武将・歴史人

豊臣秀吉と刀

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農民の子から大出世を果たし、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。現代でその名を知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。「水攻め」や「兵糧攻め」など、刀は極力使わない戦術を採る秀吉でしたが、無類の名刀コレクターでもありました。ここでは、天下人 豊臣秀吉の生涯と、秀吉がこよなく愛した日本刀についてご紹介します。

豊臣秀吉の生い立ち

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉はもともと農民の出身だったことから、幼少時代に関する正確な記録があまり残っていないのが実情です。このため、秀吉の出生については諸説ありますが、1537年(天文6年)尾張国愛智郡中村郷(名古屋市)の百姓であり、織田信長の父・信秀の鉄砲足軽をしていた木下弥右衛門と、その妻・なかとの間の子として誕生したとされています。

幼少期は「日吉丸」(ひよしまる)と言う名前で、顔はやせて、目がギョロっとしていたため、周りからは「小ざる」や「さる」と呼ばれていました。子供の頃はいくさごっこが好きで、身体は小さくても、すばしっこい知恵者だったと伝えられています。

秀吉が8歳のとき、父・木下弥右衛門が亡くなってしまい、その後母・なかと再婚した養父につらく当たられるようになり、秀吉は尾張の光明寺に入れられます。

しかし、秀吉が10歳のとき、この寺から追い出されてしまったため、その後は、尾張の土豪の奴婢として雇われ、商人などをして生計を立てながら士官先を探し、永禄元年(1558)、秀吉が23歳(一説に18歳)のとき、草履取りなどの雑用をこなす小者として織田信長に仕えることとなったのです。

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草履取り時代のエピソード

織田信長

織田信長

秀吉が、木下藤吉郎という名で織田信長の草履取りとして仕えていた頃、信長は、雪の夜に草履を履くと暖かくなっていたため、信長は藤吉郎に向かって「おまえは腰掛けていたな!この不届者め!」と咎めました。

しかし、藤吉郎は「腰掛けてはおりません」と頑として譲りませんでした。信長が「温かくなっているのが何より証拠だ!」と言うと、藤吉郎は「寒い夜なので、御足が冷えてらっしゃると思い、懐に入れて温めておりました」と言いました。信長は「その証拠は何だ」と訪ねると、藤吉郎は衣服を脱ぎ、懐に下駄の鼻緒の跡がくっきりと付いているところを見せました。

信長はこれに感心し、藤吉郎を草履取りの頭にしたと伝えられています。

豊臣秀吉の戦術「戦わずして勝つ」

戦国武将の仕事は、敵と戦い、敵方の首をどれだけ取ったかですが、極力、人を殺さない戦略を採ったのが豊臣秀吉です。城を陥落させなければ敵の領土は奪えない。かと言って、城を落とすには味方にも多大な被害をもたらすことになる。この状況から考えた秀吉の代表的な戦術が「兵糧攻め」や「水攻め」です。

合戦がひとたび起きれば、農民が兵として借り出され、合戦で兵(農民)が減れば、米を作る人がいなくなり、米の物価は上昇。そのしわ寄せは必ず農民にいきます。農民の出身だった秀吉は、そのことをよく知っていたからか、お金や物資、労働力は多少かかっても、敵も味方も多数死者が出る直接的な戦闘は避け、味方を温存しながら敵を下していく戦術を生み出していきました。

兵糧攻めや水攻めは、敵の食糧補給の道を断って、戦闘力を弱らせる攻め方のため、敵方は餓死者が増え、相手を苦しめながら追い詰めていく非常に残酷な戦術とも言えますが、敵が早期に降伏すれば敵を殺さずにすみ、最終的には味方として増やすことも可能な戦術です。秀吉は、このような奇策で数々の功績を挙げ、出世していったのです。

鳥取城の兵糧攻め

天正九年(1581年)10月25日、信長の命で鳥取城を攻める際、秀吉は敵に米を蓄えさせないため、事前に商人を潜り込ませ、春先から米を高値で買占めたあと、鳥取城の周り12キロに、4万の兵と堀や縄で完全な包囲網を張り、食料や情報などを完全に遮断。城に残った城主 吉川経家と約4千人の兵の食料はたった1ヵ月で底をつき、経家の切腹と引き換えに、約3ヵ月という短期間で降伏させました。

秀吉は、敵方を悲惨な状況に追い込みながらも、味方は殆ど死者を出すことなく戦いに勝ったのです。

高松城の水攻め

天正10年(1582年)、中国を支配する毛利軍との雌雄を決するため、豊臣秀吉は3万もの兵を引きつれ高松城に攻め入りますが、高松城は沼や堀で囲まれ、兵や馬などで攻め立てるのは難しい状況でした。

しかしこれを逆手に取った秀吉は、高松城の近くを流れる足守川に数キロメートルにわたる堤防を作って川の水をせき止め、湿地帯にあった高松城を水没させました。その結果、高松城の城主 清水宗治は、籠城した兵力を出動させることができず、蓄えてあった食料や井戸も水浸し。援軍に駆け付けた毛利氏側の武将 小早川隆景らも、孤立する高松城を前に為す術もなく、ついに秀吉に対して講和を申し入れました。この戦いでも秀吉は、直接的な戦いをすることなく勝利したのです。

豊臣秀吉の愛刀 「一期一振藤四郎」(いちごひとふりとうしろう)

豊臣秀吉は、刀を使った直接的な戦いは好みませんでしたが、無類の名刀コレクターで、 刀剣の鑑定書である「折紙」の発行を始めたのも豊臣秀吉であると言われています。古今東西、様々な地域の名刀を集めており、中でも「正宗」、「義弘」、「吉光」の刀工達が打った日本刀をこよなく愛し、これらを「天下三作」とも呼んでいました。

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秀吉の側近であり、刀剣の管理を任されていた「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)が残した資料には、正宗と吉光だけで十数振以上保持していたとされています。その中でも特に秀吉が気に入っており、名刀中の名刀しか入れない「一之箱」(いちのはこ)に納められていた太刀が、粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)の「一期一振」です。

一期一振を制作した粟田口吉光は、鎌倉時代中期に京で活躍した名工で、通称「藤四郎」(とうしろう)と言われ、短刀や脇差など、刃長の短い刀剣を得意としていました。そんな吉光が、生涯で唯一制作としたと言われる太刀(刃長が約60cm以上の刀)が、この一期一振です。「生涯で一度きりの太刀」という意味で一期一振と命名されたと伝えられています。

一期一振

一期一振藤四郎

額銘(指定名称) 種別 時代 所蔵・伝来
吉光
(名物 一期一振
藤四郎)
太刀 鎌倉時代(中期) 山里御文庫
御剣庫蔵
(宮内庁管理)
刀工 刃長(寸法) 反り 指定
粟田口吉光 2尺8寸3分
(約89cm)
→ 2尺2寸7分(68.8cm)
2.6 cm 御物

一期一振藤四郎の伝来

戦国時代、朝倉氏が所有していましたが、朝倉氏の滅亡後、毛利氏のもとへ渡り、毛利輝元より豊臣秀吉に献上されました。

秀吉の没後、秀吉の三男・豊臣秀頼に相続されますが、大阪の陣において大阪城が落城し、「一期一振」も焼身の状態で発見されます。これを惜しんだ徳川家康が刀工・越前康継に命じ、再刃されたと伝えられています。

越前康継によって焼き直された一期一振は、尾張徳川家に伝えられ、文久2年(1863)に尾張藩主・徳川茂徳から孝明天皇に献上され、皇室御物となりました。現在、宮内庁の管轄下にあり、「山里御文庫・御剣庫蔵」に所蔵されています。

豊臣秀吉の生涯

豊臣秀吉は、日本の歴史の中でも類を見ないほどの大出世を遂げました。ここまで大出世をした理由のひとつは、人の心をつかむ「人心掌握術」だったのではないでしょうか。

1570年の織田信長と朝倉義景が戦った「金ヶ崎の戦い」では、信長が浅井家から裏切られ、絶体絶命の状況に追い込まれました。このとき秀吉は、最後尾で敵の追撃を一手に引き受け足止めする「殿」(しんがり)という危険な役を自ら買って出たのです。これによって、秀吉は信長の心と信頼をつかみ、この戦い以降、信長から重用されるようになります。

また、1584年に徳川家康と戦った「小牧・長久手の戦い」の際、秀吉の水軍を指揮した九鬼嘉隆は、徳川方に撃退されて九死に一生を得ます。このときの失敗について嘉隆が秀吉に詫びると、秀吉は「あの状況で帰還できたことこそ、何よりの手柄である」と言って、失敗をあえて責めるのではなく、むしろ嘉隆を称えました。それに感動した嘉隆は、秀吉に終生忠誠を尽くしました。

秀吉は「希代の人たらし」とよく言われますが、決してお世辞がうまく、うわべだけの人間関係を作るのが上手だった訳ではありません。ここぞというときに「人の心と信頼をつかみ」、秀吉の「温かさ」と「器の大きさ」によって、人々の人望を集めていったのです。

「敵味方を問わず、恐怖で人を支配する」ことによって敵を増やし、最後は味方の裏切りで自らを滅ぼした信長に対し、「人の心をつかみ、人を動かす」ことによって味方を増やし、数々の功績を残してきた秀吉だからこそ、「天下統一」という信長以上の偉業を成し遂げられたのかもしれません。

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