1596年(慶長元年)以降に制作された日本刀を「新刀」(しんとう)と呼び、それ以前を「古刀」(ことう)と呼んで区別しています。新刀時代、徳川幕府の樹立後に将軍のお膝元となった江戸には、越前国(現在の福井県北東部)から「越前康継」(えちぜんやすつぐ)、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)、駿河国(現在の静岡県中部)から「野田繁慶」(のだはんけい)、近江国(現在の滋賀県)から「石堂是一」(いしどうこれかず)、但馬国(現在の兵庫県北部)から「法城寺正弘」(ほうじょうじまさひろ)が入り、江戸鍛冶繁栄の基礎を築きました。ここでは当時の時代背景と、「江戸新刀」の代表的な刀工について述べていきます。
徳川幕府の政治体制が整えられると、日本刀の所持に関する明確な規定も設けられました。武士の大小差し、すなわち打刀(うちがたな)と脇差(わきざし)の差料(さしりょう:自分が腰に差すための日本刀)の寸法が決められたのです。
また、武士ではない町人などでも、届出があれば、旅行時や夜間外出時の護身用として脇差の携行が許可され、こちらも差料の寸法が決められました。
このため、日本刀に対する新たな需要が増え、江戸時代以前から鍛刀が盛んであった美濃国(現在の岐阜県)や京都、越前国(現在の福井県北東部)だけでなく、全国各地の刀鍛冶が繁栄。日本の中心地である江戸での鍛刀も盛んになり、「大坂新刀」を生み出した大阪と並び、新刀期の主要生産地となります。
また、1657年(明暦3年)には「明暦の大火」が発生。江戸の大半を焼く大火災により武家屋敷の多くが被害を受け、所有されていた古刀も焼け身となってしまいました。このときの刀の不足を補うために、江戸新刀の刀工達は大いに活躍して需要に応え、その名声を後世に残したと伝えられています。
「新刀の刀工」をはじめ、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
1590年(天正18年)8月、古刀期に刀工界の牽引役として盛隆を極めた「備前長船派」(びぜんおさふねは)が、吉井川(岡山県東部)の大氾濫により壊滅状態に陥り、その活動を休止。長船派に代わって各地の大名に召し抱えられ、躍進したのが美濃国の刀工でした。
美濃は京都からも近い交通の要衝であり、また高い需要に対応できる量産体制をも発展させていたのです。越前康継は、そんな美濃の伝法である「美濃伝」を受け継ぐ刀工でした。
1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」の年に、康継は徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)に召し抱えられます。のちに、康継の刀工としての技量を認めた秀康の口添えにより、家康と2代将軍「秀忠」に仕えることとなり、越前から江戸へ移住。家康からも高く評価された康継は、「康」の一文字を賜ると同時に、自らの作品の「茎」(なかご)に「葵の御紋」を切ることを許されました。これらの功績により、康継は江戸新刀の祖とも言われています。
その後、越前康継の系統は、3代目で江戸と越前に別れて、それぞれが繁栄。江戸を拠点として幕府の御用鍛冶を務めた家系は11代まで続きました。
刀工「越前康継」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
長曽祢虎徹はもともと甲冑師でしたが、50歳を超えてから刀工へ転じ、老いるほどにその実力を発揮したと伝えられる異才です。刀工としては、「長曽禰興里」(ながそねおきさと)とも表記されます。
また、「虎」の異体字である「乕」の字を用いて「乕徹」と名乗った期間が長いことと、後期の作品に乕徹の銘が切られたことなどから、乕徹と表記する方がふさわしいとも言われていますが、一般的には「虎徹」の名前の方が有名です。
近江国佐和山城下(現在の滋賀県彦根市)に生まれた虎徹。生年に関しては諸説あり、1596年(慶長元年)生まれとする説では、関ヶ原の戦いの戦火を避けて父と共に越前国へ逃れ、のちに甲冑師になったとされています。
ところが江戸時代になると、戦で必要とされていた甲冑(鎧兜)の需要が減ったため、50歳の頃、江戸へ出て刀工に転向しました。虎徹が鍛えた日本刀は、類まれな切れ味と見事な刀身彫刻によって、江戸で人気を博したということです。
虎徹の作品の特徴は、当時の流行を反映して反りの浅い刀身が多く、地鉄(じがね)の杢目肌(もくめはだ)は詰んでいます。刃文は、足の入った互の目乱れ(ぐのめみだれ)や湾れ刃(のたれば)を得意としました。
刀身彫刻の名人でもあった虎徹は、「不動明王」(ふどうみょうおう)の化身である「倶利伽羅龍」(くりからりゅう)を多く手掛けましたが、「大黒天」(だいこくてん)や「蓬莱山」(ほうらいさん:不老不死の妙薬があるとされる伝説の山)、「風神雷神」(ふうじんらいじん)なども残しています。
切れ味は、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)と格付けされ、試し切りの達人「山野加右衛門」(やまのかえもん)が切れ味を茎(なかご)に記した、裁断銘「三ツ胴截断」(みつどうさいだん)と入った作品もあるとのことです。
刀工「長曽祢虎徹」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
野田繁慶は、三河国(現在の愛知県東部)で生まれ、のちに江戸へ移り、幕府のお抱え鉄砲工「胝惣八郎」(あかがりそうはちろう)に入門。鉄砲鍛冶名は「清堯」(きよたか)。徳川家康が駿河国へ隠居する際には、老齢を理由に辞退した師匠の惣八郎に代わって家康に付き従い、そこで全国の大社(たいしゃ:大きな神社)へ鉄砲を奉納しました。
駿河国では、「繁慶」の名前で日本刀の制作も始めました。刀工としての師匠は、越前康継であるとの説が有力。家康の没後、繁慶は江戸へ戻って鍛刀を続けました。
作風は、肌立った大板目肌に地景(ちけい)が強く現れた「松皮肌」(まつかわはだ)と呼ばれる個性的な鍛えで、刃文は沸(にえ)の際立つ互の目大乱れが多いとされます。
徳川秀忠
繁慶の気質を良く表す逸話も有名です。あるとき2代将軍徳川秀忠の前で、ある大名が繁慶の打った作品を刀剣鑑定を家業とする「本阿弥」(ほんあみ)に見せたところ、「相州正宗であろう」と鑑定しました。
これを面白がった忠秀が、繁慶を呼び出して鑑定結果を伝えると、繁慶は「自分の作品を正宗ごときと一緒にされては迷惑」と憤慨したとのこと。繁慶の自分の腕前に対する自信と、剛毅な一面がうかがえます。
刀工「繁慶」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
石堂是一は、初代「武蔵大掾是一」(むさしだいじょうこれかず)のこと。武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県北東部)の刀工で、「江戸石堂派」の代表格です。近江国蒲生郡(現在の滋賀県南東部)の出身。備前国「一文字助宗」(いちもんじすけむね)の末裔とも言われ、江戸に出て鍛刀に携わりました。
作風としては、地鉄に白く霞んだような乱れ映りが立ち、匂出来(においでき)に小沸の付いた大丁子刃(おおちょうじば)を焼くなど、鎌倉時代の「福岡一文字派」の作品に倣う一方、地鉄は小板目肌が詰み、鎬地(しのぎじ)に柾目肌(まさめはだ)が強く出るなど、一文字派とは一線を画す特徴も備えています。
是一の名前は、明治維新まで襲名されて続きました。
藤原是一作
江戸新刀の刀工達は、互いに切磋琢磨しながら技量を高めましたが、1637年(寛永14年)に起こった「島原の乱」の終結以降、平和な時代が続くと、実戦的な刀の需要は減ることになります。
代わりに、剣術が竹刀(しない)による稽古中心となったため、竹刀の形状に近い、反りが浅く、先幅(さきはば)の狭い小鋒/小切先(こきっさき)の刀が求められるようになりました。これが「寛文新刀」(かんぶんしんとう)で、江戸時代を代表する日本刀の姿です。寛文新刀制作の拠点は江戸であり、その武骨な刀姿は武芸者に好まれました。
寛文新刀の特徴が良く表れている作品を、江戸新刀の代表的な刀工のひとり、法城寺正弘(ほうじょうじまさひろ)も残しています。
法城寺正弘は、但馬国「法城寺派」の末裔であり、一門と共に江戸へ移って「江戸法城寺派」を創始。江戸石堂派と姻戚関係を結ぶなどして勢力を拡大し、数十名に上る刀工を擁して一大派閥を作り上げます。江戸では、法城寺家が幕府からの鍛冶関係の業務一切を任され、権勢を伸ばしました。
正弘の作風は、反りの浅い大きめな刀姿に、刃文は虎徹に似た足入りの互の目を焼いたため、虎徹の偽物として銘を変えられて流通したこともあると伝えられています。
「寛文十一年二月日」と銘に添えられた正弘の作品は、寛文新刀らしく、刀身の元幅(もとはば)と先幅の差が目立ち、反りのほとんどない直刀(ちょくとう)に近い刀姿です。地鉄、刃文共に出来が優れており、虎徹の作品に比肩する名作と言えます。