明治時代

明治政府とは

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260年以上続いた徳川家による江戸幕府が終わり、1868年(慶応4年)1月、天皇を中心とした新しい政府「明治政府」が成立します。同年3月、明治政府の基本方針として「五箇条の御誓文」(ごかじょうのごせいもん)を発布、同年9月には元号を「明治」と改め、明治時代が始まります。明治政府は、「富国強兵」(ふこくきょうへい)をスローガンに、中央集権化、そして西洋諸国に後れを取っていた近代化を目指して政治的改革を進めていきました。1912年(明治45年)7月、「明治天皇」(めいじてんのう)が崩御し、明治時代、そして明治政府は終焉を迎えます。

明治新政府の成立

江戸幕府が終わり、新政府として樹立

明治天皇

明治天皇

明治維新」(めいじいしん)と呼ばれる政治改革により、1868年(慶応4年)1月「五箇条の御誓文」が発布され、江戸幕府に代わる新政府「明治政府」が発足します。

初期の明治政府は、江戸幕府倒幕に貢献した薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)出身者で固められました。同年9月には、天皇1代につき、ひとつの元号を用いる「一世一元の制」(いっせいいちげんのせい)を定め、年号を「明治」に改めます。

その後、明治政府は、江戸幕府の因習から脱却するため、「版籍奉還」(はんせきほうかん)を勅令。これは、全国のが所有する土地と人民を朝廷に返還させるための改革でしたが、旧藩主はそのまま知藩事(ちはんじ)として実権を握り続けたため、1869年(明治2年)に「廃藩置県」(はいはんちけん)を断行したのです。

欧米の先進諸国に倣った廃藩置県は、藩を廃止して府県に改めるもので、旧藩知事はすべて華族(かぞく)に列せられ、新たに設けられた府知事や県知事は、明治政府が任命。また、蝦夷地を北海道と改称し、先住民族「アイヌ」の土地を一方的に明治政府に帰属させ、国策として北海道の開拓を進めます。

1879年(明治12年)には、軍事的な圧力を用いて、「琉球王国」(りゅうきゅうおうこく)も滅亡に追い込み、沖縄県を設置。明治政府を中心とした中央集権化を進めたのです。

富国強兵をスローガンに躍進

全国で多発した不平士族の反乱

西郷隆盛

西郷隆盛

欧米諸国、すなわち列強に大きく後れを取っていることを痛感していた明治政府は、「富国強兵」をスローガンに掲げます。政府が率先して産業を保護、育成する「殖産興業」(しょくさんこうぎょう)による資本主義化と、近代的軍事力の創設を明治政府の根本政策としました。

常備軍を設立するため1873年(明治6年)には、国民に兵役の義務を負わせる「徴兵令」(ちょうへいれい)を公布し、近代的な軍隊の整備も進めていきます。

しかし、明治政府成立後、日本の開国要求を拒否する「朝鮮」に対して、武力を行使して開国を迫る「征韓論」(せいかんろん)で政府は二分することになりました。

征韓論を唱えたのは、江戸幕府倒幕にあたり、元勲(げんくん:国家に尽くして大きな功績を挙げた者)でもあった「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「板垣退助」(いたがきたいすけ)ら。西郷隆盛らは、倒幕に貢献したにもかかわらず、明治政府により刀や俸禄(ほうろく:大名に仕えた者が受け取る給与)を奪われた武士階級の不満をそらすためにも征韓論を主張しましたが、これに破れ、政治の中枢から去ることになりました。

この士族の不満はやがて爆発し、全国で不平士族の反乱が巻き起こります。1877年(明治10年)には、鹿児島県の士族が西郷隆盛を担いで、日本国内で起こった最後の内戦「西南戦争」(せいなんせんそう)が勃発。半年以上に亘り、激しい攻防戦が行われますが、近代的な軍隊を整備していた明治政府が勝利し、西郷隆盛は自決を遂げています。

加熱する自由民権運動により、内閣制度の創立

初期の明治政府は、明治維新に貢献した薩摩藩や長州藩が占める「藩閥政府」(はんばつせいふ)でもありました。藩閥政府に不満を抱きつつも、武力による反乱は明治政府には効果がないと悟った板垣退助らは、言論により政府批判を続け、やがて「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)へと発展していきます。

藩閥政府に対して、選挙による議会の開設や立憲体制を要求したのです。明治政府は、たびたび官僚制を変更しますが、自由民権運動の高まりを受け、天皇に直属する組織として新たに「内閣制度」が創設されました。

現在よりも、内閣総理大臣の統制権がかなり強いものでしたが、新しい内閣制度のもと、憲法の制定や法治国家として必要な法の制定などを進めていったのです。明治時代の歴代内閣総理大臣と、各内閣の功績を見ていきましょう。

初代 伊藤博文(いとうひろぶみ)
在任:1885年(明治18年)~1888年(明治21年)。

長州藩出身で、明治維新の功臣であり、内閣制度が導入される前から明治政府の中心で政治手腕を振るっていた「伊藤博文」は、歴代最年少の44歳で初代内閣総理大臣に就任。

1886年(明治19年)の学校教育に関する法令「学校令」の制定、「市制」や「町村制」を導入し地方統治制度を確立します。しかし、1887年(明治20年)には、「保安条例」を発布して自由民権論者を東京から追放しました。

2代 黒田清隆(くろだきよたか)
在任:1888年(明治21年)~1889年(明治22年)。

薩摩藩出身で、旧幕府軍と明治新政府が争った「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)には参謀として従軍。1876年(明治9年)には、国家を代表する全権大使として、日本が朝鮮に開国を求めた「日朝修好条規」の締結も行っています。

内閣総理大臣に就任後、1889年(明治22年)、天皇主権を謳った「大日本帝国憲法」を発布するも、江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正に失敗し、辞職しました。

3代 山県有朋(やまがたありとも)
在任:1889年(明治22年)~1891年(明治24年)。

長州藩出身で初期の明治政府では、軍政の整備で活躍。内閣総理大臣として府県制や郡制の制定を交付し、地方自治制度を推進しました。

1890年(明治23年)には、天皇制国家の思想や国民道徳の基本を示した「教育勅語」を発布し、天皇制の確立強化に尽力します。また、貴族院と衆議院の2院からなる、第1回「帝国議会」を開催しますが、予算削減についての攻撃を受け、閉会直後に総辞職しました。

4代 松方正義(まつかたまさよし)
在任:1891年(明治24年)~1892年(明治25年)。

薩摩藩出身で、明治維新の中枢として活躍した「大久保利通」(おおくぼとしみち)の推薦により、日田県(現在の大分県西部)知事に就任した「松方正義」。

明治政府の中枢で地租改正や殖産興業政策に尽力しました。内閣総理大臣就任直後に、来日中だったロシア皇太子「ニコライ・アレクサンドロビッチ」が、滋賀県大津で負傷する「大津事件」が起こり、外相を更迭。内相「品川弥次郎」(しながわやじろう)による選挙干渉が問題となり、総辞職となりました。

5代 伊藤博文 2回目 
在任:1892年(明治25年)~1896年(明治29年)。

伊藤博文を中心に、元勲(げんくん:国家に尽くして大きな功績を挙げた者)総出で組織されたことから、「元勲内閣」(げんくんないかく)とも呼ばれています。

1894年(明治27年)に、イギリスとの不平等条約の改正に成功し、「日英通商航海条約」を締結。また同年、「清」(しん:現在の中国)との間で起こった「日清戦争」に勝利し、「下関条約」を調印します。

1895年(明治28年)には、下関条約により譲渡された「遼東半島」(りょうとうはんとう)を巡って、フランス、ドイツ、ロシアからの勧告「三国干渉」(さんごくかんしょう)を受けました。

6代 松方正義 2回目
在任:1896年(明治29年)~1898年(明治31年)。

「大隈重信」(おおくましげのぶ)を外相に迎え、「松隈内閣」(しょうわいないかく)とも称されます。

軍備の拡張や教育、濃商工業の発展を課題に運営し、金を束価値の基準とする金本位体制を確立するため「貨幣法」を交付。貿易振興関連や軍拡予算などを成立させますが、財源に困窮したことで地租増徴案を提出したため、大隈重信らと対立。内閣不信任案により総辞職に至ります。

7代 伊藤博文 3回目
在任:1898年(明治31年)。

総選挙で議席をほぼ独占した自由党と進歩党と提携を試みますが、これに失敗。そのあと、自由党と提携するも、党首の板垣退助が入閣できなかったことで、自由党とも決裂してしまいます。日清戦争後の経営の財源を安定させるため、地租増徴案を提出しますが否決され、総辞職しました。

8代 大隈重信(おおくましげのぶ) 
在任:1898年(明治31年)。

1898年(明治31年)に、自由党と進歩党が合同した憲政党を基礎とした、日本初の政党内閣として誕生。板垣退助を内相に置いたため「隈板内閣」(わいはんないかく)とも呼ばれます。大臣の座を巡り、旧自由、進歩の両党が争い、結局は分裂。短い在任で内閣は倒れてしまいました。

大隈重信は、藩閥政府に対抗していたため、倒閣工作も行われたと言われています。

9代 山県有朋 2回目
在任:1898年(明治31年)~1900年(明治33年)。

軍備拡張、ならびに日清戦争後の経営財源確保のため、内外の反対を押し切り、地租増徴を実現。藩閥政府に対抗する政党勢力の浸透を妨げる「文官任用令」(ぶんかんにんようれい)の改正や、急速に成長し始めた労働者や農民による労働運動を抑えるため、「治安警察法」を制定しました。

また、現役の軍部大臣の就任資格を現役の大将や中将に限定する「軍部大臣現役武官制」を制度化。1900年(明治33年)に清で発生した「義和団事件」(ぎわだんじけん)の鎮圧のため、大軍を派遣したことが列強に高く評価され、帝国主義国として認められるに至ります。

10代 伊藤博文 4回目
在任:1900年(明治33年)~1901年(明治34年)。

自ら総裁となった政党、立憲政友会を中心に組閣。義和団事件後の処理のために提出した増税案を貴族院に反対され、総辞職します。

軍備増強や産業資材の生産増大を図るため、福岡県八幡村(現在の福岡県北九州市八幡東区)で「官営八幡製鉄所」(かんえいやはたせいてつじょ)の操業が開始しました。

11代 桂太郎(かつらたろう)
在任:1901年(明治34年)~1906年(明治39年)。

山県有朋を中心とした長州派閥として成立しましたが、明治維新の元勲ではなく、世代交代が進み始めた最初の内閣と言われています。1902年(明治35年)、ロシアを巡って利害が一致するイギリスと「日英同盟」(にちえいどうめい)を締結。

在任中の1904年(明治37年)に「日露戦争」が勃発するもこれに勝利し、ロシアと「ポーツマス条約」を結びました。しかし、講和条約の内容を不服とする「日比谷焼き討ち事件」が起き、総辞職しています。

12代 西園寺公望(さいおんじきんもち)
在任:1906年(明治39年)~1908年(明治41年)。

前任・桂太郎の推薦を受け、財閥の支持も得た立憲政友会を基礎に成立し、日露戦争後の経営として、さらなる軍備の拡張を推進しました。

また、1906年(明治39年)には「鉄道国有法」を施行し、鉄道を国有化。産業面、また軍事面から統一的な路線を確保するため私営鉄道も買収されたのです。交通機関の整備や産業発展を促しますが、日露戦争後に始まった戦後恐慌により、財政がひっ迫したことを非難されて総辞職しています。

13代 桂太郎 2回目
在任:1908年(明治41年)~1911年(明治44年)。

2回目の内閣総理大臣職に就いた桂太郎は、蔵相も兼任して財政再建に奮闘しますが、結果を出すことができません。日露戦争後、引き続き混乱する社会を収めるため、1908年(明治41年)「戊辰詔書」(ぼしんしょうしょ)を発布。

人々に、華美を戒め、勤倹を求めて天皇制国家における国民道徳を提示します。しかし、1910年(明治43年)5月、明治天皇暗殺を企てた「大逆事件」(だいぎゃくじけん)が発生。また1911年(明治44年)には、室町時代の南朝と北朝のどちらが正当であるかを巡る「南北朝正閏問題」(なんぼくちょうせいじゅんもんだい)が政治でも問題化していきます。

外交では1910年(明治43年)には日露協約改定や、「韓国併合」(かんこくへいごう)などで帝国主義政策を推進。1911年(明治44年)には、アメリカと「日米通商航海条約」を改正、締結し、関税自主権を回復しました。

14代 西園寺公望 2回目
在任:1911年(明治44年)~1912年(明治45年)。

2回目の就任となった西園寺公望内閣では、行財政整理を行い、帝国主義政策を修正。

世論から支持を集め、1912年(明治45年)の総選挙では、所属する立憲政友会が大幅に議席を伸ばします。行財政経理も進みますが、1912年(明治45年)、明治天皇が崩御。政府の海軍充実政策に対し、陸軍も師団の増設を主張し、内閣が拒否すると陸軍相が単独で辞職したことで、内閣も総辞職となりました。

殖産興業の推進と、戦争勝利で列強の仲間入り

富岡製糸場

富岡製糸場

初期の明治政府は、国防に必要な軍需産業と、輸出品の主力だった製糸業を中心に殖産興業を推進していきます。

外国人を招き、最新技術を導入。軍事、鉄道、造船、紡績などで、日本各地に官営の工場を設立し、私企業も育成していきます。

また、幕末に結ばれた欧米諸国との不平等条約の改正を目指す傍ら、アジア諸国には高圧的な外交政策を採りました。

1894年(明治27年)の「日清戦争」、1904年(明治37年)の「日露戦争」が勃発しますが、この2つの戦争のどちらにも勝利。産業革命により、日露戦争後には、重工業も著しく発展していき、日本は世界の列強と肩を並べるほど目覚ましい近代化を成し遂げたのです。

西洋に大きく刺激を受けた文明開化

生活様式の西洋化

ザンギリ頭

ザンギリ頭

近代化に向けた政府の動きは、一般市民へも波及していきます。現実的には士族階級が政治の中枢を担っていたものの名目上は身分制度が撤廃され、身分における上下関係の意識も徐々に薄れていったと言えるのです。

例えば、1871年(明治4年)には「散髪脱刀令」(さんぱつだっとうれい)が敷かれ、武士や町人の区別がつかない「ザンギリ頭」が一般化。開国により、一気に流入した西洋の文化も、特に東京や横浜などの都市部を中心に普及していきました。

人々は、ザンギリ頭に洋服を身に着け、牛鍋やあんぱんなどの洋食に親しむようになります。また、ガス灯や鉄道の開通、レンガ造りの洋風建築なども急増し、生活様式は著しく変化していったのです。

しかし、欧米の影響を受け、生活が一変した「文明開化」の影響は、東京、そして開港地だった横浜や神戸が中心で、農村や漁村における生活は昭和時代まで大きく変化しなかったと言われています。

近代文学と新しい芸術の誕生

明治時代の文化の特色としては、急速な近代化、そして西洋文化に刺激を受けながら、日本独特の文化を構築していきました。文学は、教育制度の充実や出版事業の活発化も影響し、政治や社会と連動して成熟していきます。

例えば、江戸時代に普及した勧善懲悪をもとにした小説や滑稽本ではなく、現実的な心情や感情を描く、「写実主義」や「ロマン主義」と呼ばれる文学が誕生。「当世書生気質」(とうせいしょせいかたぎ)の「坪内逍遥」(つぼうちしょうよう)や、「浮雲」(うきぐも)の「二葉亭四迷」(ふたばていしめい)、「吾輩は猫である」の「夏目漱石」(なつめそうせき)などが有名です。

また、写実主義を俳句にも投影した「正岡子規」(まさおかしき)を始め、女性作家の「与謝野晶子」(よさのあきこ)や、「樋口一葉」(ひぐちいちよう)なども登場しました。

絵画では、フランスに留学し西洋画を学んだ「黒田清輝」(くろだせいき)が、日本における西洋画の基礎を築きます。また、「横山大観」(よこやまたいかん)などは、西洋の絵画様式を取り入れながらも新しい日本画を描き、彫刻家の「高村光雲」(たかむらこううん)は、西洋の様式を学びながらも日本の木彫を復興させました。

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