名家に代々伝えられた日本刀

芸州浅野家伝来の日本刀 来国光

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かつて「芸侯(げいこう)の商売上手」と呼ばれていた広島藩。大坂と広島を結ぶ瀬戸内海の海運に恵まれた地域で、江戸時代初期には中国地方随一の都市として繁栄しました。そんな広島藩の初代藩主を務めたのが「浅野長晟」(あさのながあきら)。広島藩浅野家の歴史を見ていくと共に、長晟が所持していた「来国光」(らいくにみつ)の日本刀をご紹介します。

芸州浅野家のはじまりと歴代藩主達

広島藩の立藩と浅野家初代藩主「長晟」

広島城

広島城

もともと広島は、「安芸国」(あきのくに:現在の広島県西部)という地名で、「芸州」(げいしゅう)と呼ばれていました。

「広島」という名が付いたのは1589年(天正17年)。豊臣政権五大老として知られる「毛利輝元」(もうりてるもと)が中国地方を治めていた時代、新城を築く際に広島と命名したのです。

その由来は、毛利家は大江家(おおえけ)の末裔で、祖先の大江広元(おおえのひろもと)から「広」の字が毛利家に代々伝わる通字であったこと。そして、実地検分の案内役を務めた家臣「福島元長」(ふくしまもとなが)の「島」の字を採って広島としたと言われています。

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」後、大幅減封となって広島を去った毛利輝元に代わって、「賤ヶ岳七本槍」のひとりとして知られる「福島正則」(ふくしままさのり)が入封し、江戸幕府体制下での「広島藩」が立藩したのです。

浅野長晟

浅野長晟

しかし、1619年(元和5年)、正則は広島城の修築を無断で決行しようとしたために、徐封処分を下されてしまいます。

こうして、同年に正則に代わって紀州藩(きしゅうはん:現在の和歌山県三重県南部)から浅野長晟(あさのながあきら)が入封し、芸州浅野家の誕生となりました。

長晟は、広島入封の翌年には家臣団への知行の割り当てを行ない、施政方針を定めた「郡中法度」(ぐんちゅうはっと)を制定。また地方支配に関しては、父「長政」(ながまさ)が紀州藩で定めていた体系を導入し、税制度については旧藩主時代の制度を踏襲しました。

こうして、紀州からやってきた長晟は、初代藩主として広島藩の整備に努めたのです。

歴代藩主による藩政

1632年(寛永9年)長晟が亡くなると、嫡男である「光晟」(みつあきら)が16歳で2代目藩主に就任します。2度に亘って領内の検知を実施し、広島藩・新藩主として藩政の確立に努めました。

この頃の広島藩は豊かな財源を持っていましたが、江戸時代中期になると農政の限界や不作、凶作などから次第に出費がかさみ、財政は傾きはじめます。4代目藩主の「綱長」(つななが)の時代には、初めて「倹約令」が発布され、これまでにない経済政策が行なわれました。5代藩主「吉長」(よしなが)は「正徳の新格」(しょうとくのしんかく)という郡政改革を行ない、藩の組織改編を行なうと共に財政再建に努めました。

しかし、この改革によって一揆を引き起こしてしまったことから、改革は手放しで成功したとは言えない状況。また、この頃は広島藩だけではなく、世の中全体が財政に苦しんでいた時代で、幕府も同様に財政難に陥っていました。当時の徳川幕府8代将軍「吉宗」(よしむね)においても「享保の改革」(きょうほうのかいかく)を打ち出し、財政再建を図っています。

その後、歴代藩主達は財政再建に向けたあらゆる政策を行なって、広島藩を存続させていきました。しかし、江戸時代末期になると、藩財政はまたもや困窮していくことに。

1858年(安政5年)に、支藩から本家を相続して11代藩主となった「長訓」(ながみち)は、藩政の抜本的な改革を目指して、藩組織の中央集権化や軍制刷新を積極的に行ないます。この長訓の改革は見事に成果を収め、藩内でも名君と称えられたのです。

長訓は明治時代に入ると隠居して東京へ移住することを決めますが、領民達は長訓を広島へ留めさせるために、なんと一揆を起こしました。このエピソードからも、長訓が名君として領民から愛されていたことがうかがえます。

忠臣蔵の題材となった事件

徳川綱吉

徳川綱吉

初代・長晟の入封から明治維新まで広島藩を護り抜いた浅野家ですが、江戸時代の元禄期には、浅野家最大の危機となる「赤穂事件」(あこうじけん)が起こるのです。

この事件は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として有名な「仮名手本忠臣蔵」(かなでほんちゅうしんぐら)の題材となった出来事で、広島藩初代藩主・長晟の弟「長重」(ながしげ)の家系にあたる「赤穂藩浅野家」(現在の兵庫県赤穂市)が騒動を引き起こしたことから、広島藩にも存続の危機が及んだのです。

ことの発端は、1701年(元禄14年)に赤穂藩3代藩主「浅野長矩:内匠頭」(あさのながのり:たくみのかみ)が、江戸城内の松之大廊下(まつのおおろうか)で高家旗本の「吉良上野介」(きらこうずけのすけ)を突然斬り付けたこと。

よりによって、この日は江戸城で大事な儀式を行なう日だったため、当時の江戸幕府第5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)はこの事件に激昂。当日中に長矩は切腹の処分を下され、赤穂藩浅野家も取り潰しとなってしまったのです。上野介は長矩に一方的に斬り付けられたことを主張していたため、特にお咎めはありませんでした。

この幕府の処分に納得のいかない赤穂藩士達は、上野介に対する恨みを募らせていくこととなります。

一方、広島藩は分家である赤穂藩浅野家が事件を引き起こしたことに動揺し、本家である広島藩浅野家にも火の粉が降りかかることを恐れていました。将軍・綱吉は、これまでにも些細なことで大名家を取り潰していた前例があったため、この事件で浅野本家が改易になる可能性も高かったのです。

そこで広島藩は、なるべく穏便に事件を収束させて本家に影響を与えないようにするため、保身活動に奔走します。

吉良邸討ち入り

吉良邸討ち入り

しかし、広島藩の行動とは裏腹に、赤穂藩の浪人達は上野介に心火を燃やし続けていました。事件の翌年、復讐に燃える彼らはついに吉良邸に討ち入り、亡き主君・長矩の仇を討ちます。

総勢47人もの家臣による壮絶な復讐劇は江戸の民衆から喝采を浴びることとなり、広島藩の心配をよそに、この47人を「英雄」と称える風潮が広まったのです。

このような世間の声もあったことから、広島藩浅野家は存続の危機を乗り越え、騒動ののちに切腹した家臣の遺児達の引き受けにも力を貸しました。

そもそも、なぜ長矩は上野介を襲ったのか。その理由は諸説ありますが、長矩が真実を語ることなく切腹したこともあって、現在においてもはっきりと明かされていません。多くの人がこの事件に心を打たれたのは、平和な時代が長らく続いた江戸の世において、君主の仇討ちに燃える武士の熱い魂を感じることができたからではないでしょうか。

初代藩主・長晟の佩刀 来国光

広島藩初代藩主・長晟は、江戸幕府と豊臣家の間で行なわれた「大坂冬の陣・夏の陣」において、大坂方と奮闘し、敵将である「塙直之」(ばんなおゆき:通称・塙団右衛門)を討ち取った武勇の士としても知られています。

そんな長晟が佩刀していたと言われる「来国光」は、鎌倉時代中期の「来国行」(らいくにゆき)を祖とする「来派」(らいは)という刀工集団のひとり。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて来派を代表する名工として活躍しました。来国光は来派の中でも作域が広く、来派の拠点である山城国(やましろのくに:現在の京都府)の伝統的な作風と、時代を反映した作風の二通りに分けられます。

本刀は、細身な姿で板目の模様が細かな小板目の詰んだ鍛えに、上品な直刃を焼いた来派の伝統的な作風の物で、来国光の初期作品と考えられています。刀剣の鑑定や研磨を行なっていた本阿弥家(ほんあみけ)の13代当主「光忠」(こうちゅう)の金35枚の折紙(鑑定書)がもともと付属していましたが、現在は失われています。

刀 無銘 来国光

刀 無銘 来国光

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
無銘 鎌倉時代末期 特別重要刀剣 浅野家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
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芸州浅野家伝来の日本刀 来国光

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