武将・歴史人

伊達政宗と刀

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「遅れてきた武将」・「最後の戦国大名」。後世の私達は「伊達政宗」をこう呼びます。彼があと20年、いやせめて10年早く、東北ではなくもう少し京の近くに生まれていたら、歴史は大きく変わり、あるいは彼が天下を取っていたかもしれないと言われているからです。それほどの器量の持ち主である政宗の人物像と、彼にまつわる愛刀についてご紹介します。

周囲に戦慄が走った「撫で斬り」と父の死

伊達政宗

伊達政宗

政宗は1567年(永禄10年)8月3日、奥州の戦国大名・伊達家の嫡男として生を受けました。政宗が18歳の若さのときに父・輝宗(てるむね)が隠居し、家督を相続します。幼い頃に天然痘にかかり片目を失ってはいましたが、その才覚は父や家臣達の期待を集めていたのです。

家督を継いだ翌年には、伊達家の奥州制覇を阻む南奥州諸氏との間に争いが勃発。政宗は小浜城主・大内定綱(おおうちさだつな)の裏切りに激怒し、支城である小手森城を攻め、城中にいた女子供まですべて皆殺しにしてしまいます。その数は200とも800とも言われていますが、あまりに苛烈な殺戮(さつりく)の様子から「小手森城の撫で斬り」として、後世まで語り継がれることとなりました。

政宗の残虐行為は、これだけではありません。和平の席に臨んだ輝宗が拉致されてしまうと、それを追った政宗は、なんと自分の父親ごと敵を鉄砲で撃ち殺してしまいます。戦国の世と言えども、あまりに過激な行動に、19歳の政宗が周囲に与えたインパクトは強烈でした。また、輝宗の殺害の件では、輝宗と反りの合わなかった政宗による計画的な物であったとする説まであるのです。

伊達者のはじまり・伊達家の戦装束

ときは豊臣政権下、すでに合戦に明け暮れる時代ではなく、秀吉は「惣無事令」(そうぶじれい:私戦禁止令)を発令しますが、合戦で領土を拡大していた政宗はこれを無視。秀吉から度々届く上洛の要請も聞き流していましたが、やがて秀吉に追従します。ここから政宗は、外交手腕を発揮していくのです。

1593年(文禄2年)、秀吉の「文禄の役」に従軍した際、政宗率いる部隊の甲冑(鎧兜)の豪華さは、道中の噂の的となりました。それまで静かに見守っていた京の人々が、伊達家が通りかかった途端、その装いの見事さに思わず歓声を上げたそうです。ここから、派手な装いをお洒落に着こなす人を「伊達者」(だてもの)と呼ぶようになりました。

仙台62万石藩主に

織田信長

織田信長

徳川方に属して参戦した「関ヶ原の戦い」での勝利後は、仙台藩を開府し初代藩主に。エスパーニャ(スペイン)との貿易交渉のため、エスパーニャ及びローマに180名もの「慶長遣欧使節」(けいちょうけんおうしせつ)を送ります。使節団は、スペイン国王フェリペ3世とローマ教皇パウロ5世に謁見しましたが、帰国する頃には日本の状況はキリスト教禁止・鎖国へと向かい、この外交交渉は成功しませんでした。しかし、のちに明治政府が欧米視察の使節を送る際の参考になりました。

続く「大坂の陣」では、また激しいエピソードを残しています。同じ徳川方の神保相茂(じんぼうすけしげ)隊約300人を味方討ちにして全滅させたと言う記録が残っているのです。しかし、この件に関して伊達家はお咎めなしとのことで、諸説あり、事件の詳細は不明のまま。このような残虐とも言える逸話は、天下人・織田信長を彷彿(ほうふつ)とさせます。政宗は少年の頃から信長に憧れていたとも言われていますが、政宗の行動は、諸大名にとっては、信長の再来を思わせる物であったでしょう。

仙台藩の繁栄と政宗の晩年

天下泰平の世になると、政宗は外交手腕だけでなく、内政にも優れた能力を発揮しました。幕臣達とは情報収集のためにもマメに交流し、仙台を美しい城下町に創り上げ、奥羽の中心地として発展させていくのです。かつて個性的な甲冑(鎧兜)で世間をあっと言わせたように、政宗のその洗練された美意識で創られたこの街は、やがて「杜の都」(もりのみやこ)と称されるようになりました。

政宗は徳川家康の死後も、徳川幕府3代将軍・家光の代まで仕え、このことからも政宗が戦国武将としては遅く生まれてきたことが分かります。政宗自身「もう少し早く生まれてきていたら」と悔しがったそうですが、果たしてそうなのでしょうか。

戦国時代の多くの武将が、ただ戦いと領土の拡大のみに没頭し、志半ばで散っていったのに対し、戦国の乱世と天下泰平の世の両方を生きた政宗の人生は、とても充実した物だったようにも感じられます。むしろ、多くの才能に恵まれた政宗の能力は、藩主として1国を治めたことでこそ発揮されたと言っても過言ではありません。

それでも、つい後世の私達が「もし、10年早く生まれていたら」と考えずにはいられない政宗は、類まれな魅力にあふれたスーパースターだったと言えます。

愛刀/燭台切光忠

燭台切光忠(しょくだいぎりみつただ)は、激しい人柄の政宗らしい、豪快なエピソードの残る名刀です。

乱れ刃の華やかな作風が特に信長に愛された、備前長船の祖・「光忠」の名刀。信長から秀吉の手に渡り、さらに政宗に下賜されました。不思議な名前の由来は、政宗が家臣をこの光忠で切りつけた際に、鋒/切先(きっさき:刃の先)が触れただけの燭台も一緒に斬れたからとも、家臣の隠れていた燭台ごと斬り落としたからとも言われています。

政宗より水戸徳川家に献上され、関東大震災で消失したとされていましたが、2015年(平成27年)に焼身ながら徳川ミュージアムに保管されていることが発表されました。

燭台切光忠

燭台切光忠

ランク 刃長 所蔵・伝来
無銘 2尺2寸3厘 徳川ミュージアム
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