江戸時代

桜田門外の変

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「桜田門外の変」は、尊皇攘夷派(そんのうじょういは:天皇を守るために外国勢を排除する思想を持った一派)の浪士が起こした大老「井伊直弼」暗殺事件のこと。事件後、幕府の権威は失墜し、265年続いた江戸時代も終わりを迎えることになります。

幕末の江戸幕府が抱えていた問題

諸外国の圧力

ペリー来航

ペリー来航

幕末時代の安政年間、江戸幕府は2つの大きな問題を抱えていました。ひとつは、ペリー来航から続いていた「日米通商条約」調印問題。そして、もうひとつは将軍後継者問題です。

アメリカの総領事「ハリス」は、静岡県下田市の「玉泉寺」を拠点として幕府に通商条約締結を迫り、さらに諸外国も日本と条約を結ぼうとしていました。幕府は、鎖国を継続したいと思う一方で、日本には諸外国を拒絶し続ける軍事力がないということを熟知していたのです。

しかし、長い期間鎖国を続けた結果、国外情勢などを知らない日本国民の多くは、開国を反対。当時の人々にとって海外の人間は、大砲を撃ち込んで強引に侵略しようとする野蛮な民族と言う認識でした。

賢明のほまれ高い将軍、血筋の良い将軍、どちらを選ぶべきか

徳川慶喜

徳川慶喜

徳川幕府13代将軍「徳川家定」は、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男。徳川家慶の息子のなかで、唯一成人まで生きた人物でしたが、幼少の頃から病弱で、ペリーが来航したときにも体調を崩していました。また、子供ができる見込みもなく、次の後継者を誰にするかということが早くから問題視されていたのです。

諸外国が押し寄せる難局に立ち向かうには、有能な将軍が必要でした。そして、後継者候補に挙がったのが、前水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の第7子で一橋家当主の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの「徳川慶喜」)。一橋慶喜を推したのは、老中「阿部正弘」(あべまさひろ)の他、越前藩主「松平慶永」(まつだいらよしなが)、薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)など、いわゆる「一橋一派」です。

一方で、血筋を重んじて将軍・徳川家定の従兄弟である紀州藩主「徳川慶福」(とくがわよしとみ:のちの「徳川家茂」)を将軍にすべきだという声もありました。

紀州藩の付家老(つけがろう)である「水野忠央」(みずのただなか)を中心とした「南紀派」は、伝統を守ろうとする保守派の幕臣と共に、徳川家茂を将軍にするために動きます。そのなかには、彦根藩主であった「井伊直弼」(いいなおすけ)もいました。

井伊直弼
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主な江戸100藩
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井伊大老、江戸幕府の権力を守るために弾圧をはじめる

井伊直弼、大老となって権力を握る

老中・阿部正弘の死後、将軍後継者問題は松平慶永配下の「橋本左内」(はしもとさない)や、島津斉彬の命を受けた「西郷吉兵衛」(さいごうきちべえ:のちの「西郷隆盛」)らの活躍によって、一橋慶喜が将軍職に就く流れが生じますが、ここで南紀派は、一発逆転の手を打ちます。

1858年(安政5年)、南紀派の画策により井伊直弼が幕府の最高職「大老」に着任。井伊直弼がはじめに手を付けたのは、外交問題です。

当時京都にいた「孝明天皇」(こうめいてんのう)は、攘夷論(じょういろん:外国との関係を拒絶する排外思想のこと)を持っていた一方で、外国と戦争になることは望んでいませんでした。井伊直弼は、かえってそれを利用して朝廷から条約締結の許可を得られるように動きますが、朝廷はなかなか許可を下しません。

条約締結に奔走する一方で、将軍後継者問題では強攻策が講じられました。はじめに、重要な役職にあった一橋派の役人を左遷。そして、なかば強引に徳川慶福を将軍の後継者として擁立したのです。

一橋派の憤激と受難

吉田松陰

吉田松陰

もともと井伊直弼は、天皇の勅詔(ちょくしょう:天子の命令)がないまま通商条約を結ぶことには反対していました。しかし、戦争に発展して土地を外国に奪われるのは、朝廷も望んでいないという意見に押され、このまま調印することもやむを得ないと考えます。

将軍後継者として選ばれたのは徳川慶福で、さらに通商条約は天皇の勅詔なしに締結。一橋派はこれに激怒し、井伊直弼による勝手な振る舞いに糾弾します。

井伊直弼は、幕府の権威を守るために一橋派を力で押さえました。徳川斉昭を水戸に追いやり、松平慶永や一橋慶喜を隠居、謹慎にするなど一橋派の諸大名を次々に処罰していきます。

この断行事件は「安政の大獄」と呼ばれ、井伊直弼に異名「井伊の赤鬼」が付けられるきっかけとなった出来事です。

幕府に反対する大名家の家臣や、尊王攘夷派の志士も対象になり、水戸藩家老「安島帯刀」(あじまたてわき)のように切腹させられた者や、橋本左内、「吉田松陰」(よしだしょういん)のように死罪に処された者もいました。

なお、捕らえられた反対派の者達は、死罪になるほど重い罪になるとは思っておらず、また裁く側の老中達も、あまりに残虐な行ないに誰もが恐れたと言います。

赤鬼斬るべし!世間を震撼させた江戸城間近の惨劇

大雪の日、桜田門外に血の雨が降る

桜田門外の変

桜田門外の変

多くの仲間を失った反対派の憎しみは、すべて井伊直弼へと集まりました。

井伊直弼の独裁と弾圧は、多くの反感を呼び、ついには「井伊直弼を暗殺すべし」と言う声が上がります。これに呼応したのが水戸藩の志士。井伊直弼を討つために脱藩し、江戸へ向かいました。

なお、暗殺計画は井伊直弼本人のもとにも届いていましたが、井伊直弼は動じることなく、ふだんと変わらない暮らしを続けていたと言います。

そして、迎えたのが1860年(安政7年/万延元年)3月3日。雛祭りを祝うために登城(とうじょう:江戸の大名が江戸城に集まること)をする日でした。夜中から季節はずれの雪が降り、早朝の愛宕山に複数の男が集合します。それは、井伊直弼を狙う浪士達でした。

首謀者で見届け役の「金子孫二郎」(かねこまごじろう)の他、「関鉄之助」(せきてつのすけ)、「斎藤監物」(さいとうけんもつ)をはじめとする水戸脱藩士17名、そして薩摩から参加したのは「有村次左衛門」(ありむらじざえもん)。

浪士達は、それぞれ別行動を取るふりをしたのち、3人、もしくは4人ずつに別れて桜田門の近くにやってきました。武鑑(ぶかん:大名や幕臣の名簿)を手にしながら大名行列を見物する者、濠端(ほりばた:堀のほとり)の酒屋にとびこんで雪見酒をたしなむ者、ただ急ぎ足で進んでいく者。町民に扮した浪士達が待ち構えるなか、大名行列がやってきます。

供廻りの徒士(かち:下級武士)、足軽、駕籠舁(かごかき:駕籠の担い手)など60余人。護衛の徒士達は、雪に備えて雨合羽を着用し、刀剣には袋をかぶせていました。町民のふりをした浪士がひとり、書面を持ったまま行列の先頭に近づきます。そして浪士は、油断していた徒士を斬り、辺りは大騒ぎになりました。

供先に狼藉者(ろうぜきもの)が現れたとの報せに驚いた侍達は、助太刀をするために先頭へと走って行ったことで、井伊直弼を乗せた駕籠の護衛が手薄になります。銃声がとどろき、これを合図に浪士達が駕籠へと襲いかかりました。

雪で視界が悪いなか、浪士達は敵味方を区別するための合い言葉を叫びながら奮戦。一方で、雨合羽を着た上に、刀剣を袋で覆っていた井伊直弼の護衛達は苦戦を強いられます。

この時点で駕籠舁はすでに斬られるか逃げるかして、井伊直弼の駕籠は地面に置かれたままになっていました。浪士達は、駕籠ごと井伊直弼を何度も突き刺します。

しばらくして、井伊直弼は駕籠から引きずり出され、何かを言おうとしますが声は出ません。薩摩の浪士・有村次左衛門は、井伊直弼の横に立つと刀剣で斬りかかり、その首を刎ねました。

これが独裁政治を押し進めていた井伊直弼の最期です。事件後、物見高い江戸っ子達が多く集まり、桜田門外は見物人で溢れ、この事件を扱った瓦版は飛ぶように売れたと言います。

事件後の江戸幕府、そして日本

桜田門外の変は、双方に多数の死者を出す激しい戦いとなりました。生き残った浪士達は自首をするか、あるいは捕らえられ、その後処刑されます。

幕府の最高権力者が、江戸城の近くで一介の浪士に討ち取られたと言う出来事は、身分制度が厳格であった当時において衝撃的な事件でした。そして、井伊直弼が守りたがっていた幕府の権威は、その死と共に崩壊。のちに、藩士や浪人が大名達を押しのけて政局の表舞台に現れるようになり、泰平の江戸時代も終わりを迎えるのです。

桜田門外の変

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