江戸時代
鳥羽・伏見の戦い
江戸時代
鳥羽・伏見の戦い

文字サイズ

「鳥羽・伏見の戦い」は、旧幕府軍と新政府軍との戦い「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦です。現在の京都市南区・伏見区にあたる、山城国 鳥羽・伏見で1868年1月27日(慶応4年1月3日)に起こったこの戦いから1年4ヵ月もの間、日本の内乱である戊辰戦争は続きました。

大政奉還による江戸幕府の終わり

大政奉還

大政奉還

長い間、「鎖国」(さこく)として外国との交流・貿易を禁止してきた日本ですが、1853年(嘉永6年)、米国のペリー率いる黒船来航により、「開国」を迫られることに。

日本国内では、外国を撃退・排除しようとする「攘夷」(じょうい)と開国とで考えが分かれる他、幕府ではなく天皇に忠義を尽くす「勤皇」(きんのう)、幕府を排除する「倒幕」(とうばく)、幕府を支持する「佐幕」(さばく)など様々な思想が生まれ、不安定な情勢となってしまいます。

「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が第15代将軍となった1866年(慶応2年12月5日)は、倒幕思想が広まり、幕府の弱体化が加速している時期でした。薩摩藩・長州藩が中心となって武力による倒幕が推し進められるような状況で、慶喜は土佐藩からある提案を受けます。将軍が自ら政権を天皇に返上するという「大政奉還」。慶喜はこの提案を受け、1867年(慶応3年12月9日)、260年以上続いた江戸幕府に終止符が打たれました。

なお、形式的に政権を返上した慶喜ですが、実質的には「朝廷」(天皇)から委任される形で政権を握り続けることになります。もちろん、討幕を目指していた薩摩藩・長州藩はこの状況に納得ができません。また、佐幕派の会津藩・桑名藩・紀州藩からも政権を返上したことへの反発が強まり、慶喜が望んでいた平和的解決は難しい状況に陥ってしまいました。

西郷隆盛率いる薩摩藩による挑発

西郷隆盛

西郷隆盛

あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)は、浪人を集め、江戸で強盗や略奪、殺傷を繰り返します。

現在でいうテロ攻撃であり、被害は民衆にも及びました。これは幕府(旧幕府)への挑発行為であり、最終的な狙いは倒幕。幕府側は挑発行為に乗ってしまい、1868年1月19日(慶応3年12月25日)に江戸の薩摩藩邸を襲撃します。

この襲撃を発端として、薩摩藩と旧幕府軍の戦いが始まるのです。

旧幕府軍・慶喜のターゲットは薩摩藩

徳川慶喜

徳川慶喜

周囲の「討薩」(薩摩藩を倒す)の声に押された慶喜は、1868年(慶応4年元旦)に、「討薩の表」を出して薩摩藩への攻撃を宣言します。

京都の封鎖を目的に掲げて大阪から京都に兵を進める旧幕府軍。3日午前、京都南部の鳥羽街道で薩摩藩と相対することになります。旧幕府軍は通行を求めますが、薩摩藩は拒否し、朝廷からの許可が出るまで待つように返答します。夕方を過ぎた頃、交渉が進展しないことに腹を立てた旧幕府軍が強引に前進した直後、薩摩藩が大砲・銃で一斉に攻撃を開始。不意の攻撃に驚いた旧幕府軍は不利な戦いを強いられ敗走します。

なお、伏見においても、旧幕府軍と薩摩藩・長州藩による同様の口論が行なわれていましたが、鳥羽方面からの銃声を皮切りに開戦。旧幕府軍は伏見奉行所を本陣として戦いましたが、弾薬庫に砲弾を打ち込まれて奉行所が炎上、ここでも旧幕府軍は撤退を強いられます。

錦の御旗の登場で旧幕府軍は朝廷(天皇)と戦うことに

開戦翌日の1月4日、旧幕府軍は驚きの光景を目にします。敵陣に掲げられた「錦の御旗」。この旗は朝廷(天皇)を意味し、これから戦う敵である薩摩藩・長州藩の軍が、正式な朝廷の軍と認められたことが分かったのです。

天皇の敵となることは、旧幕府軍の武士も考えていなかったのでしょう。一気に士気が下がっただけでなく、これまで旧幕府軍の味方をしていた各藩においても朝廷と戦うことに消極的となり、旧幕府軍は窮地に立たされます。

総大将 慶喜の逃亡、旧幕府軍の大敗

大坂城

大坂城

旧幕府軍の総大将である慶喜は、大坂城にて戦いを見守っていました。もともと戦う意志はあまりなかった慶喜ですが、錦の御旗の登場で一気に戦意喪失。1月6日の夜、わずかな家臣を引き連れて船で江戸へ逃げ帰ってしまいました。

総大将を失った旧幕府軍は、新たに新政府軍に加わった各藩からの攻撃も受け、敗走。1月3日から続いた鳥羽・伏見の戦いは、1月6日に旧幕府軍の大敗で終わりました。

旧幕府軍1万5千、新政府軍5千、なぜ旧幕府軍が負けたのか

鳥羽・伏見の戦いにおける戦力は、旧幕府軍1万5千、薩摩藩・長州藩率いる新政府軍5千と言われています。3倍もの兵力を誇っていた旧幕府軍は、なぜ敗北してしまったのでしょうか。研究者によって見解は様々ですが、主に語られている敗北理由を紹介します。

装備の差

西洋銃を装備した兵

西洋銃を装備した兵

新政府軍は、幕府との戦いに備えて最新兵器を確保していました。最新型の西洋銃・大砲を装備して、相手を迎え撃つ準備ができていたのです。

一方、幕府陸軍、新撰組、会津藩、桑名藩で構成されていた旧幕府軍のうち、最新型の西洋銃を装備していたのは幕府陸軍のみでした。幕府陸軍は6千名配備されていたそうですが、装備に差がある軍隊では、統率が難しかったと想定されます。

天下の新撰組でも、最新兵器の前では十分な力を発揮できなかったのでしょう。この戦いによって、隊士の3分の1が犠牲になったと言われています。なお、このとき新撰組局長「近藤勇」が、怪我の療養中で指揮を執れない状況だったことも、少なからず影響があったかもしれません。

鳥羽・伏見の戦いによる戦没者数は、新政府軍110名、旧幕府軍280名。この数からも旧幕府軍の犠牲の大きさがうかがい知れます。

戦意の差

また、兵士の士気にも大きな差があったと想定されます。旧幕府軍は、薩摩藩に挑発されて仕方なく戦うことになったため、急遽指名された指揮官で兵士も寄せ集め。討薩の表を出したものの、実際に戦う気はなかったという説もあるほどです。

大阪から京都に兵を進めていた旧幕府軍は、不意をつかれる形で薩摩藩に足止めされました。このとき、まだ戦いを想定していなかった旧幕府軍は、銃に弾丸を込めていなかったそうです。

一方の新政府軍は、倒幕を掲げて尽力してきた薩摩藩・長州藩の志士。ついに絶好のチャンスが巡ってきた状況で、闘志に燃えています。旧幕府軍を足止めして口論を続けていたときも、いつでもすぐに戦闘を開始できるよう、銃を構えていました。戦う気のない相手に一斉攻撃をしかけたことで、兵力の勝る旧幕府軍に対して有利な戦いができたのです。

京都という場所

京都の町並み

京都の町並み

京都の町並みと言えば、碁盤の目の狭い路地が特徴。現在は、風情のある美しい京都の町並みですが、戦いには不向きな場所でした。狭い道では大軍を一気に進めることはできません。旧幕府軍は「数の利」を活かすことができず、命令も徹底されずに、それぞれの兵士が勝手に戦うことになってしまったのです。

新政府軍の場合、敵から見えない路地に小銃部隊をしのばせるなど、この町並みをうまく利用して戦いました。新政府軍は京都の街をよく知っていたため、その「地の利」が数の利に勝ったのです。

新政府軍の妙案「錦の御旗」

錦の御旗

錦の御旗

新政府軍の士気を高めると同時に旧幕府軍に大きな打撃を与えたのが、天皇の象徴である「錦の御旗」でした。

この旗は、新政府軍と親交のあった公家「岩倉具視」(いわくらともみ)の指示で秘密裏に作られた物で、天皇の了承なく勝手に制作された物。実際の錦の御旗は何百年も使用されていなかったため、本物を見たことのある人間は存在せず、勝手に制作された物かどうかも分からない状況だったのです。

なお、錦の御旗が掲げられたのは、正式に天皇に認められ、新政府軍が朝廷の軍となった直後でした。新政府軍の下準備の良さが功を奏したのです。

慶喜による決断

鳥羽・伏見の戦いは、慶喜の討薩の表に始まり、慶喜の逃亡で終わった戦いとも言えます。慶喜は結局、体調不良を理由に出陣は一度もせず、大坂城から動きませんでした。戦う気はあったのか、どうして逃げ出してしまったのか、慶喜の真意は分かりません。ただ、慶喜は「尊王」思想の強い水戸藩出身で、母親は皇族でした。大政奉還を行なったのも尊王思想あってのことでしょう。錦の御旗に向かって攻撃することは、信念に反していたのかもしれません。

勝海舟

勝海舟

また、慶喜は「徳川家康の再来」と称されるほど、切れ者だったと言われています。まだ見ぬ未来の日本を思って、最良と思える決断をしたのかもしれません。

鳥羽・伏見の戦いのあと、1868年4月11日(慶応4年5月3日)には、一切の抵抗なく江戸城を新政府軍に明け渡し、江戸を戦火から守りました。この「江戸城の無血開城」は、幕府側の「勝海舟」と新政府側の「西郷隆盛」による功績とされていますが、慶喜の決意がなければ、この平和的解決も成し遂げられなかったのです。

鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦いをSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「江戸時代」の記事を読む


大坂冬の陣・夏の陣

大坂冬の陣・夏の陣
1614年(慶長19年)11~12月と、1615年(慶長20年)4~5月。大坂で豊臣軍と徳川軍(幕府)が対峙する合戦が発生しました。「大坂冬の陣・夏の陣」です。戦いに敗れた豊臣宗家は滅亡し、徳川家を頂点とした長期安定的な政権が本格化することになりました。なお、「大阪」は明治以前「大坂」と表記されており、本稿では大坂と表記します。

大坂冬の陣・夏の陣

島原の乱

島原の乱
1637年(寛永14年)12月11日から1638年(寛永15年)4月12日の間、日本の歴史上最大規模の一揆が発生しました。九州西部に位置する島原半島と天草諸島の領民が、藩の圧制や重税に耐えかね、キリシタン(カトリック教徒)迫害への不満も積み重なって、内戦を起こしたのです。幕末以前では最後の本格的な内戦となり、攻防は4年にもわたりました。鎮圧の1年後には、ポルトガル人が日本から追放された上、「鎖国」へと繋がっていったのです。

島原の乱

薩英戦争

薩英戦争
「薩英戦争」(さつえいせんそう)は、幕末(江戸時代末期)に、薩摩藩とイギリス艦隊との間に起こった戦争のことです。その引き金になったのは、1862年(文久2年)8月、当時薩摩藩主だった島津茂久の父・久光の大名行列が数百名の藩士達と江戸から薩摩へ帰る途中、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)にさしかかったところで、観光で川崎大師に向かう途中だったイギリスの商人・リチャードソンら4人が、騎乗したまま久光の大名行列の中へ入り込み、列を乱したことに始まります。

薩英戦争

注目ワード

ページトップへ戻る