戸幕府の機構を確立させました。
徳川家光は、江戸幕府による全国支配を盤石なものとするため、大名支配の強化を行ないました。大名支配の強化は徳川家康・徳川秀忠のときから行なっていましたが、徳川家光はそれをさらに強化・発展させたのです。
まず、肥後の「加藤忠広」(かとうただひろ)を改易。加藤家は、加藤忠広の父「加藤清正」(かとうきよまさ)がカリスマ的な存在感で藩内をまとめていましたが、その弊害として藩内の政治機構が不整備のままでした。そのため加藤清正が亡くなると藩内がまとまらなくなり、2回も幕府の裁定を受けることになるのです。それでも藩内が依然まとまらず、徳川家光は加藤家を改易処分にしたのです。
父・徳川秀忠が行なった安芸・福島家と徳川家光が行なった肥後・加藤家の改易で、「関ヶ原の戦い」後わずか30年で、豊臣恩顧の武断派を代表する2家が改易されたことになります。
次に行なったのが、弟・徳川忠長の改易。元々、徳川忠長を改易する理由は十分ありましたが、父・徳川秀忠が生きているうちは気を遣って、改易を行ないませんでした。弟を改易したことにより、幕府の規則を破った大名は、誰であろうと処罰の対象であるということを全国の大名に示したのです。
大名行列
徳川忠長の改易後、もとの領地の大部分は、徳川一門や譜代大名に与えられ、徳川家による大名支配の強化がなされました。
この大名支配の強化の一環として、「参勤交代」の制度化があります。
参勤交代とは、江戸とそれぞれの領地を1年交代で過ごすこと。さらに、正室と嫡子は江戸に常住しなければいけませんでした。
参勤交代の目的は、以下の3つ。
参勤交代は、徳川家康の時代にもありましたが、大名が自発的に行なっていたものでした。徳川秀忠の時代は、武家諸法度で参勤交代について触れていますが、従者の人数を定めただけ。徳川家光は武家諸法度を改定して、参勤交代を制度化したのです。
徳川家光は、鎖国政策を強化しましたが、鎖国政策とキリスト教の禁止には深い関係がありました。鎖国した理由は2つと言われています。
ひとつは、スペインやポルトガルが領土的野心をもっていたこと。この当時、スペインやポルトガルは世界各地に植民地を持っていました。貿易を足掛かりに植民地にされてはいけないと考えたからです。
もうひとつが、キリスト教の禁止です。キリスト教は神の前では平等という考えなので、主従関係を基盤として身分的階層制がある、幕府の封建制度とは合致しませんでした。
豊臣秀吉はキリスト教を禁止していますが、南蛮貿易の利益を重視して鎖国は行なっていません。徳川家康も最初は貿易のためキリスト教を禁止しませんでしたが、オランダが「キリスト教布教を伴わない貿易もできる」と言ってきたので、キリスト教を保護する必要はなくなり、キリスト教禁止政策が採られたのです。
しかし、外国と貿易をしているとどうしてもキリスト教が国内に入ってきます。そのために段階的に鎖国政策が強化されていったのです。キリスト教禁止の政策は、父・徳川秀忠のときまでに完了。徳川家光は、鎖国することによってキリスト教が広まる機会を減らしました。
徳川家光が行なった鎖国政策は、長崎の出島以外では外国との貿易を禁止。貿易国はオランダ、明、朝鮮に限定しました。さらに、日本人が海外に行くことも禁止したのです。
鎖国政策を段階的に強化していた徳川家光でしたが、更なる強化が必要であると決断させる事件が起こりました。それが「島原の乱」です。
天草四郎
島原藩主「松倉勝家」は、農民の生活が成り立たないほど多くの年貢を取り立て、納税できない者には厳しい処罰を与えていました。
また、この地域はキリシタンが多く、幕府がキリスト教の禁止政策を強化したことで弾圧を受けたのです。
1637年(寛永14年)、代官と農民の衝突から、今までの不満が爆発して一揆が起きました。この一揆は、農民やキリシタンばかりではなく、浪人なども数多く参加。
全員キリシタンという訳ではなかったのにもかかわらず、松倉勝家がキリシタンの暴動と報告したことや、幕府がこれをキリスト教禁止政策の口実に利用したこと、この一揆を率いていたのがキリシタン「天草四郎」だったことから、キリシタンの暴動というイメージが付いたと言えます。
この乱は約4ヵ月で鎮圧されましたが、鎖国政策にかなりの影響を与えました。キリスト教の宣教師はポルトガル人が多かったので、ポルトガル人との貿易をオランダ人との貿易で補えるか確認して、ポルトガル船の来航を禁止しました。
日光東照宮
幕府機構の確立は、将軍を頂点とする幕府組織の基盤を作ったとして評価されています。
それまであいまいだった職務や職権を規定したことで幕府内の職制を整備しました。
また、参勤交代の制度化など、大名支配の強化を行なったことで、まだ不安定だった幕府による全国支配を盤石なものにして、約260年続く江戸幕府の基礎を築いたのです。
鎖国政策とキリスト教禁止政策は、日本が植民地化されることへの予防や独自の文化の確立という点では貢献したと言えるかもしれません。
しかし、外国人の往来を制限したことによる科学・医療・文化・技術などのあらゆる分野での遅れは、明治初期にそのつけを払わなければいけなくなった要因になりました。
大規模な上洛・日光東照宮の度重なる改築は出費を増大させ、江戸幕府の財政破綻のきっかけを作ったとも言われています。
徳川家光が行なった多くの政策は、彼の周りに優秀な家臣がいたからできたことですが、それらの政策が、幕藩体制を確立させたことには違いありません。
徳川家康
徳川家光は祖父・徳川家康を尊敬していました。尊敬という言葉では表すことができないほどで、神を崇めるように徳川家康を崇拝。「二世権現、二世将軍」と書いた紙をお守り袋に入れ、いつも持ち歩いていたと言われています。
徳川家光が徳川家康を祀っている日光東照宮を何度も改築し、10回も参拝していることからもよく分かるのです。
徳川家光が徳川家康をこれほど崇拝したのは、徳川忠長との後継者争いが起きたときに、徳川家康が徳川家光を将軍に決めたことへの感謝からだと言われています。
また、徳川家光は幼少期は病弱だったものの、武芸に秀で、「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)に師事して柳生新陰流の免許皆伝を受けました。
徳川家光は若いころ男色家であったことはよく知られていますが、女装癖があったとも言われています。
約260年続く、江戸幕府の基礎を築いた徳川家光の政策や評価・人物像をご説明しました。徳川家康から徳川家光までの時代が幕府の初期と言える時代で、このあと文治政治へと移り変わっていきます。
徳川家光の行なった政策には賛否両論ありますが、幕府が長期間存続する大きな要因になったことは間違いありません。