戦のない太平の世となった江戸時代ですが、その末期にあたる「幕末」はアメリカからの黒船来航をきっかけに、江戸幕府の終焉へ向けて世の中が大きく変わり始めた「動乱期」です。このような世情は日本の刀剣界にも影響を与え、新たな特色を持つ「新々刀」(しんしんとう)と呼ばれる日本刀が誕生。それらは、徳川将軍を頂点とした「幕藩体制」を完全に解体させることになる、旧幕府軍と「明治新政府」軍による内戦「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)でも使われていました。そんな幕末期の日本刀について、その誕生した経緯や流行した作風の特徴などを解説すると共に、それらが戊辰戦争で果たした役割や、同戦争にまつわる人物の愛刀をご紹介します。
ペリー来航
江戸時代において、幕末に突入する時期についてはいくつか見解がありますが、「マシュー・ペリー」率いるアメリカ海軍の「黒船」が浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航した、1853年(嘉永6年)とするのが通説です。
この頃の日本は、いわゆる「江戸の三大飢饉」などを要因とした庶民の生活の貧困や、江戸幕府の老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)による失政、さらには、江戸幕府を倒して外国勢力を排除することで、天皇中心の政治へと戻そうという思想を持った「尊王攘夷派」(そんのうじょういは)の台頭など、社会問題が次々と起こり、江戸幕府の権威が徐々に失墜している状況にありました。
そんななか、民衆の間で社会変革の気運が高まってくると、日本の刀剣界にも新たな風を吹き込む刀工が登場。それは、米沢藩(現在の山形県米沢市)領であった中山村諏訪原(現在の山形県南陽市元中山)出身の「水心子正秀」(すいしんしまさひで)です。
水心子正秀は1771年(明和8年)、22歳で武蔵国八王子(現在の東京都八王子市)に出て、鎌倉時代中期に現在の神奈川県で興った「相州伝」(そうしゅうでん)や、同じく平安時代後期に岡山県東南部で興った「備前伝」(びぜんでん)を熱心に研究。
寛政年間~享和年間(1789~1804年)頃には、「大坂新刀」の代表的刀工である「井上真改」(いのうえしんかい)風の「直刃」(すぐは)に「丁子乱れ」(ちょうじみだれ)が交じる刃文や、「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)の「濤瀾刃」(とうらんば)など、当時流行していた新刀期(1596~1771年[慶長元年~明和8年])の写しを手掛け、その傑出した出来映えから、刀工として世に広く知られるようになったのです。
丁子乱れ
濤瀾刃
しかしその後、水心子正秀は、華美な作風を持つ新刀の流行に疑問を持つようになっていきます。と言うのも、「古刀期」(ことうき)に用いられていた、「銑鉄」(ずくてつ/せんてつ)を卸して得た鋼を材料とする鍛刀法が、寛文年間~延宝年間(1661~1681年)頃にはすでに途絶えてしまっていました。そのため当時の日本刀は、「折れず・曲がらず」を特徴とした頑丈な武具としてではなく、太平の世を象徴するかのように、美術品としての側面が強く押し出された物が主流となっていたのです。
これに対して水心子正秀は、実用刀とほど遠い日本刀に危惧を覚えるようになり、文化年間~文政年間(1804~1830年)頃に「刀剣復古論」と称する独自の鍛刀法を提唱。そのなかで水心子正秀は、簡素化された新刀の鍛刀法から、鎌倉時代、及び南北朝時代といった古刀期の鍛刀法に立ち返るべきだと説いています。
この水心子正秀による刀剣復古論は、物騒な世情も相まって瞬く間に一世を風靡。多くの人々から賛同を得ることになり、時代は新々刀期へと移行したのです。
新刀期には太平の世が続いたことで、武士にとっての日本刀は単なる象徴となり、家に伝来する所蔵刀のみで間に合うようになりました。そのため、日本刀の注文が大幅に減少し、刀工のなかには農機具類などを制作する「野鍛冶」(のかじ)に転身する者や、廃業する者が続出。
衰退の一途を辿っていた刀剣界でしたが、前述したように水心子正秀が登場して「新々刀の初祖」になったことにより、にわかに活気付いていったのです。
刀剣復古論の提唱を境に、自身の作風を観賞用から実用へと一変させた水心子正秀は、古刀期の相州伝に範を取った幅広で豪壮、あるいは備前伝の深い「腰反り」が付いた姿の日本刀を作刀。また、刃文については備前伝の作風を目指しており、「刀剣ワールド財団」が所蔵する初代水心子正秀と2代水心子正秀の合作「刀 銘 天秀 水心子白熊入道正秀(刻印)」(かたな めい あまひで すいしんししろくまにゅうどうまさひで[こくいん])にも、備前伝の特徴のひとつである「匂出来」(においでき)の「互の目丁子」(ぐのめちょうじ)が焼かれています。
腰反り
互の目丁子
水心子正秀は「復古刀」を世に広めるべく、古刀期の鍛刀法や日本刀の材料について研究した成果を、「刀剣実用論」や「刀剣弁疑」(とうけんべんぎ)、「刀剣武用論」といった著書にまとめて刊行。その傍らに水心子正秀は、研究と修行によって得た復古刀の技術を伝授するため、100人を超える門人を育成したと伝えられています。
そのなかでも特に著名であった刀工が、水心子正秀と同郷である出羽国(現在の山形県、及び秋田県)出身の「大慶直胤」(たいけいなおたね)です。
大慶直胤は、師・水心子正秀の復古論をよく修得し、前述の①相州伝、②備前伝のほか、③「山城伝」(やましろでん)、④「大和伝」(やまとでん)、⑤「美濃伝」(みのでん)を含む「五箇伝」(ごかでん)すべてに精通。
それらを意のままに操っていた大慶直胤は、脇差の名手としても知られ、その作刀技術の高さは、師・水心子正秀に匹敵するほどであったと評されています。
①水心子正秀、②大慶直胤を含む、江戸を拠点とした3人の名匠の総称である「江戸三作」のひとりに数えられる名工が、小諸藩(現在の長野県小諸市)領赤岩村(現在の長野県東御市)出身の③「源清麿」(みなもときよまろ)です。
兄の「山浦真雄」(やまうらさねお)と共に、上田藩(現在の長野県上田市)のお抱え刀工であった「河村寿隆」(かわむらとしたか)に作刀技術を学び、23歳の頃に江戸に上ると、幕臣で剣術家としても活躍した「窪田清音」(くぼたすがね)の門下に入りました。
源清麿の技量に感嘆した窪田清音は、自身の屋敷内に鍛冶場を設置。師・窪田清音の経済的援助を得たことで作刀に専念できた源清麿は、やがて新々刀の第一人者として活躍しますが、若い頃の深酒が原因となって心身を衰弱してしまいます。
これによって失望してしまった源清麿は、1854年(嘉永7年)に突然自害し、42歳の若さでこの世を去ったのです。
源清麿は五箇伝のなかでも、相州伝と備前伝を融合させた独自の作風を確立。「沸本位」の豪快な「大互の目乱れ」(おおぐのめみだれ)や華やかな丁子乱れを得意とし、平地(ひらじ)に「白髪筋」(しらがすじ)と称される銀筋が現れるのも、源清麿の作風における特徴です。
新々刀期は刀剣復古論に基づき、姿格好が良い古刀上位作が作刀された一方で、開国派や尊王攘夷派、佐幕派(江戸幕府の政策を擁護する勢力)、倒幕派が入り乱れる幕末の不穏な世情を反映し、ほとんど無反りに近いような浅い反りが施された、約2尺4~6寸(約73~78.8cm)という長寸の剛刀(ごうとう)も作刀されていました。
このような武骨な日本刀は、薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)・長州藩(現在の山口県萩市)・土佐藩(現在の高知県高知市)・肥前藩(現在の佐賀県佐賀市:別称[佐賀藩])といった尊王(勤王)、あるいは倒幕派の志士達の需要に応えた物であったことから、「勤王刀」(きんのうとう)と呼ばれているのです。
外国奉行を務めた幕臣「水野忠徳」(みずのただのり:別称[水野癡雲:みずのちうん])の回顧談によると、江戸幕府によって所持が認められていた長さである定寸(じょうすん:2尺3寸5分[約71cm])以上の日本刀を、武士達がこぞって買い求めるようになったのは、1860年(安政7年)に発生した、尊王攘夷派の水戸藩(現在の茨城県水戸市)の浪士達による大老「井伊直弼」(いいなおすけ)の暗殺事件、「桜田門外の変」以後のこと。
混乱を極めた幕末の時代を象徴する同事件がきっかけとなり、水心子正秀の刀剣復古論に呼応するかのように、長大な勤王刀の需要が武士達の間で急激に高まっていったのです。
愛刀を手にした高杉晋作
幕末期に作刀された勤王刀は、先に述べたように無反りに近い、浅い反りが付き、刃長・茎(なかご)が共に長く、大鋒/大切先(おおきっさき)となる姿が特徴。
このような勤王刀は、水戸藩が成立させた「水戸学」による尊王攘夷思想が各藩に普及するにつれて、全国で流行していくこととなりました。
勤王刀の著名な例には、長州藩の尊王攘夷志士「高杉晋作」(たかすぎしんさく)が、自身の肖像写真で手にしている愛刀「安芸国佐伯荘藤原貞安」(あきのくにさえきしょうふじわらのさだやす)や、尊王攘夷を掲げて結成した「土佐勤王党」の盟主、「武市半平太」(たけちはんぺいた:別称[武市瑞山:たけちずいざん])の差料である、「南海太郎朝尊」(なんかいたろうちょうそん/ともたか)作の打刀などが見られます。
大政奉還
1867年11月(慶応3年10月)、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)により、政権を朝廷に返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)が行われると、1868年1月3日(慶応3年12月9日)に、薩摩藩の「大久保利通」(おおくぼとしみち)や「西郷隆盛」(さいごうたかもり)、公卿(くぎょう)の「岩倉具視」(いわくらともみ)らが中心となって、「王政復古」と称されるクーデターが勃発します。
「明治天皇」から勅令である「王政復古の大号令」が発せられたことで、「徳川将軍家」を排除し、天皇のもとで有力藩が共同で政治を執り行う明治新政府の樹立が決定しました。
これに反発した諸藩軍や旧幕府残存勢力を、新政府軍が武力をもって平定した一連の内戦が戊辰戦争です。
1868年1月27日(慶応4年/明治元年1月3日)に開戦した「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)を皮切りに、1869年6月27日(明治2年5月18日)に終結した「箱館戦争」(はこだてせんそう:別称[五稜郭の戦い:ごりょうかくのたたかい])まで日本各地で行われた同戦争は、新政府軍が勝利を収めますが、その最大の要因は、両軍が用いた武器や戦闘方法の差にあります。
例えば、鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍は、一部に最新鋭の鉄砲隊を置きながらも、当時最強と言われていた会津藩(現在の福島県会津若松市)や桑名藩(現在の三重県桑名市)の部隊は、その主な武装には日本刀や槍を用いていました。
さらに、旧幕府軍の指揮官であった「竹中重固」(たけなかしげかた)が従来の戦闘方法しか心得ていなかったこともあり、旧幕府軍は、新式の西洋銃を効率的に用いていた新政府軍を前に、大敗を喫することとなったのです。
土方歳三
「新選組/新撰組」(しんせんぐみ)の「鬼の副長」として知られる「土方歳三」(ひじかたとしぞう)は戊辰戦争時、鳥羽・伏見の戦いや「東北戦争」などで各地を転戦。
最後の戦いとなった箱館戦争で銃弾を受けて亡くなるまで、ほぼすべての戦闘において、旧幕府軍のメンバーとして最前線で戦い抜き、蝦夷地平定に貢献したと伝えられています。
そんな土方歳三の数々の修羅場を共にしたと考えられる日本刀が、鳥羽・伏見の戦いの頃に会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)より賜ったとされる「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)です。
本打刀を作刀した、江戸時代末期から明治時代の刀工・和泉守兼定は、美濃国・関(現在の岐阜県関市)住であった4代「兼定」を祖とする「会津兼定」の11代目。
4代関兼定は当時会津を領していた「蘆名家」(あしなけ)に招かれ、以降会津へ移住したことから「会津兼定」と称されていました。その後、歴代の会津兼定は会津の領主が変わってからも、そのお抱え刀工として活躍しています。
松平容保
11代会津兼定(和泉守兼定)は、「京都守護職」を務めていた松平容保に従い、1863年(文久3年)に上洛。
松平容保が新撰組を統括していたことから和泉守兼定は、新撰組の隊士達にも作刀していたと考えられているのです。
箱館戦争の際に土方歳三は、刃長が2尺3寸1分6厘(約70.2cm)ある本打刀を、小姓の「市村鉄之助」(いちむらてつのすけ)に、自身の肖像写真や手紙などと共に義兄「佐藤彦五郎」(さとうひこごろう)のもとへ送らせています。
その理由は、敗戦を察した土方歳三が死を覚悟していたことにあったと推測されており、この争乱の壮絶さは、本打刀が届けられた当時、刀身の物打(ものうち)部分のところどころに、刃こぼれが見られたと伝えられていることからも窺えるのです。
勝海舟
「勝海舟」(かつかいしゅう)は、青年期に蘭学や兵学を学び、1860年(万延元年)、38歳で江戸幕府からの遣米使節を送るために蒸気軍艦「咸臨丸」(かんりんまる)を艦長として指揮し、日本人による初の太平洋横断に成功した人物です。
江戸幕府海軍の創設・育成に尽力した勝海舟は、戊辰戦争において旧幕府軍の軍事総裁に就任。
内戦が続く中で江戸が火の海となることを回避するため、1868年4月5日(慶応4年/明治元年3月13日)に新政府軍側の西郷隆盛と会見し、戦わずして「江戸城」(現在の東京都千代田区)を新政府軍に明け渡す、いわゆる「江戸城無血開城」を実現させました。
現在、刀剣ワールド財団が所蔵する「刀 銘 長曽祢興里 真鍜作之」(かたな めい ながそねおきさと しんのきたえにてこれをつくる)は、この勝海舟の江戸城無血開城をはじめとする江戸幕府への功績が認められ、徳川慶喜より拝領したと伝えられている1振です。
本打刀は、附属の白鞘(しらさや)に勝海舟が所持していた旨の鞘書(さやがき)が見られることから、作刀者である「長曽祢興里」の入道名「虎徹」(こてつ)を取って、「海舟虎徹」と号されています。
近藤勇
「江戸新刀」の代表的刀工として知られる長曽祢興里は、もともとは越前国(現在の福井県北東部)の甲冑師でしたが、50歳の頃、江戸へ出て刀工に転身。
武骨で切れ味抜群な長曽祢興里の作刀は、偽物(ぎぶつ:贋作のこと)が多く出回るほど高い人気を博し、新選組局長の「近藤勇」(こんどういさみ)が愛刀としていたとする伝承もあります。
海舟虎徹のほかにもう1振、勝海舟の愛刀として著名な物が前述した水心子正秀による作刀です。しかし勝海舟は、この水心子正秀をはじめとした自身の所持刀を、その生涯で抜くことは一度もなかったと言われています。
勝海舟は16歳の頃に、「直心影流」(じきしんかげりゅう)の「島田虎之助」(しまだとらのすけ)に入門。剣術や禅を学び、21歳の若さで同流派の免許皆伝を受けるほどの腕前を持っていました。
それにもかかわらず勝海舟は、倒幕派からいつ暗殺されるか分からない幕臣という立場になっても、刺客からの襲撃にも常に丸腰で臨んでいたと言います。
剣術に長けていた勝海舟でしたが、禅を通じて胆力(たんりょく:何事にも動じない精神力)を練ったことで、「戦わずして勝つ」という武の極意を会得し、それを実践していたのです。
このように勝海舟は、剣術のみならず禅の精神を極めていたからこそ、水心子正秀のような剛刀の持ち主にふさわしい素質を備えていたと言えます。