戦国時代の姫・女武将一覧

綾御前(仙桃[洞]院)

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「上杉謙信」の異母姉であった「綾御前」(あやごぜん)は、上杉家の将来を大きく変えていくこととなった重要人物です。政略結婚や上杉謙信亡きあとの後継者争いなど、上杉家の発展や存続のために、その力を注いでいたと伝えられています。上杉家のために生きたとも言える綾御前は、果たしてどのような人物だったのでしょうか。そこで今回は、綾御前に焦点を当てて、彼女の歴史や生涯について解説します。

上杉謙信の異母姉である綾御前の生涯

綾御前の出生

綾御前(仙桃[洞]院)

綾御前(仙桃[洞]院)

「綾御前」(あやごぜん)は、越後国(えちごのくに:現在の佐渡島を除く新潟県)にて、戦国時代から江戸時代にかけて生きたと伝えられる女性です。

父親は戦国大名として有名な「長尾為景」(ながおためかげ)であり、母親は上条上杉氏の娘であったと言われています。

綾御前は夫であった「長尾政景」(ながおまさかげ)の没後「仙桃院/仙洞院」(せんとういん)と号しました。

綾御前の出生年については、1524年(大永4年)とする説と、1528年(大永8年)とする説があります。

綾御前にとって「長尾景虎」(ながおかげとら)のちの「上杉謙信」は異母弟であり、兄には「長尾晴景」(ながおはるかげ)がいました。

綾御前と上杉謙信の父親である長尾為景とは

長尾為景は「長尾氏」の本家筋に属し、越後国の守護代を務めていた戦国大名です。長尾氏は「上杉氏」の被官として、関東管領(かんとうかんれい:京都の室町幕府が、関東の政治を総轄、または管理させるために鎌倉に置いた役職)や越後守護代を、代々務めていました。そんな背景があったからか、関東だけでなく越後にも、長尾氏の血族が多く居たと言われています。

長尾為景は、2人の主君を殺してしまったという逸話の持ち主です。元来、長尾氏は上杉氏の現地代官として仕えていました。しかし、長尾氏の上司でもあった上杉氏とは、長尾為景が生まれる以前から対立を繰り返していたのです。

そのため、長尾為景がわずか18歳で越後守護代に選ばれたことに対して、越後守護、つまり長尾為景が仕えることになる「上杉房能」(うえすぎふさよし)は不満を感じます。そして、もともと2人は相性が悪かったこともあり、上杉房能は長尾為景を殺害しようと目論んだのです。

しかし、1507年(永正4年)に起こった上杉房能との対立において、長尾為景が勝利を収め、逆に上杉房能を討伐します。そして、1513年(永正10年)には、当時の主君であった「上杉顕定」(うえすぎあきさだ)を殺害。長尾為景は、2人の主君を没することにより、越後一国を支配しようと動いていったのです。

綾御前によって和睦が成立

越後国の情勢を安定させるため、長尾為景は自身の周囲を鎮圧していく必要がありました。しかし、長尾為景は上田長尾家の6代当主「長尾房長」(ながおふさなが)と仲が悪かったとされています。

それは関東官僚であった上杉顕定が、越後を侵略しようと動いたときに、長尾房長が上杉顕定と手を組み、長尾為景に勝利したことが理由であると考えられているのです。長尾為景が生きていた時代は豪族との内乱が多く、鎮圧するのに苦労していたと伝えられています。

そんな矢先、長尾為景の娘である綾御前が、長尾房長の嫡子・長尾政景の正室として、結婚が決まりました。

これにより、越後長尾家と上田長尾家による和睦が成立。綾御前のおかげで、両家の関係を強化していくことができたと言っても過言ではありません。そして、1540年(天文9年)に長尾為景は隠居生活に入ります。

これに伴い、長尾為景が尽力していた越後平定は、長尾晴景と上杉謙信が引き継ぎました。そして長尾為景は、1543年(天文12年)にこの世を去ってしまうのです。

ちなみに綾御前と長尾政景の間には、男子と女子が2人ずつ生まれています。長男の「長尾義景」(ながおよしかげ)は、10歳の若さで亡くなってしまいましたが、次男の「長尾顕景」(ながおあきかげ)のちの「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)は、上杉謙信の養子となりました。また、長女である「清円院」(せいえんいん)は、北条氏の七男「上杉景虎」(うえすぎかげとら)に嫁ぎ、次女は「畠山義春」(はたけやまよしはる)に嫁いだと伝えられています。

上杉景勝のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

家督を巡る長尾晴景と上杉謙信の関係

上杉謙信の台頭

上杉謙信

上杉謙信

綾御前や長尾家が存在したとされる時代において、越後国では豪族による内乱が多数勃発しており、長尾晴景はそれらを治めるのに苦労していました。

長尾為景が亡くなったあと、嫡男であった長尾晴景が当主として立ち上がりましたが、内乱を治めることは、困難を極めていました。

その一方で、綾御前の腹違いの弟でもある上杉謙信は、長尾晴景の補佐をしつつ、次々と内乱を治める快挙を成し遂げていきます。

そのなかでも、1544年(天文13年)、越後国人衆の謀反によって「栃尾城」(とちおじょう:現在の新潟県長岡市)を攻められたとき、初陣でありながらも敵を鎮圧することに成功。そして上杉謙信は、指揮官としての才能も開花させたのです。

この上杉謙信の行動は、兄である長尾晴景のためを思って起こしたことでしたが、そのあと家中で上杉謙信の活躍が響き渡ったため、長尾晴景との仲は徐々に分裂状態になってしまいます。

長尾晴景は、上杉謙信の才能を見せ付けられ、苛立ちを覚えるようになっていきました。

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上杉謙信に家督を譲渡

こうして上杉謙信の名声はさらに広がり、ついには上杉謙信を越後の守護代に推薦する声が上がってしまったのです。このことがきっかけとなり、2人の関係はさらに複雑になっていきました。

今にも兄弟同士で家督争いによる対立が起こりそうでしたが、守護の「上杉定実」(うえすぎさだざね)の調停が入り、その場を治めることに成功。その結果、1548年(天文17年)に長尾晴景は上杉謙信を養子とし、家督を譲ることとなったのです。そして、長尾晴景は隠居生活を始めてしまいました。

長尾晴景は、上杉謙信の兄として複雑な気持ちでありながらも、内乱を治めたい気持ちは上杉謙信と同じであったはず。そのため、長尾晴景は自身より才能のある上杉謙信に地位を譲ったのかもしれません。そののち、1553年(天文22年)に、42歳で亡くなったと伝えられています。

上杉謙信の出世に不満を持った長尾政景

家督を長尾晴景から譲り受けた上杉謙信でしたが、この相続に不満を抱えている人物がいました。それは、綾御前の夫となった長尾政景です。

もともと長尾政景は、長尾晴景の妹である綾御前が自身に嫁いでいたことや、何より敵対していた「古志長尾氏」(こしながおし)が上杉謙信側に付いていたことにより、長尾晴景派として動いていました。しかし、いざ上杉謙信が長尾晴景に変わって家督を相続するとなると、猛反発したと言われています。

そこで長尾政景は、1550年(天文19年)、父である長尾房長と共に謀反を起こすことを決意。上杉謙信に戦いを挑み反撃を受け、1551年(天文20年)に長尾氏が居城としていた「坂戸城」(さかどじょう:現在の新潟県南魚沼市)を包囲されたところで、上杉謙信に降伏を示しました。そののち、1552年(天文21年)に長尾房長が亡くなると、当時27歳だった長尾政景が、坂戸城主の座を引き継いだと伝えられています。

長尾政景は、この戦いをきっかけに上杉謙信に対して忠誠を誓い、これ以降、長尾氏と上杉氏の間での争いはなくなりました。そのあとの越後国は、綾御前の弟でもある上杉謙信の多大なる活躍により、統一されることとなったのです。

綾御前の夫・長尾政景が亡くなる

長尾政景が溺死する

ところが、1564年(永禄7年)に事件が発生。綾御前の夫である長尾政景が、坂戸城近くの野尻池で亡くなっていたのです。この事件で長尾政景は、溺死として扱われることとなり、39歳でその生涯の幕を閉じることになりました。

この事件について詳細は明らかにされていませんが、上杉謙信に対する謀反を長尾政景が再度目論んでいたために、上杉謙信の軍師であった「宇佐美定満」(うさみさだみつ)によって殺害されたという説があります。この他にも酒を飲んでいたところ、船から投げ出されてそのまま溺れてしまったという説もありますが、真相は不明です。

上杉謙信に頼ることとなった綾御前

突然の事件により、夫を失ってしまった綾御前。その10歳の息子・上杉景勝と共に、綾御前の弟であった上杉謙信に頼ることを決め、「春日山城」(現在の新潟県上越市)へ移り住むことになりました。

綾御前らが春日山城に入ったのと同じ時期に、「樋口兼続」(ひぐちかねつぐ)のちの「直江兼続」(なおえかねつぐ)が、上杉景勝の家臣として仕えたと言われています。そして、樋口兼続は上杉謙信の没後、その後継者の座を巡って勃発した「御館の乱」(おたてのらん)に参加し、主君への取次役や側近として活躍。これにより上杉景勝が勝利を収め、上杉氏の家督を継ぐこととなるのです。

その一方で、長尾政景の血筋であった上田長尾氏は、実質上の当主がいなくなったため、消滅の一途を辿ることとなりました。

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上杉謙信の没後、後継者争いに巻き込まれた綾御前

脳卒中で亡くなった上杉謙信

上杉謙信は、その生涯において様々な武功を挙げています。「織田家」や「武田家」、「北条家」などと何度も敵対していましたが、その多くの戦で勝利しています。なかでも「武田信玄」との間で起こった「川中島の戦い」や、織田勢との戦いである「手取川の戦い」(てどりがわのたたかい)において、後世に語り継がれるほどの活躍を見せていたのです。

1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いは、上杉軍約1万8,000人、武田軍約2万人が激闘を繰り広げた合戦。最終的な死者は、それぞれ3,000人を超えていたと伝えられています。最終的に上杉氏が引き上げていったとされていますが、上杉謙信の名を世に広めるには十分すぎる戦いでした。

また、1576年(天正4年)に起きた手取川の戦いでは、「柴田勝家」(しばたかついえ)を総大将とする織田軍約4万人に対して、上杉軍は約2万人が参陣。上杉謙信にとっては圧倒的に不利な状況でしたが、織田軍を見事撃破したのです。

そして、1577年(天正5年)12月に上杉謙信は遠征準備のため、春日山城に戻ります。しかしその翌年、上杉謙信は突如意識不明となり、49歳で亡くなってしまったのです。

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困難を極めた後継者選び

上杉景勝

上杉景勝

上杉謙信の没後、その後継者候補に名前を挙げられたのが、上杉謙信の2人の養子でした。

それは、綾御前の息子である上杉景勝と、「北条氏康」(ほうじょううじやす)の息子であった上杉景虎です。

上杉景勝は、父の長尾政景が亡くなったときに、養子として上杉謙信に迎え入れられているため、当然後継者としての資格を持っています。

ただ、上杉景虎も上杉謙信が自身の初名であった「景虎」を与えるほど、気に入られていた人物。

しかし、両者のどちらを後継者にするのか、上杉謙信が事前に決めていなかったことが災いしてしまい、その結果、上杉氏のなかで上杉景勝派と上杉景虎派に分裂することとなり、家督争いがいつ起こってもおかしくない状況に陥ってしまいました。

しかし、この当時すでに綾御前の娘・清円院が上杉景虎のもとへ嫁いでいます。さらに綾御前は上杉景勝の母であり、上杉謙信の姉でもありました。上杉氏のなかで綾御前は複雑な立ち位置にいたのです。

上杉謙信の後継者を決定付けた「御館の乱」

上杉謙信の後継者を決めるため、反目し合っていた上杉景勝派と上杉景虎派でしたが、次第に実際の戦へと展開していきます。越後の各地で戦が起こり、最終的な結果は上杉景勝が勝利を収めました。

このとき上杉景勝は、綾御前を保護し春日山城に匿っています。しかし、上杉景虎の妻である清円院は、夫が御館の乱に破れたことで自害を選択し、この世を去ってしまいました。実の娘が自害を選択してしまった運命に、綾御前が心を痛めていたことは想像に難くありません。

また、上杉景虎は同合戦において、妻の清円院だけでなく、嫡男であった「道満丸」(どうまんまる)をはじめとする子ども達まで亡くし、孤立無援の状態に陥ります。そこで上杉景虎は、兄の「北条氏政」(ほうじょううじまさ)を頼り、「小田原城」(現在の神奈川県小田原市)まで逃亡しようとしましたが、上杉景虎派であり「鮫ヶ尾城」(さめがおじょう:現在の新潟県妙高市)の城主「堀江宗親」(ほりえむねちか)の反逆により、やむを得ず自害することになったのです。

上杉氏に最後まで尽くした綾御前

綾御前の息子である上杉景勝は、豊臣政権下において実際に政務にあたる「五大老」のひとりに数えられるほどになりました。実の息子が出世した綾御前は、相当嬉しかったはずです。

最終的に綾御前は、上杉氏が本拠地を変えるごとに、上杉景勝と共に付きしたがう道を選びました。そして1609年(慶長14年)、綾御前は米沢の地でその生涯を終えたのです。

山形県米沢市の林泉寺にて眠る

林泉寺

林泉寺

米沢で亡くなった綾御前は、現在の山形県米沢市にある「林泉寺」(りんせんじ)の墓所に、その遺骨が埋葬されることになりました。

綾御前のお墓は、現在まで林泉寺に残されており、そこには「仙洞院殿知三道早首座」と綾御前の法名が刻まれています。

またこの林泉寺は、越後の春日山山麓にあった上杉氏の菩提寺が、米沢に移ったと伝えられている寺院です。

関ヶ原の戦い」の際に、上杉景勝が「石田三成」率いる西軍に付き敗北となったことで、「徳川家康」から米沢藩30万石へ減封されたことに伴い、居住地を変えたことがきっかけだと言われています。

林泉寺の境内には綾御前だけではなく、豊臣姓を下賜されたと伝わる直江兼続夫妻や、武田信玄の息子でありながら、上杉氏に仕えた「武田信清」(たけだのぶきよ)など、上杉氏にゆかりのある人物のお墓が、多数祀られているのです。

同寺を訪れることで、綾御前をはじめとする上田氏の発展に尽力した人達の想いを感じられるかもしれません。

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