参戦した東軍武将

東軍 細川忠興

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「細川忠興」(ほそかわただおき)は、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕えた戦国武将。「明智光秀」(あけちみつひで)の娘「細川ガラシャ」(ほそかわがらしゃ)を妻に迎え、溺愛していたことで知られています。
また、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる「東軍」に与して、136もの首級を挙げた猛将である一方で、晩年は茶人としても名を馳せました。

ピンチを乗り越え出世!細川忠興と関ヶ原の戦い

足利将軍家を離れ織田家へ

細川忠興

細川忠興

細川忠興」(ほそかわただおき)は、1563年(永禄6年)に京都で生まれました。

父の「細川藤孝/細川幽斎」(ほそかわふじたか/ほそかわゆうさい)が仕えていた「足利義輝」(あしかがよしてる)の命で、細川奥州家11代「細川輝経」(ほそかわてるつね)の養子になります。

しかし、これは「細川家」(ほそかわけ)の系譜上の話であり、実際には細川藤孝のもとで成長し、行動を共にしていました。

1565年(永禄8年)細川藤孝は、「永禄の変」(えいろくのへん)で足利義輝が殺害されたことをきっかけに足利将軍家を去り、「織田信長」(おだのぶなが)に仕えます。細川忠興もそれにしたがい、1573年(天正元年)から織田信長の嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)に仕え始めました。

1577年(天正5年)、細川忠興は「紀州攻め」(きしゅうぜめ)に従軍し、15歳で初陣を飾ります。同年に起きた「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい:織田家[おだけ]の離反者を攻めた合戦)では、細川藤孝や「明智光秀」(あけちみつひで)と共に織田軍として活躍し、織田信長から直筆の感状が与えられました。

翌年の1578年(天正6年)細川忠興は、織田信長の仲介で、父の僚友である明智光秀の娘「玉」(たま:珠とも書かれる)のちの「細川ガラシャ」(ほそかわがらしゃ)と結婚。細川忠興と玉の結婚式は、当時細川藤孝の居城であった「勝竜寺城」(しょうりゅうじじょう)で行なわれ、2人は新婚時代を勝竜寺城で過ごしたと言われています。

細川ガラシャ YouTube動画

細川ガラシャ

転機となった「本能寺の変」

本能寺の変

本能寺の変

1582年(天正10年)、織田信長と関係を深めていた細川家にとって、衝撃的な事件が起こります。

玉の父である明智光秀が謀反を起こし、織田信長を襲撃する「本能寺の変」(ほんのうじのへん)によって織田信長と織田信忠が亡くなり、織田政権は崩壊。

謀反のあと、明智光秀は細川家に協力を求めましたが、細川藤孝は僚友との縁を切るため、即座に剃髪して出家します。

そして、明智光秀の娘婿である細川忠興は、玉を守るために丹後国(たんごのくに:現在の京都府北部)「味土野女城」(みどのめじょう)に幽閉し、父子共に「明智家」(あけちけ)と断絶する意思を表明しました。

本能寺の変からわずか11日後、明智光秀は「羽柴秀吉」(はしばひでよし)のちの「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)との「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)に敗れ、明智家は滅亡。

山崎の戦いのあと、細川藤孝が隠居したため、細川忠興は丹後国の加佐郡(かさぐん)と与謝郡(よさぐん)を譲り受けて「宮津城」(みやづじょう)に移り住みました。そののち、織田信長の後継者として台頭した豊臣秀吉に接近。同年、山崎の戦いで活躍した功績を認められ、豊臣秀吉から重用されるようになります。

細川忠興にとって関ヶ原の戦いは「敵討ち」でもあった

1584年(天正12年)、細川忠興は豊臣秀吉にしたがって「小牧・長久手の戦い」(こまきながくてのたたかい)に参陣。この頃から「豊臣秀吉子飼いの七将」のひとりとして数えられるようになり、そのあとも豊臣軍として「九州征伐」(きゅうしゅうせいばつ)や「小田原征伐」(おだわらせいばつ)など、天下統一に向けた合戦に従軍しました。

1595年(文禄4年)細川忠興と親交のあった「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ:豊臣秀吉の甥)が謀反の疑いで切腹に追い込まれる事件が起きます。豊臣政権内が混乱に陥るなか、豊臣秀次に金を借りていた細川忠興は、豊臣秀吉の側近である「石田三成」(いしだみつなり)から嫌疑を掛けられました。

このとき、騒動を鎮めるために細川忠興と豊臣方の間を取り持ったのが「徳川家康」(とくがわいえやす)。細川忠興は、危機を救ってくれた徳川家康に対して信頼を寄せ、親交を深めるようになります。

豊臣秀吉の死後、細川忠興は「武断派」(ぶだんは:最前線で戦う諸将)として「文治派」(ぶんちは:政務を行なう武将)の石田三成と対立したことで、さらに徳川家康に接近し、1599年(慶長4年)「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)のきっかけとなる「石田三成襲撃事件」(いしだみつなりしゅうげきじけん)を起こします。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる「東軍」に与することを早々に表明。この表明は、豊臣家恩顧の大名らの去就に影響を与えたと言われています。

玉(細川ガラシャ)

玉(細川ガラシャ)

しかし、細川忠興は徳川家康方に就いたことで、愛する妻の玉を失ってしまうのです。

関ヶ原の戦い直前、石田三成は細川忠興が大坂の屋敷を留守にしている隙を見て、玉を人質に取る作戦を決行。

ところが、玉は人質に取られることを拒絶し、屋敷に火を放ち自害。

「西軍」の人質作戦は失敗に終わり、知らせを受けた細川忠興は、玉の敵討ちという大義を果たすために関ヶ原へと進軍します。

関ヶ原の戦い当日、細川忠興は「黒田長政」(くろだながまさ)と共に東軍右翼隊として参陣。東軍の将「田中吉政」(たなかよしまさ)隊との交戦で消耗していた石田三成本隊に迫って追い討ちをかけ、激戦の末に136もの首級を挙げました。

関ヶ原の戦いが終わって

関ヶ原の戦いのあと、細川忠興は丹後国12万石から豊前国中津(ぶぜんのくになかつ:現在の大分県中津市)33万9,000石に加増・転封。そののち、中津から小倉へ拠点を移すために領内整備を進め、1602年(慶長7年)に「小倉城」(こくらじょう)の大規模な改築を開始。約7年の歳月を費やして城郭を完成させ、「小倉藩」(こくらはん)の初代藩主になりました。

1615年(元和元年)、細川忠興は徳川家康にしたがって「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)に参戦。このとき、細川家を出奔していた次男「細川興秋」(ほそかわおきあき)は豊臣方で参戦していたため、父子で敵対することになりましたが、徳川軍の勝利後、細川忠興は豊臣方に与した細川興秋を助命しませんでした。一説では、徳川家康から許しを得たにもかかわらず、自ら細川興秋に切腹を命じたと言われています。

1620年(元和6年)細川忠興は、三男「細川忠利」(ほそかわただとし)に家督を譲ったあと、出家して「三斎宗立」(さんさいそうりつ)に改名。翌年の1621年(元和7年)には中津へ戻り、「中津城」(なかつじょう)や城下町の整備を行ないました。

茶人としての細川忠興

武家茶道

武家茶道

1632年(寛永9年)改易された「加藤清正」(かとうきよまさ)の嫡男「加藤忠弘」(かとうただひろ)に代わり、細川忠利が肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)54万石へ加増・転封し、「熊本藩」(くまもとはん)の初代藩主になると、細川忠興は9万5,000石を譲り受け、隠居領として肥後国「八代城」(やつしろじょう)へ移ります。

そのあとは、八代城の北の丸に茶庭を築き、茶道を嗜みました。晩年は、「細川三斎」(ほそかわさんさい)として「千利休」(せんのりきゅう)の教えを多くの茶人に広め、茶道界に大きな影響を与えたと言います。

東軍 細川忠興

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