古来、刀剣は神事などを司る、神聖な物とされてきましたが、武士の時代が訪れると、刀剣は戦いの道具、及び権威の象徴にもなりました。武将達は権威を示すために、名工の刀剣を挙って求め、そうして愛蔵した刀剣は、現在、茎(なかご)に刻まれた銘や号に、その来歴を見ることができます。武将の名前が刀身に刻まれた刀剣と、武将の名前が号として付けられた刀剣を見ていきましょう。
本来、刀剣の茎に刻まれる銘は、その刀剣の作者や生国、作刀年紀が入れられていることがほとんどです。
しかし、武将達は、その力を誇示するためや、亡き主君を偲ぶためなど、様々な理由で、所持した刀剣の茎に名を刻むことがあります。これを所持銘と言い、現在でも有名な武将の所持銘が入った刀剣は、代々受け継がれているのです。
明智光秀
「明智近景」(あけちちかかげ)は、1582年(天正10年)、「本能寺の変」で主君「織田信長」を討った戦国武将「明智光秀」の愛刀として知られる刀剣です。
号の由来は、明智光秀の所持に因んでいます。本刀剣は、備前国(現在の岡山県東南部)に興隆した長船派の刀工「近景」の手による作品で、明智光秀の子孫とされる荘内藩(庄内藩)日向家に伝来した物。
この頃は、差表に「備州長船近景」の刀工銘と、「暦応三年」の年紀銘、さらに金象嵌で「明智日向守所持」という所持銘があったとされています。
しかし、江戸時代末期に日向家が手放したのち、主君を討った逆賊とされる明智光秀の名を厭った所有者が、銘を削り取ってしまったとされ、現在残されている銘は、「暦応三年」の年紀銘のみとなりました。現在は個人所蔵の刀剣で、重要美術品となっています。
明智近景
「一胴七度」(いちのどうしちど)は、「豊臣秀吉」の甥で、次期関白となった「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)所用の刀剣。
美濃国(現在の岐阜県)で活躍した刀工「千子村正」(せんごむらまさ)の手による刀剣で、すさまじい切れ味を持っていたとされています。
号 一胴七度の由来は、豊臣秀次自らが本刀剣を扱い、肋骨が多く、斬ることの難易度が高いとされた「一の胴」の試し斬りを7回も成功させたことから付けられました。
本刀剣の差表には、号 一胴七度が金象嵌で施され、差裏には、「前關白秀次公ヨリ武藤長門守拜領之」という所持銘が施されています。豊臣秀次の死後に本刀剣を拝領した武藤長門守により、豊臣秀次を偲ぶため、刻まれました。
黒田長政
「へし切長谷部」(へしきりはせべ)は、建武期(1334~1336年)頃に山城国(現在の京都府)で活躍した刀工「長谷部国重」の手による刀剣。
長谷部国重は、相州伝を確立した鎌倉の刀工「正宗」に師事したとされており、「正宗十哲」のひとりに数えられています。
へし切長谷部の号は、あるとき失敗を犯して膳棚の陰に隠れた茶坊主を、織田信長が棚ごと本刀剣を使って圧し切ったことに由来。織田信長は、このすさまじい切れ味を称え、「へし切」と名付けたと言います。
この逸話から、へし切長谷部は織田信長の愛刀として有名な刀剣ですが、入れられた所持銘は、筑前守(ちくぜんのかみ)であった「黒田長政」(くろだながまさ)の物。本刀剣の差表には「黒田筑前守」、差裏には金象嵌で「長谷部国重本阿(花押)」と刻まれています。
本刀剣が織田信長から黒田家に渡った経緯については諸説あり、織田信長から「黒田官兵衛」に直接下賜されたという説と、織田信長から豊臣秀吉に下賜され、そのあと黒田長政に贈られたとする説が存在。いずれにせよ、へし切長谷部は黒田家に代々に伝来し、1953年(昭和28年)には国宝に指定。現在は、福岡市博物館の所蔵となっています。
本刀剣は、1560年(永禄3年)に起こった「桶狭間の戦い」において、「今川義元」(いまがわよしもと)が討たれた際に佩用していたとされる刀剣。本刀剣の差表には「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」、差裏には「織田尾張守信長」と金象嵌で入れられています。
桶狭間の戦いが起こった当時、織田信長は尾張国(現在の愛知県東部)一国を治める大名であるのに対し、今川義元は駿河国、遠江国(現在の静岡県)をはじめとする3国を治める大大名でした。国力、兵力共に劣っていた織田信長が、今川義元を破るとは、その当時誰もが予想していないこと。
織田信長は、格上の相手に打ち勝ち、それを顕示するため、今川義元が桶狭間の戦いで所持していた刀剣に銘を刻み愛蔵したのです。
今川義元
織田信長
本刀剣は、鎌倉時代末期から南北朝時代の刀工「左衛門尉安吉」(さえもんのじょうやすよし)の作と伝えられており、銘に「左」の一字が切られたことから、「左文字」と呼ばれました。相州伝の正宗に師事したとされており、正宗十哲のひとりに数えられます。
今川義元以前に所持していた「三好政長」(みよしまさなが)が法号を半隠軒宗三としたため、「宗三左文字」(そうざさもんじ)、「三好左文字」(みよしさもんじ)と称されることもあります。
織田信長の死後、本能寺の焼け跡から豊臣秀吉が発見し、所蔵。その後、豊臣秀頼に渡りますが、1601年(慶長6年)以降は「徳川家康」が所蔵し、以降徳川家に伝来しました。この来歴から、本刀剣は「天下取りの刀」と称されることもあります。1657年(明暦3年)には明暦の大火によって焼身となりましたが、のちに焼き直されて再生。
現在は、織田信長を祭神として祀る「建勲神社」(京都府京都市)が所蔵しています。
武将の名前にゆかりのある刀剣は、所持銘以外にも、その刀剣を愛用した武将の名前が、そのまま号となっている物もあるのです。
ここでは、有名な武将達が愛用し、その名が号として付けられた刀剣をご紹介します。
浅井長政
「浅井一文字」は、近江国の戦国武将「浅井長政」(あざいながまさ)が所用していた太刀で、備前国の刀工「一文字派」の手による刀剣です。
もとは織田信長が所有しており、織田信長の妹「お市の方」が浅井長政に輿入れする際に、浅井家に伝わりました。1570年(永禄13年/元亀元年)に「姉川の戦い」にて浅井長政が自害すると、本太刀は形見として長女「茶々姫」(ちゃちゃひめ:淀殿とも)に渡ります。
「大坂冬の陣・夏の陣」で行方不明となったのち、徳川家に伝わり、本阿弥家によって代千貫の折紙が付けられました。その後、前田家を経て、幕臣・柳沢家に伝来し、「山縣有朋」の所用となったのち、1923年(大正12年)に関東大震災で焼失しています。
池田輝政
「池田来国光」(いけだらいくにみつ)は、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)初代藩主「池田輝政」(いけだてるまさ)が所持したことに因んで号が付けられた、「来国光」(らいくにみつ)の手による短刀です。
のちに加賀藩前田家に伝来し、1660年(万治3年)には、本阿弥家によって1,500貫の折紙が付けられました。
本短刀の作者・来国光は、山城国で興隆した来一門の刀工で、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍。来一門の中でも残存する刀剣が最も多く、名物とされるのは、特に短刀に多く見られます。
本短刀も名物として「享保名物帳」に記載があり、現在は重要文化財に指定。個人蔵となっています。
池田来国光
石田三成
「石田正宗」(いしだまさむね)は、「石田三成」愛用の刀剣として名高い、相模国(現在の神奈川県)の名工・正宗の手による打刀です。
刃長は68.8cmで、号の由来は所持していた石田三成に因んだ物。棟の物打ちと腰元に大きな切り込みがあるため、「石田切込正宗」もしくは「切込正宗」と称されることもあります。
本太刀は、もともと毛利家の所持だったとされていますが、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)が購入し、石田三成へ贈与されました。
1599年(慶長4年)に石田三成が襲撃され、佐和山城へ帰城することになったとき、その護衛を務めた徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)に謝意を表し、本太刀を贈ったと伝えられています。結城秀康は本太刀に「石田正宗」と名付け、生涯にわたって愛用しました。
上杉謙信
「謙信景光」(けんしんかげみつ)は、「上杉謙信」が手元に置いた刀剣として有名な短刀で、号は、上杉謙信が愛用したことに由来。
備前国長船派の刀工「景光」の手による短刀で、差表に「備州長船景光」、差裏に、「元享三年三月日」という銘が施されています。
刃身の表には秩父大菩薩が、裏には大威徳明王を現す梵字が彫られ、上杉謙信所用となる前は、「秩父神社」に奉納された短刀でした。
本短刀は、上杉謙信の後継「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)によって作成された、「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)という上杉家所蔵の名刀目録にも記載。
本短刀の作者・景光は、「長船三作」のひとりに数えられる名工で、上杉謙信は、景光や「長光」など、備前長船派の刀剣を高く評価し、愛用していました。
刀剣ワールドが所蔵している刀剣にも、所持銘の施された刀剣があり、刀剣の辿った来歴を知ることができます。
本刀剣は、徳川四天王のひとり「本多忠勝」(ほんだただかつ)の孫である「本多忠刻」(ほんだただとき:本多忠為とも)が所持していた太刀。差表に包永、差裏には金象嵌で「本多平八郎忠為所持之」と所持銘が施されています。
桑名城主であった本多忠刻は美男子として知られ、徳川家康の娘「千姫」(せんひめ)が彼に一目ぼれし、婚姻を結んだという逸話が有名。本多忠刻の死後、千姫が遺品として3代将軍「徳川家光」へ献上し、徳川家に伝来したのち、信濃国上田藩(現在の長野県上田市)の松平家に伝わりました。
本太刀の作者である「包永」(かねなが)は、鎌倉時代末期に大和国(現在の奈良県)の東大寺転害門付近で興隆した、手掻派(てがいは)の祖と言われる刀工で、大和伝でも有数の名工。
鎬地が広く、しっかりとした優美な太刀姿で、刃文は直刃に互の目が交じり、大和伝の特徴がよく現れています。
本刀剣も、桑名城主本多忠刻の所持銘が施された刀剣で、備前国長船派の刀工・兼光による作だと伝えられている物です。
兼光の銘を切る刀工は4名存在しましたが、本刀剣の作者は、南北朝時代の延文年間(1356~1360年)に活躍した、古刀最上作の刀工として有名。本刀剣は大磨上がされており、刀工銘は残されていませんが、「享保名物帳」を「徳川吉宗」に献上した「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)により兼光の作と極められ、その際、金象嵌で所持銘「本多平八郎忠為所持之」と刻まれました。
徳川吉宗のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。