「加藤清正」ゆかりの刀剣は、「加藤国広」、「同田貫正国」(どうたぬきまさくに)と国宝「日光助真」(にっこうすけざね)の3振。「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)や「朝鮮出兵」、「関ヶ原の戦い」などで活躍した清正とどのような関係があったのでしょうか? 清正の歴史とともにご紹介します。
豊臣秀吉
清正が最初に上げた大きな武功は、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで敵将のひとりを討伐したこと。「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして、3千石の所領を与えられました。
その後の1586年(天正14年)、豊臣秀吉の天下統一を目的とした九州征伐で活躍。19万5千石の所領を与えられると共に、熊本城の初代城主として大出世を果たしたのです。
ここで出会った日本刀が同田貫正国。熊本城の常備刀となりました。
また、清正は、朝鮮出兵の文禄・慶長の役で7年もの間、明の連合軍と戦い続けましたが、清正軍を支えた刀が同田貫。しかし、秀吉が亡くなってしまい、朝鮮出兵は幕を閉じました。
同田貫正国(どうだぬきまさくに)は、安土桃山時代に九州肥後国菊池の同田貫一派(銘は九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫など)の刀工が打った刀剣です。「同田貫」は地名で、「正国」は刀工の名前。正国の名は、加藤清正から「正」の1字を授かって付けられました。なお、同田貫正国は、打った刀剣の総称で、特定の1振を指した名称ではありません。
清正とのつながりは、清正が初代熊本城城主を務めたとき。同田貫一派がお抱え刀工になり、熊本城の常備刀になったと伝えられています。
清正が保護した理由は、同田貫一派が打った刀剣は、肥後熊本人の気質が出ており、質実剛健で頑丈な実用刀であったことから。外見には装飾が無く質素で、武器本来の性能を追求した剛刀だったのです。そのため現代では、美術性に乏しく鑑賞価値が低いため、高価ですが美術品としての評価は高くありません。
歴史上において有名な同田貫正国のエピソードは、徳川家康が武田軍との戦いにおいて高天神城(たかてんじんじょう)攻略からの退却中、武田軍に一言坂(ひとことざか)で道を遮られたときに起こった出来事です。
それは、家康を先導していた「永田正吉」が武田軍に向かって突進し、鍋のような兜をかぶっていた敵を兜もろとも切り伏せたこと。このときに正吉が所持していたのは「九州肥後同田貫藤原正国」の銘があった日本刀でした。家康はこの際、正吉が持っていた刀を「鍋割り」と名付けたと言われています。
なお、同田貫は、漫画「子連れ狼」やテレビドラマの「必殺仕事人」など、主人公らの愛刀として登場していたこともあります。
秀吉の死後、1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦い。清正は西軍(豊臣方)ではなく、東軍(家康方)に付きました。
また、清正は関ヶ原に駆け付けたのではなく、九州肥後で活躍。この功績が認められ、52万石の大名となったのです。
1611年(慶長16年)に二条城で会見した徳川家康と豊臣秀頼。この場を取り持ったのも清正ですが、会見が終了してから帰国後、発病。そのまま熊本で病死してしまい、武将として、築城の名手として、そして政治家としての人生を終えました。
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