江戸時代

元禄赤穂事件

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江戸時代において「仇討ち」(あだうち)は、武士に許されていた合法な制度であり、届け出さえすれば、仇討ちを実行することが認められていました。「元禄赤穂事件」(げんろくあこうじけん)は、そんな江戸時代にあった仇討ちの中でも、多くの人に知られている事件のひとつです。今回は、元禄赤穂事件の詳細について解説すると共に、そのきっかけとなった事件もご紹介します。

元禄赤穂事件と忠臣蔵の違い

「忠臣蔵」は元禄赤穂事件を題材とした演目

元禄赤穂事件

元禄赤穂事件

「元禄赤穂事件」と聞くと、歌舞伎やドラマの時代劇などで観る、「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)を連想する人も少なくありませんが、実はこの2つには、大きな違いがあります。

忠臣蔵は、元禄赤穂事件を題材とした歌舞伎、または、人形浄瑠璃における演目のひとつ。正式な題名は「仮名手本忠臣蔵」(かなでほんちゅうしんぐら)と言い、1748年(延享5年/寛延元年)、大坂で初めて上演されました。

江戸幕府による厳しい取り締まりから逃れるため、時代設定は、元禄赤穂事件が起きた元禄年間(1688~1704年)から室町時代に変更し、登場人物については実名を使用せず、仮名が用いられています。

「仮名手本」とは、平仮名47文字を学ぶためのお手本のこと。この47文字と、「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)をかけて、仮名手本忠臣蔵という題名が付けられたのです。なお、登場人物名がすべて仮名であることも、この題名の由来となった理由のひとつだとされています。

元禄赤穂事件 江戸時代に実際にあった仇討ち事件
忠臣蔵 「元禄赤穂事件」を題材とした歌舞伎の演目

ことの発端は「江戸城松之廊下事件」

江戸城松の廊下刃傷事件とは

元禄赤穂事件の原因となったのは、「江戸城」(東京都千代田区)で起きた「松之廊下刃傷事件」(まつのろうかにんじょうじけん)です。1701年(元禄14年)3月14日、この日は江戸城において、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の母「桂昌院」(けいしょういん)に、朝廷が「従一位」(じゅいちい)の官位を授ける儀式が執り行われる予定でした。

しかし、この日の午前中に赤穂藩(現在の兵庫県)3代藩主「浅野内匠頭」(あさのたくみのかみ)が、江戸城内の松之廊下で、高家(こうけ:江戸幕府において儀式などを司る役職)筆頭の「吉良上野介」(きらこうずけのすけ)を、日本刀で切り付けたのです。

浅野内匠頭が切り付けた理由には、「吉良上野介に嫌がらせを受けていた」、「吉良上野介に賄賂[わいろ]を渡さなかった」、「痞[つかえ:お腹の中に、何かの塊のような物があるために痛む病気]という持病が悪化したため」など、様々な説があります。

浅野内匠頭が使用した日本刀は、約30cm以上、約60cm以下の「刃長」(はちょう)がある「脇差」(わきざし)でした。「太刀」(たち)や「打刀」(うちがたな)などに比べて刃長が短いため、吉良上野介は眉間と背中を少し切られただけで、比較的浅い傷で済んだのです。しかし浅野内匠頭は、その場ですぐさま取り押さえられてしまいました。

浅野内匠頭はその日に日本刀で切腹

母親のために行う大切な儀式の日に、刃傷事件を起こされた徳川綱吉は激怒。浅野内匠頭に対し、即日切腹を命じ、「浅野家」もお家断絶となったのです。通常身分の高い武士が切腹する場合は、衣装と脇差、介錯刀については、本人が希望する日本刀を使えることになっていました。

しかし、浅野内匠頭への扱いはひどく、衣装は小袖(こそで:庶民の着物)のままであったと言われています。また、通常は3~5分(約9~15㎜)しか出さない切腹刀の鋒/切先(きっさき)を、2寸(約6cm)近くも出す重罪人処刑の扱いでした。

この切腹は、「武士の情けに欠けていた」、「切腹場所が適切ではなかった」など言われることとなり、切腹の宣告をした「庄田安利」(しょうだやすとし)は、「大目付」(おおめつけ:大名や朝廷などが謀反を起こさないように監視し、江戸幕府を守っていた役職)から、「年寄」(政務に参与していた役職)に降格されました。

仇討ち実行と元禄赤穂事件の結末

喧嘩両成敗のはずが吉良上野介にはお咎めなし

室町時代中期頃より始まった、「喧嘩両成敗」(けんかりょうせいばい)と称される法原則は、江戸時代においても習慣化されていました。この法原則によると、本来であれば喧嘩をした両者は、どちらも罰せられることになっていたのです。

しかし、江戸城における松之廊下刃傷事件では、もう一方の当事者である吉良上野介には何のお咎めもありませんでした。

また、浅野家の家老「大石良雄」(おおいしよしお/よしたか)は、浅野内匠頭の弟「浅野長広」(あさのながひろ:通称浅野大学、[あさのだいがく])が、同家の家督を相続できるように江戸幕府へ嘆願していましたが、これも認められなかったのです。

大石良雄は、「大石内蔵助」(おおいしくらのすけ)の名で良く知られています。大石良雄に賛同した赤穂藩の旧家臣達は、吉良上野介がいる限り、主君・浅野内匠頭の名誉を挽回できないと考え、仇討ちの計画を始めたのです。

計画から仇討ちが決定するまで

赤穂藩の旧家臣達は、身分が分からないように名前を変え、住まいと職を転々としました。その中で仇討ちを実行するために、吉良邸の周辺をくまなく調べますが、なかには仕事も見付からず困窮を極め、途中で脱落する者もいたのです。

しかし、聞き込みなどで得た様々な情報から、吉良邸におけるお茶会の開催が遂に判明しました。そこで仇討ちの決行は、そのお茶会の当日、1702年(元禄15年)12月14日に決定します。

仇討ちの実行と赤穂浪士(赤穂義士)の処罰

吉良邸討ち入り

吉良邸討ち入り

大石良雄と赤穂浪士(赤穂義士)47人は、吉良邸に向かいました。当日の装束や使用する日本刀や突入の仕方、近所への配慮、負傷者が出たときの対応、江戸幕府へ自訴する手順などまで、こと細かに決められていたと言われています。

江戸幕府のやり方を快く思わない江戸の住民もいたため、吉良邸に赤穂浪士が討ち入るらしいという噂が広まり、吉良邸では、100人以上の用心棒を従えて警戒していました。

しかし、大石良雄と赤穂浪士47人は、隠れていた吉良上野介を発見し、その首を討ち取って主君の仇討ちを果たしたのです。

赤穂浪士に対する処罰については、有罪と無罪の両論がありましたが、最終的には、全員に切腹が言い渡されました。赤穂浪士の遺骸は現在、「泉岳寺」(せんがくじ:東京都港区)に葬られており、今もなお、多くの人がお参りに訪れています。

主君の仇討ちを果たそうとした赤穂浪士の姿は、江戸の人々に大きな感銘を与え、その物語は、300年のときを経た現在でも根強い人気を得ているのです。

元禄赤穂事件

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