江戸幕府を開いた「徳川家康」は、男子11人、女子5人の子沢山でした。そんな徳川家康の子と言えば、長男の「松平信康」(まつだいらのぶやす)や次男の「結城秀康」(ゆうきひでやす)、三男で2代将軍となった「徳川秀忠」(とくがわひでただ)など、男子についてはよく知られているものの、女子についてはほとんど知られていません。
徳川家康には5人の姫君がいましたが、四女の「松姫」(まつひめ)と五女の「市姫」(いちひめ)の2人は幼くして逝去。長女の「亀姫」(かめひめ)、次女の「督姫」(とくひめ)、三女の「振姫」(ふりひめ)の3人は無事成人し、それぞれに波乱の生涯を送りました。ここでは、振姫の母と徳川家康の馴れ初めなどについても触れながら、三女である振姫のちの「正清院」(しょうせいいん)の生涯を紐解いていきます。
振姫(正清院)
「振姫」(ふりひめ)のちの「正清院」(しょうせいいん)が成長して輿入れする年頃になったとき、父である「徳川家康」はまだ天下人ではありませんでした。
振姫は、当時の権力者「豊臣秀吉」の命で、1595年(文禄4年)に「会津若松城」(現在の福島県会津若松市)の城主「蒲生秀行」(がもうひでゆき)と結婚することになります。
そのとき、振姫は18歳、蒲生秀行は3歳年下の15歳でした。
蒲生家は、古くから東北の玄関口として要所とされた会津若松藩92万石の大名です。
蒲生秀行の父「蒲生氏郷」(がもううじさと)は、名君の誉れ高い勇猛な武将であり、一流の文化人でもありました。
蒲生氏郷の凄さを物語るこんな逸話があります。
蒲生氏郷の父「蒲生賢秀」(がもうかたひで)の代まで、蒲生氏は近江国(現在の滋賀県)守護の六角氏に仕えていましたが、六角氏が「織田信長」に滅ぼされると、織田氏に属すことになりました。
蒲生氏郷は織田家の人質となりますが、蒲生氏郷の高い資質を見抜いた織田信長は、自分の次女「冬姫」(ふゆひめ)のちの「相応院」(そうおういん)を嫁がせたのです。
蒲生秀行と振姫の婚姻が決まった直後に、名将として知られる蒲生秀行の父・蒲生氏郷が急死。若年の蒲生秀行が家督を継ぐと、「蒲生騒動」と呼ばれるお家騒動が持ち上がります。
蒲生秀行が重用した重臣が他の家臣と対立し、ついには殺害してしまうのです。その結果、当事者である重臣には大きな咎めがなかった一方、蒲生秀行に対しては「家臣の統率能力不足」として、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)宇都宮12万石へ大減封されてしまいます。
減封の理由は、もちろん表向きは蒲生騒動です。ところが裏には諸説あり、美人で名高い蒲生秀行の母・相応院を豊臣秀吉が所望するも、相応院が拒んだことに対する豊臣秀吉の遺恨とも、蒲生秀行の正室が振姫であることから、徳川家康へのけん制のために仕組まれたとも言われています。
徳川家康へのけん制のためという説では「石田三成」(いしだみつなり)によって仕組まれたとの見方が有力です。蒲生家の会津若松は、関東の徳川家康や東北の「伊達政宗」(だてまさむね)を抑えるための要所であり、豊臣秀吉は最も信頼が置ける有力大名の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を据えたいと考えていました。そのため石田三成と結託して、もしくは石田三成の独断で、蒲生家に騒動を起こしたとされています。
こうして一度は宇都宮に移封された蒲生氏ですが、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」における戦功により、60万石で会津藩に復帰しました。もちろん、名実共に徳川家康が天下人となったことで、振姫の力が働いたことは言うまでもありません。
蒲生秀行は、徳川一門として松平姓を賜り、振姫との間には2男1女を授かります。しかし、ようやく落ち着いた1612年(慶長17年)に「会津地震」が起こりました。もともと病弱だった蒲生秀行は、蒲生騒動での気苦労に加え、地震の対応による心労もあり30歳の若さで病死してしまいます。
蒲生秀行の死後、振姫は10歳の嫡男「蒲生忠郷」(がもうたださと)の後見を務めますが、家老「岡重政」(おかしげまさ)と対立し、またしてもお家騒動に発展。
1613年(慶長18年)、岡重政の切腹で騒動は決着するものの、振姫は蒲生家を出ることになりました。
振姫の夫・蒲生秀行は30歳、その父の蒲生氏郷は40歳の若さで亡くなっています。そして振姫の産んだ子ども達も短命でした。家督を継いだ嫡男の蒲生忠郷は「藤堂高虎」(とうどうたかとら)の娘を正室に迎えますが、重臣間の抗争は止まず家中は安定しなかったのです。
そして、1626年(寛永3年)に蒲生忠郷は「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)の「二条城」(現在の京都府京都市)御幸のために上洛した際に疱瘡(ほうそう:天然痘のこと)にかかり、自身の父よりも若い26歳で亡くなります。
蒲生忠郷には嫡子がいなかったため、本来ここで蒲生氏は断絶となるはずでした。しかし、母の振姫が徳川家康の娘であったため、特別に家の存続を許されます。伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)松山24万石へ転封となり、36万石の減封にはなりましたが、弟の「蒲生忠知」(がもうただとも)が家督を継いだのです。
しかし残念なことに、蒲生忠知も1634年(寛永11年)に31歳で急死し、やはり子どもがなかったため、ついに蒲生家は断絶してしまいました。
蒲生家の悲劇はこれだけではありません。「加藤清正」(かとうきよまさ)の嫡男「加藤忠広」(かとうただひろ)に嫁いだ振姫の娘「崇法院」(すうほういん)にも悲しい宿命が待っていました。
1632年(寛永9年)、加藤家は改易(かいえき:身分と領地、屋敷などを没収すること)させられてしまうのです。改易の原因には諸説がありますが、豊臣氏と縁の深い加藤氏を排除する意図があったとする説が有力だと言われてきました。
近年の定説では、加藤忠広と崇法院の嫡男「加藤光広」(かとうみつひろ)が3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)に対して謀反を計画したとの疑いで改易になったとされています。加藤光広は29歳の若さで亡くなっており、ここでも蒲生氏の血は途絶えてしまうのです。
徳川家康
実家に戻った振姫は、父・徳川家康の命で、今度は紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県)紀州藩主浅野家に再嫁することになりました。
1616年(元和2年)のことで、36歳という年齢ながら6歳年下の「浅野長晟」(あさのながあきら)と再婚します。
振姫は嫁いだ翌年、1617年(元和3年)に周りの懸念を払拭するかのように、待望の男子「浅野光晟」(あさのみつあきら)を出産。しかし、当時としては非常に高齢出産だったため、産後の肥立ちが悪く、振姫は38歳で逝去してしまいます。
のちに紀州藩主として「和歌山城」(現在の和歌山県和歌山市)に入城した、徳川家康の十男で振姫の異母弟にあたる「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)は、振姫の菩提を弔うため、和歌山市内の浄土宗「光恩寺」(こうおんじ)に供養墓を建立しました。
最初に嫁した蒲生家の子ども達は短命だったのに対し、浅野家で振姫が命がけで産んだ浅野光晟の血筋は、脈々と続いていくこととなります。
この浅野宗家は、のちに改易された「福島正則」(ふくしままさのり)の安芸国広島藩(あきのくにひろしまはん:現在の広島県西部)42万石へ加増移封(かぞういほう:禄高を増やし他の領地へ移すこと)され、江戸時代を通じて存続しました。
なお、「忠臣蔵」で有名な赤穂浅野家は、浅野長晟の弟「浅野長重」(あさのながしげ)の系統です。浅野内匠頭として知られる「浅野長矩」(あさのながのり)は、浅野長重の曾孫にあたります。赤穂浅野家は、物語の主題となった「赤穂事件」(あこうじけん)と呼ばれる刃傷事件により改易されますが、浅野長矩の弟「浅野長広」(あさのながひろ)により、旗本として再興されました。
この時代の婚姻は、政治の事情が複雑に絡み合っています。名家の姫が最初から捨て駒のように扱われることもあり、振姫も例外ではありませんでした。
しかし、そのような状況のなかでも、振姫にとって浅野家で過ごした日々は、1年という短い期間ではあっても幸せだったと考えられます。最初の結婚のように、お家騒動に明け暮れた毎日を思えば、穏やかな生活だったのです。徳川家と浅野家を結ぶ大役を成し遂げた振姫。徳川家の姫として、意義のある人生だったと言えます。
振姫の母については諸説ありますが、側室の「お竹の方」(おたけのかた)のちの「良雲院」(りょううんいん)であると言うのが定説です。
徳川家康には大勢の側室がおり、その多くは人妻や未亡人でした。より確実に子どもを産めるように、わざわざ出産経験のある女性を側室にして、どんどん子どもを儲けたのです。振姫の母・お竹の方は、他の女性とは少し違った経緯で側室に選ばれています。
武田信玄
徳川家康は「甲斐の虎」と恐れられた名将「武田信玄」を非常に尊敬していました。
徳川家康にとって、屈辱的な合戦と言われる「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)で圧勝したのは、他ならぬ武田信玄です。
しかし徳川家康は、武田信玄の兵法を高く評価。江戸時代には武田信玄は神格化されます。
徳川家康は、武田信玄を崇めるあまり、何とかして自分の血筋に武田信玄の血を入れたいと考えるようになりました。
そこで、すでに出家して「信松尼」(しんしょうに)と称していた、武田信玄の娘の「松姫」(まつひめ)を側室に迎えようとします。しかし、すでに出家した身である信松尼はそれを拒み、自分の身代わりに遺臣のひとりである「市川昌永」(いちかわまさなが)の娘を差し出しました。それが振姫の母であるお竹の方です。
お竹の方の出自にも諸説があります。定説では、父は前述の市川昌永ですが、他にも武田家臣の「秋山虎康」(あきやまとらやす)であると言う説や、同じく武田家臣で武田信玄の甥に当たる「穴山梅雪」(あなやまばいせつ)説などがあるのです。また、武田信玄自身が父であるという説も外すことはできません。
お竹の方は、武田信玄の面差しを良く受け継いでおり、徳川家康はひと目見て気に入ったと言う逸話も残されていますが、真偽のほどは不明です。
こうしてお竹の方は徳川家康の側室となり、1580年(天正8年)に遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)「浜松城」(現在の静岡県浜松市)で振姫を産みます。しかし、徳川家康のお竹の方への寵愛はそこまででした。徳川家康は、武田家の血を引く男子が欲しかったのです。
同じ頃側室となった「阿茶局」(あちゃのつぼね)のちの「雲光院」(うんこういん)も武田家に繋がる女性でしたが、徳川家康との間では子宝に恵まれませんでした。
どうしても武田信玄の血筋の子が欲しいと、もはや取り憑かれたようになった徳川家康は、再度松姫に迫ります。困った松姫は、今度は武田家臣の「秋山越前守」(あきやまえちぜんのかみ)の娘「お都摩」(おとま)を、従兄である穴山梅雪の養女としたのち、身代わりに立てました。
これが「下山殿」(しもやまどの)と呼ばれた側室で、1583年(天正11年)に期待通り男児を出産。生まれた子は「武田信義」(たけだのぶよし)を名乗り、名門武田家の名跡を継承しました。1602年(慶長7年)には武田家を再興しますが、翌年、21歳の若さで亡くなってしまいます。
武田信玄に繋がる姫として期待されて輿入れしたお竹の方も、その娘の振姫も、下山殿に男子が生まれ、また徳川家康に側室が増えることで、次第に表舞台から姿を消していきました。