武将・歴史人
織田信長
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織田信長

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「織田信長」は、日本で最も有名な武将のひとりです。信長は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」を代表とする数々の戦いを勝ち抜いてきた名将として有名ですが、無類の日本刀(刀剣)好きとしても広く知られており、数多くの日本刀を所持していました。今回は、信長の経歴と共に、信長ゆかりの日本刀をご紹介します。

信長の経歴

織田信長

織田信長

織田信長は、1534年(天文3年)に尾張国の古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれました。

信長は幼少期から青年期にかけて、人から見て変わった行動を取ることが多く、「尾張のおおうつけ」と人々から称されていたと言います。

そんな信長は、武将として非常に才覚溢れており、数々の戦場で勝利を収め、室町幕府15代将軍「足利義昭」を京都から追放して室町幕府を滅亡させ、ついには天下統一まで残すところ僅かというところまで迫りました。

しかし、中国へ出陣する途中、京都本能寺で家臣の「明智光秀」の謀反に合い、志半ばで自害しています。

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信長と日本刀

信長は無類の日本刀(刀剣)好きとしてとても有名です。特に、備前長船派の始祖である刀工「光忠」(みつただ)の制作した日本刀(刀剣)を好み、生涯で20振以上も集めました。

また、分捕り品として名刀を入手・召し上げることも多く、信長ゆかりの日本刀(刀剣)は非常に多く存在します。

刀剣/へし切長谷部

「へし切長谷部」(へしきりはせべ)は、鎌倉の名工「五郎入道正宗」の弟子で「正宗十哲」のひとりとされる刀工「長谷部国重」が制作した日本刀(刀剣)です。そのでき栄えは、長谷部一派の中でも傑作と評されるほどです。

へし切長谷部という名前ですが、信長にまつわるエピソードが由来となっています。あるとき、信長が「観内」という茶坊主を手討ちにしました。その際、観内は御膳棚の下に隠れましたが、信長はこの日本刀(刀剣)を使って御膳棚の上から観内をへし切ったそうです。驚くほどの切れ味からへし切長谷部と名前が付いたと言われています。

信長以後の来歴については諸説あり、ひとつは信長から「黒田官兵衛」に下賜されたというもの、もうひとつは信長から「豊臣秀吉」に贈られ、のちに「黒田長政」に贈られたというものです。黒田家に伝来したあとは、14代目当主「黒田長礼」(くろだながみち)の遺言にしたがい福岡市に寄贈されるまで、黒田家にて代々受け継がれています。

1933年(昭和8年)7月25日に重要美術品に認定。さらに、1936年(昭和11年)9月18日には重要文化財に、1953年(昭和28年)3月31日には国宝に指定されました。

へし切長谷部

へし切長谷部

ランク 刃長 所蔵・伝来
長谷部国重本阿
花押
(金象嵌銘)
国宝 64.8cm 福岡市博物館

刀剣/津田遠江長光

明智光秀

明智光秀

「津田遠江長光」(つだとおとうみながみつ)は、鎌倉時代に活躍した長船派の刀工「光忠」の子、「長光」が制作しました。長光の技量は光忠に迫るものがあると言われているほど優れており、津田遠江長光のでき栄えも非常に素晴らしい物となっています。

津田遠江長光は、元来信長の佩刀でしたが、「本能寺の変」の際に明智光秀が安土城より押収し、家老の「津田遠江守重久」へ与えました。津田遠江長光の名称は、この津田遠江守重久が所持していたことに由来しています。その後、津田遠江長光は前田家に伝来し、1708年(宝永5年)には将軍綱吉へ献上されています。

1941年(昭和16年)9月24日に重要美術品に認定。さらに、1953年(昭和28年)11月14日には重要文化財に、1954年(昭和29年)3月20日には国宝に指定されました。

津田遠江長光

ランク 刃長 所蔵・伝来
長光 国宝 72.1cm 徳川美術館

刀剣/鉋切長光

「鉋切長光」(かんなぎりながみつ)は、津田遠江長光と同様、長船派の刀工長光によって制作された小太刀です。

この小太刀には、次のようなエピソードがあります。元々鉋切長光を所持していた「堅田又五郎」という武士が、知り合いの大工と伊吹山へ連れたった際に、急に大工の様子が変わり襲い掛かってきました。そこで、堅田又五郎が鉋切長光で切り付けたところ、大工が鉋(かんな)で受けるも鉋を真っ二つに切り裂いたそうです。このエピソードから、この小太刀は鉋切長光と呼ばれるようになりました。

信長が鉋切長光を所持していたのは1568年(永禄11年)以降とされており、当時の所有者である「六角義賢」(ろっかくよしかた)を降伏させた際に召し上げたと言われています。その後1579年(天正7年)6月に、信長は周光の茶碗を召し上げる代物として、「丹羽長秀」に鉋切長光を与え、手放しました。

1949年(昭和24年)4月13日に重要美術品認定されています。

鉋切長光

ランク 刃長 所蔵・伝来
長光 重要美術品 63.9cm 徳川美術館
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