江戸時代中期以降、長く平和な時代が続いたために、日本刀の需要も次第に減っていきました。刀鍛冶の手法そのものも簡素化されることとなり、かつては隆盛を極めた各地の刀工達も苦しい状況に陥ります。しかし、1772年(安永元年)に始まる安永期になると、「水心子正秀」(すいしんしまさひで)をはじめとする意欲的な刀工達が登場して「刀剣復古論」を提唱。「刀剣復古論」とは、南北朝時代から室町時代初期頃の「古刀」(ことう)の鍛錬法に復元すべきであるという主張です。彼らは、古い時代の日本刀を研究し、さらに、製鉄技術の進歩によって得られた地鉄(じがね)を用いて、「新々刀」(しんしんとう)と呼ばれる新しい日本刀を作り上げます。新々刀は、日本刀の革新となり、1876年(明治9年)の「廃刀令」まで制作されました。
水心子正秀(すいしんしまさひで)は、1750年(寛延3年)生まれ。出羽「米沢藩」領の中山村諏訪原(現在の山形県南陽市)の出身です。幼くして父を亡くし、母の実家である赤湯町外山家で育ちます。
長じては、赤湯北町で野鍛冶(のかじ:農具や包丁、鉈などを作る鍛冶)をしながら、長井小出の鍛冶「吉沢三次郎」に学び、腕を磨きました。そののち、刀工を志して武州八王子(現在の東京都八王子市)の「宮川吉英」(みやがわよしひで)のもとで修行し、腕を上げていきます。
そして、1774年(安永3年)、「山形藩」(現在の山形県)2代藩主「秋元永朝」(あきもとつねとも)に召し抱えられ、「川部儀八郎正秀」(かわべぎはちろうまさひで)と名乗ると共に、号を「水心子」としました。
しかし、正秀はこれに満足することなく、たびたび名刀工の子孫を訪ねて教えを請います。中でも、鎌倉時代きっての名人「正宗」の子孫「山村綱広」(やまむらつなひろ)に入門すると、系図と秘伝書を授けられることとなりました。
正秀はその後も研鑽(けんさん:学問などを深く究めること)を積み、工夫を重ねていきます。「山城伝」(やましろでん)、「備前伝」(びぜんでん)などの古法の探求から発見した「おろし鍛え」の方法もそのひとつ。これは、新しい製鉄法で精錬された、いわゆる市販の鉄は用いず、砂鉄の精錬から日本刀の鍛錬までを、古法にしたがって刀工自身が一貫して行なう方法です。
正秀の山城伝は、「粟田口」(あわたぐち)派の作品を手本としており、上品な姿をした「沸」(にえ)の少ない「直刃」(すぐは)に、「小乱れ」(こみだれ)。備前伝は古備前の「一文字」(いちもんじ)派を手本としていますが、逆がかった「小丁子乱れ」(こちょうじみだれ)が交じり、オリジナルの古刀に比べると、刃中の働きがほとんどありません。
このように、正秀は生涯に369振の刀剣を打ちましたが、その技法のすべてを十数冊の本にまとめて公開したと伝えられています。一門の門人も百に達し、北は出羽米沢から、南は薩摩まで全国に及ぶとのことです。
水心子正秀
大慶直胤(たいけいなおたね)は1779年(安永8年)、奥州出羽国山形(現在の山形県)生まれ。通称は「荘司箕兵衛」(しょうじみのべえ)。出羽国の刀鍛冶であった父のもとで作刀を学びました。24歳のとき、刀工を目指して水心子正秀に師事。その技量は師をしのぐと言われ、新々刀前期を代表する刀工のひとりとなります。
正秀の弟子となって間もなく、銘を「大慶直胤」と切るようになりますが、のちに「筑前大掾」(ちくぜんだいじょう)を受領。これを冠し、さらに「美濃介」(みののすけ)に転じることとなります。
直胤は「相州伝」(そうしゅうでん)を最も得意としており、次いで備前伝を得手としていました。おおむね、師である正秀よりも豪壮な作柄です。水心子正秀との比較で直胤の特徴を観ていきましょう。
大慶荘司直胤
源清麿(みなもときよまろ)は1813年(文化10年)に、信濃国小諸藩赤岩村(現在の長野県東御市)の郷士(ごうし:農村に居住した武士)「山浦信友」(やまうらのぶとも)の次男として誕生。兄「真雄」(さねお)と共に、「上田藩」(現在の長野県)の抱え工「河村寿隆」(かわむらとしたか)に刀工の技を学びます。のちに、武士を志して江戸へ上り、幕臣の軍学者であり剣術家でもある「窪田清音」(くぼたすがね)に弟子入りを懇願。清麿の刀工としての腕を評価した清音のはからいで、清音の屋敷内に鍛冶場を持ち、作刀に専念します。
1839年(天保10年)、清音は「3両払えば1振作る」という「武器講」を募集しました。すると、あっと言う間に300両で100振の応募が集まったと伝えられています。このとき最初に仕上げた日本刀は、現在、重要美術品に指定されている名刀となりました。そこには、「山浦環正行天宝十年八月日武器講一百之一」という銘が切られており、「山浦環正行」(やまうらたまきまさゆき)とは、清麿銘を切る前の本名を入れた初銘です。
ところが、清麿は武器講のすべてを仕上げる前に、「長州藩」(現在の山口県)家老「村田清風」(むらたせいふう)の招きに応じて長州藩へ旅立ってしまいます。この頃に制作したのが「長州打」と称される作品です。
その後、1844年(天保15年)に江戸へ戻り、後年、四谷北伊賀町(現在の東京都新宿区四谷)に住んで作刀を続けたことから「四谷正宗」とも呼ばれました。しかし、若い頃からの深酒がたたり軽い脳震盪を起こしたのを悲観して、1854年(嘉永7年)に47歳で自害してしまいます。
清麿の作品は、新々刀期の日本刀の中でも、とりわけ人気が高いと言うことです。その作風は相州伝で、刀身の反りが浅く身幅は広く「鋒/切先」(きっさき)は延び、ふくらは枯れ、焼き幅の広い「匂い」を主体とした丸みのある「大乱れ」、「のたれ乱れ」を焼き、平地に「白髪筋」(しらがすじ)と呼ばれる銀の筋が現れるのが特徴とされています。
源清麿 中嶋兼足佩刀
3両で1振
源清麿の記述でふれました武器講。これは、江戸時代、日本刀を誂(あつら)えるために、数十人がお金を出し合って刀工に依頼する物です。刀を受け取る順番はくじによって決められます。注文して打ってもらうので、長さや重さ、刃文、反りなど、自分の好み通りに制作されるのが最大のメリットです。
窪田清音が募集した武器講は、3両で1振でした。1両は現在の貨幣価値に換算すると10~12万円ほど。当時の武器講における相場、1振2~3両に則していますが、有名な刀匠の日本刀は1振数百両とも言われていますから、現代の清麿人気から考えると、3両で1振はかなりお買い得だったのではないでしょうか。