武将・歴史人
加藤清正
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加藤清正

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「加藤清正」ゆかりの日本刀(刀剣)は、「加藤国広」、「同田貫正国」(どうたぬきまさくに)と国宝「日光助真」(にっこうすけざね)の3振。「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)や「朝鮮出兵」、「関ヶ原の戦い」などで活躍した清正とどのような関係があったのでしょうか? 清正の歴史とともにご紹介します。

豊臣秀吉と親戚だった加藤清正

加藤清正

加藤清正

1562年(永禄5年)6月24日、愛知県名古屋市中村区で生まれた加藤清正。清正の母親は、「羽柴秀吉」(豊臣秀吉)の生母(大政所:おおまんどころ)と従姉妹でした。

その縁から1573年(天正元年)近江・長浜の城主となった羽柴秀吉の小姓として仕えたのです。このときの清正は12歳。

それからというもの、熊本城の改築や農地改革、賤ヶ岳の戦い、朝鮮出兵など、築城の名手・大名として、また武将として、マルチに活躍しました。

刀剣/加藤国広

加藤国広は、清正が所持。1617年(元和3年)に、娘の八十姫が紀州の「徳川頼宣」へ正室として嫁いだ際、持たせたと言われる日本刀(刀剣)です。

1716年(享保元年)、紀州藩5代藩主だった「徳川吉宗」が8代将軍になった際に、将軍家へ持参。その後、創立された御三卿の田安徳川家へ与えました。

昭和初期に売りに出され、当時の政治家・山本悌二郎(やまもとていじろう)が購入後、三井総領家11代・三井高公(みついたかきみ)が購入。

加藤国広

ランク 刃長 所蔵・伝来
国広 重要文化財 2尺2寸9分(69.4cm) 三井記念美術館

すべての始まりは賤ヶ岳の戦い

豊臣秀吉

豊臣秀吉

清正が最初に上げた大きな武功は、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで敵将のひとりを討伐したこと。「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして、3千石の所領を与えられました。

その後の1586年(天正14年)、豊臣秀吉の天下統一を目的とした九州征伐で活躍。19万5千石の所領を与えられると共に、熊本城の初代城主として大出世を果たしたのです。

ここで出会った日本刀(刀剣)が同田貫正国。熊本城の常備刀となりました。

また、清正は、朝鮮出兵の文禄・慶長の役で7年もの間、明の連合軍と戦い続けましたが、清正軍を支えた日本刀(刀剣)が同田貫。しかし、秀吉が亡くなってしまい、朝鮮出兵は幕を閉じました。

刀剣/同田貫正国

同田貫正国(どうだぬきまさくに)は、安土桃山時代に九州肥後国菊池の同田貫一派(銘は九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫など)の刀工が打った日本刀(刀剣)です。「同田貫」は地名で、「正国」は刀工の名前。正国の名は、加藤清正から「正」の1字を授かって付けられました。なお、同田貫正国は、打った日本刀(刀剣)の総称で、特定の1振を指した名称ではありません。

清正とのつながりは、清正が初代熊本城城主を務めたとき。同田貫一派がお抱え刀工になり、熊本城の常備刀になったと伝えられています。

清正が保護した理由は、同田貫一派が打った日本刀(刀剣)は、肥後熊本人の気質が出ており、質実剛健で頑丈な実用刀であったことから。外見には装飾が無く質素で、武器本来の性能を追求した剛刀だったのです。そのため現代では、美術性に乏しく鑑賞価値が低いため、高価ですが美術品としての評価は高くありません。

歴史上において有名な同田貫正国のエピソードは、徳川家康が武田軍との戦いにおいて高天神城(たかてんじんじょう)攻略からの退却中、武田軍に一言坂(ひとことざか)で道を遮られたときに起こった出来事です。

それは、家康を先導していた「永田正吉」が武田軍に向かって突進し、鍋のような兜をかぶっていた敵を兜もろとも切り伏せたこと。このときに正吉が所持していたのは「九州肥後同田貫藤原正国」の銘があった日本刀(刀剣)でした。家康はこの際、正吉が持っていた日本刀(刀剣)を「鍋割り」と名付けたと言われています。

なお、同田貫は、漫画「子連れ狼」やテレビドラマの「必殺仕事人」など、主人公らの愛刀として登場していたこともあります。

東軍(家康方)に付いた関ヶ原の戦い

秀吉の死後、1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦い。清正は西軍(豊臣方)ではなく、東軍(家康方)に付きました。

また、清正は関ヶ原に駆け付けたのではなく、九州肥後で活躍。この功績が認められ、52万石の大名となったのです。

1611年(慶長16年)に二条城で会見した徳川家康と豊臣秀頼。この場を取り持ったのも清正ですが、会見が終了してから帰国後、発病。そのまま熊本で病死してしまい、武将として、築城の名手として、そして政治家としての人生を終えました。

刀剣/日光助真

「助真」は、鎌倉中期の備前国福岡一文字派の名工。日光助真は、助真作成の太刀の中では、最高傑作と言われています。

この太刀は、清正が豊臣秀吉の没後に徳川家康に献上。

家康は、もとから付いていた拵(こしらえ)を自身の好みに合わせて作らせました。これが拵の手本と言われる有名な「助真拵」です。

家康の死後は「日光東照宮」に収納。神殿深くに祭られているため、「日光助真」と名付けられました。
1910年(明治43年)4月20日に旧国宝に指定、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定。日光東照宮が宝物として所蔵しています。

日光助真

日光助真

ランク 刃長 所蔵・伝来
助真 国宝 2尺3寸9分(72.4cm) 日光東照宮
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