東海・北陸地方の戦国大名

豊臣家の歴史と武具(刀剣・甲冑)

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下層階級から戦国大名へ成り上がり、さらに朝廷の最高職・大政大臣まで登りつめた「豊臣秀吉」を代表とする豊臣家。しかし、豊臣秀吉の死後は衰退の一途を辿り、2代「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の代に滅びてしまいます。そこで今回は、豊臣秀吉の出世の道のりから豊臣家の滅亡までの歴史をはじめ、豊臣家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)や家臣をご紹介します。

豊臣家の来歴

豊臣家の家紋「五七桐」

豊臣家の家紋「五七桐」

豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は元々、「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)と名乗っており、尾張国中村(おわりのくになかむら:現在の愛知県名古屋市)で生まれました。

父「木下弥右衛門」(きのしたやえもん)は足軽または農民と伝えられ、下層階級だったため記録が多くはありません。

豊臣秀吉が家を出たのは1552年(天文21年)15歳の頃。「今川義元」(いまがわよしもと)の家臣「松下長則」(まつしたながのり)に仕えましたが、松下長則のもとを2年ほどで去ってしまいます。

そして、1554年(天文23年)に織田家に仕官。草履取りとして「冬に草履を懐で温めた」という有名な逸話が残るなど、様々な気転を利かせ徐々に出世していきました。

歴史上、類稀な出世街道を歩んだ豊臣秀吉。自身の才能もさることながら、有能な家臣の働きもあり、与えられたチャンスを物にして天下を統一します。しかし、どの大名も悩みを抱えた後継者問題もあり豊臣家は2代で滅亡。一方で、様々な逸話が残るなど、後世でも話題の絶えない大名家として語り継がれています。

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豊臣秀吉の出世街道

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1564年(永禄7年)の美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)を治めていた斎藤家との戦で、豊臣秀吉は織田信長に認められるようになります。

斎藤家の傘下であった「坪内利定」(つぼうちとしさだ)や「大沢次郎左衛門」(おおさわじろうざえもん)らを調略(味方に引き入れる工作)に成功。その後も六角家との戦で武功を立てるなど、一軍の大将にまで登りつめます。

出世の極め付けは、浅井家・朝倉家との戦。織田軍が両軍の挟み撃ちに遭った際には、「明智光秀」(あけちみつひで)らと「殿」(しんがり:退却する軍列の最後尾で、敵の進撃を防ぐ部隊)を務める他、夜のうちに小谷城滋賀県長浜市)の重要拠点を攻略するなど大功を挙げました。そののち、織田家の重鎮「丹羽長秀」(にわながひで)と「柴田勝家」(しばたかついえ)から一字ずつを貰い、「羽柴秀吉」(はしばひでよし)と改名。そして、近江三郡(現在の滋賀県長浜市)を与えられ、長浜城(滋賀県長浜市)を築城しました。

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秀吉の天下取り

織田信長の信頼を得た豊臣秀吉は、そのあとも上杉家や松永家攻めを任され、織田信長政権下において最上位格の地位・軍団長に就任しました。その後、中国地方を治めていた毛利家討伐の大将を任されます。

しかし、毛利家攻略まであと一歩の段階で本能寺の変が起こり、織田信長は明智光秀に襲われ自害したと言われています。このとき、豊臣秀吉はすぐに毛利家と和睦を結び、明智光秀を討つために京都へ戻って行きます。約200kmを10日間で走り切り、準備の整っていない明智軍と戦って勝利を収めます。

織田信長の仇を討った豊臣秀吉は家臣の中でも発言力を強め、織田家の後継者や領土配分を決める清須会議で提案した内容の大半を通しました。その後、清須会議で対立した柴田家を、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで滅ぼし、織田家を束ねる立場になりました。その後、「徳川家康」とも戦を繰り広げますが停戦し、豊臣家の地盤を強固にしていきます。

そして反勢力を鎮圧するための軍を動員。1586年(天正14年)には「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から豊臣の姓を賜り、大政大臣に就任します。それから5年で全国を平定し、天下統一を果たしました。

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豊臣家の滅亡

豊臣家は子どもが生まれるも早世が続き、豊臣秀吉が57歳のときに生まれた三男「豊臣秀頼」が豊臣秀吉死後、5歳の若さで家督を継承。豊臣秀吉は死ぬ間際に法を整えたり、政務を行なう五大老や五奉行を導入したりと、豊臣秀頼を補佐する体制を作りました。

しかし、次第に大老の徳川家康が力を強め、政権を握られることを「石田三成」らは恐れました。そして、徳川家康が上杉討伐の軍を会津(現在の福島県西部)に向けたのを機に、石田三成らが「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将に挙兵。徳川家康は西へ踵を返し、関ヶ原の戦いが起こりました。この戦で勝利した徳川家康の豊臣政権に対する影響力が増します。

そして豊臣秀頼と対立するようになり大坂冬の陣・夏の陣が勃発。2度に亘り行なわれた大坂の陣で豊臣秀頼は敗北し、落城する大坂城と共に自害。ここに豊臣家は滅亡しました。

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豊臣家ゆかりの刀剣・甲冑

豊臣家ゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)などをご紹介します。

刀剣

鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)
現在残っている鯰尾藤四郎は脇差ですが、もとは鎌倉時代中期に活躍した、刀工「吉光」(通称 粟田口藤四郎)が制作した薙刀であったと言われています。豊臣家が所有する以前は織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が所有していましたが、裏切った「岡田重孝」(おかだしげたか)を「土方雄久」(ひじかたかつひさ)に斬らせるため贈呈。その後、土方雄久が天下を治めた豊臣秀吉へ仕えた際に、豊臣秀吉へと贈りました。

「大坂夏の陣」で、大坂城と共に消失したため、江戸幕府の専属鍛冶師であった「越前康継」(えちぜんやすつぐ)に、脇差に焼き直しさせたと言われています。ナマズの尾のふっくらした姿に似ていることから、この名が付けられたとも言われ、現在は徳川美術館に収蔵されています。

鯰尾藤四郎

鯰尾藤四郎

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
吉光 重要美術品 38.5 徳川美術館
一期一振(いちごひとふり)
一期一振は、鯰尾藤四郎(まなずおとうしろう)と同様に吉光が制作。吉光が制作した1振だけの太刀と言うのが、名前の由来です。元々朝倉家が所有していましたが、朝倉家の滅亡後、毛利家へ渡り、毛利家が豊臣秀吉に献上。大坂夏の陣にて大坂城と共に一期一振も焼失となりましたが、刀工「越前康継」が打ち直しました。

現在は、天皇家に献上された御物として、宮内庁で管理されています。

一期一振

一期一振

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
吉光 御物 68.8 豊臣家→
徳川家→
天皇家→御物

甲冑

烏帽子形桐紋兜(えぼしなりきりもんかぶと)
烏帽子形桐紋兜は、豊後日出藩主の木下家に伝来した、豊臣秀吉所用と伝えられるです。鉢は鉄錆地烏帽子形(てつさびじえぼしなり)で、中央に銀覆輪(ぎんぷくりん)が施されています。

側面には桐を大胆にあしらい、側面以外にも桐紋を配しています。潤沢な財力と技術を駆使した、泰平の世の中ならではの一頭だと言われています。

現在は、東京国立博物館東京都台東区)に収蔵されています。

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馬蘭後立付兜(ばりんうしろだてつきかぶと)
豊臣秀吉の兜

豊臣秀吉の兜

馬蘭後立付兜は、豊臣秀吉所用と伝えられる兜です。

馬蘭の兜は桃山時代に流行しました。黒漆塗の唐冠形の兜鉢に、馬蘭の葉を模した29枚の薄板を後立に付けています。

現在は、大阪城天守閣(大阪府大阪市)に収蔵されています。

銀伊予札白糸縅胴丸具足(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)
銀伊予札白糸縅胴丸具足は、「伊達政宗」が豊臣秀吉から拝領した具足で、桃山様式をよく留めている1領だと言われています。きわめて軽量に作られており、小柄な豊臣秀吉の着用にふさわしい具足です。

兜は六枚張椎実形(ろくまいはりきりみなり)で、鉢全体に熊毛を植えているのが特徴です。籠手などは銀箔仕立てで、落ち着きのある雰囲気となっています。現在は、仙台市博物館宮城県仙台市)に収蔵されています。

金銀小札色々糸縅(きんぎんこざねいろいろいとおどし)
金銀小札色々糸縅

金銀小札色々糸縅

金銀小札色々糸縅は、豊臣秀吉が所用したと伝えられている甲冑(鎧兜)です。

黄金好きな豊臣秀吉は派手な甲冑(鎧兜)を好み、金や銀の小札を散りばめたこの甲冑(鎧兜)を作ったと言われています。

現在は妙法院京都府京都市)に収蔵されています。

色々縅二枚胴具足(いろいろおどしにまいどうぐそく)
色々縅二枚胴具足

色々縅二枚胴具足

色々縅二枚胴具足は、豊臣秀吉所用と伝えられている甲冑(鎧兜)です。

豊臣秀吉の正室「ねね」の養子となった「木下利次」(きのしたとしつぐ)を祖とする旗本木下家伝来の具足。

木下家家紋・沢潟紋(おもだかもん)や日足紋(にっそくもん)を付けた鎖佩楯(くさりはいだて)や鎖籠手(くさりこて)、銀箔押金具でかたどった桐紋付の・母衣(ほろ)などが特徴です。

現在は、名古屋市秀吉清正記念館(愛知県名古屋市)に収蔵されています。

「豊臣秀吉 甲冑写し」のYouTube動画

豊臣秀吉の甲冑の写しを
YouTube動画でご覧頂けます。

豊臣秀吉 甲冑写し

書状

豊臣秀吉 朱印状(愛宕山 福寿院宛)
愛宕山 福寿院より豊臣秀吉に贈られた、正月の祝い品への礼状です。戦国時代から安土桃山時代にかけての医者「施薬院全宗」(せいやくいんぜんそう)を使者として行かせて、話をさせるという内容。

現在は刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。

豊臣秀吉を支えた名軍師「二兵衛」(にへい)

竹中半兵衛(たけなかはんべえ)/竹中重治(たけなかしげはる)
竹中半兵衛

竹中半兵衛

元々は斎藤家の家臣であった竹中半兵衛。織田信長が美濃国へ攻めてきた際に、策を張り巡らせ撃退します。

しかし、当主「斎藤龍興」(さいとうたつおき)の言動や性格に不満を抱いた竹中半兵衛は内乱を起こし、10数名で斎藤家居城「稲葉山城」(岐阜県岐阜市)を占領。その後、斎藤龍興に稲葉山城を返し、自らは「浅井長政」へ身を寄せました。

織田信長は斎藤家を滅ぼしたのち、竹中半兵衛を家臣に迎えるため、何度も口説こうとしますが竹中半兵衛は拒否。そこで、豊臣秀吉が三顧の礼(目上の者が格下に自ら3度出向くほど丁重に誘うこと)を尽くし、軍師として招いた俗説がありますが、織田信長が金銀などの贈り物を与え家臣にし、豊臣秀吉の軍師として仕えるように計らったとも言われています。

1577年(天正5年)の播磨攻めでは、のちに二兵衛や両兵衛と称される「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と共に活躍しました。しかし病気を患っていた竹中半兵衛は、途中で離脱し治療に専念します。療養むなしく死期を悟った竹中半兵衛は戦場で死ぬことを望み、1579年(天正7年)三木合戦のときに36歳の若さで陣中にて没しました。

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黒田官兵衛/黒田孝高(くろだよしたか)/黒田如水(くろだじょすい)
黒田官兵衛

黒田官兵衛

西播磨(にしはりま:現在の兵庫県西部)の大名「小寺家」の傘下であった黒田家。黒田官兵衛の父「黒田職隆」(くろだもとたか)は小寺家から重宝され、家老筆頭として姫路城(兵庫県姫路市)の守備を任されました。1567年(永禄10年)頃、黒田官兵衛も家督と家老を継承。姫路城の守備も引き継ぎました。

そんな折、1569年(永禄12年)に赤松家が大軍を率いて2度に渡り姫路城へ侵攻。黒田軍は少数しかいませんでしたが、籠城しつつも奇襲攻撃を仕掛け、撃退することに成功しました。この頃、織田信長を評価していた黒田官兵衛は、天下の情勢も鑑みて、主君の小寺家と共に織田家の傘下へ加わりました。

一方で豊臣秀吉も黒田官兵衛の実力を評価しており、軍師として引き抜きます。そののち豊臣秀吉の片腕として数々の戦で武功を挙げるなど、天下取りになくてはならない存在でした。

黒田官兵衛のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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