福岡市博物館には、織田信長が愛用していた日本刀、国宝 刀 名物「圧切長谷部」が収蔵されています。建武期に山城国で活動していた刀工「長谷部国重」の作とされているこの日本刀には、こんな逸話があります。
あるとき茶坊主「観内」(かんない)が信長の前で粗相。手打ちにされることを恐れた観内は、とっさに台所の御膳棚の下に隠れました。これを見た信長は、手に持った日本刀を棚下に差し入れ「圧し切」ってしまったのです。振り下ろさずとも茶坊主を手打ちにできたことから、この日本刀に「圧切」の異名が付きました。黒田家に渡った経緯については諸説ありますが、そのひとつが信長から如水に与えられたと言うものです。
福岡市博物館では、圧切長谷部の他に、もう1振り、国宝 太刀 名物「日光一文字」を収蔵しています。無銘のため、作者は明らかではありませんが、「備前福岡一文字」派の作品とされるこの太刀は、「北条早雲」が日光権現(現在の日光二荒山)の宝刀を申し受け、家宝にした物です。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原城攻めの際、如水が秀吉と北条氏の講和を斡旋。その働きの礼として、北条氏直から日光一文字が如水に贈られました。そのとき、この太刀を入れてあった葡萄模様蒔絵を施された黒漆塗りの刀箱は、現在まで伝来。日光一文字と共に、国宝に指定されました。
日光一文字は、拵(こしらえ)が現存せず、刀身と収納するための刀箱が残っているだけの状態。しかし、元々は圧切長谷部と同じ拵をまとっていました。「黒田忠之」が江戸時代初期に山城国で活動していた刀工「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)に拵を依頼するにあたり、圧切長谷部と少しも違わないように書状で注文していたのです。現存する圧切長谷部の拵も書状に記載されている物と異なっているため、お揃いの拵がどのような物だったかは分かりません。しかし、圧切長谷部と日光一文字という、黒田家にゆかりのある2振りの国宝が同じ拵をまとっていた時期があるという事実は、非常に興味深いものです。